郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

今年も「巾着田」へ曼珠沙華を見に行ってきました。

2011-09-30 11:21:14 | Weblog
 9月24日(土)&26日(月)
 土曜日に電車で「巾着田」迄行って来たのですが、帰って来てデジカメの写真をパソコンに取り込もうと思ったら、途中から全く写ってない。良く考えてみたら、曼珠沙華公園に入る手前でカメラを落としてしまい、その時に中のディスクが外れてしまっていた為と分かり、土曜日にもう一度車で出かけて写真を撮り、近くの郵便局廻りと、「高麗神社」へ参拝してきました。二日間を合わせた書き方に。
西武池袋線 高麗駅前の混雑    高麗駅裏の売店
 
 土曜日(月曜日も同じだった)なので、電車を降りて、裏に回り歩いている人達について歩けば迷子にはならないが、巾着田までの間には、周辺の農家が地場産品を売る店がかなりの数出店している。
   高麗豆腐        台の高札場       「水天の碑」      巾着田への道
   
    栗園       県道15号線の人出      「巾着田」案内図
  
鹿台橋から高麗川を    高麗川の堰     堰に”シラサギ”(月)    川沿いの道
   
   「曼珠沙華」  咲く前は”アスパラ”見たい  曼珠沙華のアップ    木の枝から
   
「曼珠沙華公園に入ると、写真を撮るために立ち止まる人が多く(自分も)、狭い通路を進むのが大変。丁度見頃な場所と、まだこれからという(遅咲き群生地)が有るので、10月に入っても暫くは見頃が続くのではと思う。
    入口を入った辺り     この辺りも見頃   この枝からも曼珠沙華
  
   ドレミファ橋  先日の台風で対岸の崖崩れ  イベント広場の仮設売店
  
      仮説売店と休憩所       売店の”小判草” 左から黒米・白米・赤米
  
 遅咲き群生地”これから” ”生け花”みたい   あいあい橋を    あいあい橋と下の瀞場
    
 あいあい橋の橋組       白い曼珠沙華はこの辺りに多い      上からのアップ
   
「曼珠沙華公園」を出て、巾着田の内側を歩く。
   ”赤とんぼ”         牧場              ”ウスバカゲロウ”
    
            そば畑(白い花と、赤い花が)                水車小屋
     
   コスモス畑       コスモスに芋虫   ”クルミ”の木に実が   売店の”花ハス”
   
 ”アマクリナム”(アマリリスとクリナムの掛け合わせ) 蛍を育てています カワニナとメダカが一杯
    
     巾着田の一部        ”ショウガ”        稲田とカカシ
  
 途中から月曜日の写真になっていますが、土曜日は良い天気。月曜日は一日雲が多く、今にも降り出しそうな天気なので、イメージが違う。コスモス畑などでは、土曜日は赤とんぼが舞っていたが、月曜日はあまり見られなかった。
巾着田を出て、行ったことのない「高麗神社」から郵便局周りを車でしながら帰る事に。巾着田バス停の交差点を左折して、道なりに進むと、以前回った「聖天院」の前を通って少し進むと【高麗神社】
≪奈良時代の歴史書『続日本記』元正天皇の霊亀二年(716)五月の条に、駿河(静岡)・甲斐(山梨)・相模(神奈川)・上総・下総(千葉)・常陸(茨城)・下野(栃木)の七か国の高麗人千七百九十九人を武蔵国(埼玉)に移して高麗郡を置くとあります。当時の高麗(コマ)は高句麗(コウクリ)のことで、新羅(シラギ)滅亡の後、朝鮮半島を統一した高麗(コウライ)とは別の国です。
高麗郡が設けられたとき、その郡を治めたと伝えられるのは高麗王”若光”です。若光については、『続日本記』文武天皇の大宝三年(703)の条に、従五位下高麗若光に王姓を賜うとあり、すでに位を授けられ、更に王姓を賜ったのは、若光が高句麗の王族であったので特に優遇され、後に郡の統治を任されたものと考えられます。安住の地を与えられたものの、国の中央から遠く離れた辺境の地、武蔵国の一角に移された郡民の困苦は深刻なものであったと思われます。郡民の生活を託された若光は、今の高麗神社の辺りに居を定めて郡民を督励し、祖国の技術をもって荒野を開き産業を起こして民生を安定させ、郡民敬慕のの内に、波瀾に富んだ生涯を終えたと伝えられています。郡民がその徳を偲び、その霊を偲び、その霊を祀ったのが高麗神社の始まりです。≫
     将軍標          鳥居          手水場         「高麗神社」 
   
  「高麗神社」拝殿     高麗家住宅と住宅脇の”枝垂れ桜”の大木
  
拝殿奥に進むと”高麗家住宅”が有り、およそ400年たたずむ、古民家を内部見学日(毎年9月17日~25日)を過ぎていたが、覗かせてもらった。隣に”枝垂れ桜”の大木が有り、季節には物凄いのではないかと思う。来年には必ず見に来ようと思う。
                  高麗家住宅内部
  
    高句麗古墳壁画             壁画から再現した華麗な衣装
  
参拝し、朱印を頂いている頃から、少し雨が降り出し、車で日高市から家に向かう途中の郵便局を4局回り、風景印も本局で、フォルムカードを2種買わせてもらって帰宅。

柳窪天神社へ。

2011-09-25 14:36:01 | Weblog
 9月10日(土曜日)
 5日に、3年振りに昔、「村さ来」の加盟店で逆に三男がアルバイトをさせて頂き、ズーと長く仲良くさせて頂いた遠藤氏より連絡を頂き、高田馬場で楽しく飲ませて頂いた。その時に、毎朝歩いている黒目川を遠藤氏も歩いていると聞き、驚いたが、その中で、「柳窪天神社」の話が出、自分はまだ行っていなかったので行ってみる事に。
 黒目川のいつものコース迄行かず、久留米西団地の下里交番脇から始まる「しんやま親水広場」で、団地内の川沿いに歩く。いつも歩いている黒目川と違って、親水広場なので川が近い。何故か、川の中に足をつけたまま携帯をいじっているおじさんが一人。
交番裏から続く黒目川   親水広場の鴨    ”キバナコスモス”  寂しそうなおじさん一人
   
久留米西団地を抜け、略図のに沿って歩くと、木で造られた遊歩道を第十小学校の裏を歩く。 
  しんやま親水広場略図   第十小の裏の遊歩道  小学校横の遊歩道
   
     散策路案内板       散策路の整備    柳窪緑地保全地域
  
「柳窪緑地保全地域」を抜けると天神橋。ここからが「柳窪天神社」への参道のにもなっており、地域自治会のボランテイアの方や、近くの山崎パン工場の社員の方々が、定期的に川の清掃業務に掛かっているそうで、7・8人の方がごみを拾ったりされていた。「柳窪天神社」へ参拝。全く派手さはなく、”ひっそりと建っている神社”的な雰囲気。”柳窪梅林の碑”の隣りに”柳久保小麦”の説明文が。
≪「梅林の碑」は六所宮(府中の大国魂神社)神主が描いたもので、その中には「来梅ノ荘(クルメノショウ)の里」や「来梅川(クルメカワ)」という名が記されている。≫
≪昔から、武蔵野の大地では米はあまり取れなかった為、代わりに造られた小麦に、戦前まで「柳久保小麦」という品種があり、「武蔵野うどん」が名産として知られていた。≫
    天神橋       天神社への参道     「柳窪天神社」    「柳窪梅林の碑」
   
     「東京の名湧水57選」の場所でボランテイアの方々が     杭の無い場所から
   
今は年に数回しか湧いて来ないそうで、それでも整備をきちんとしておかないと余計出にくくなる。ボランテイアの方に話を聞いていたら、”山崎パン”からの差し入れパンを1個貰ってしまった。
 境内を抜けて少し歩くと、新青梅街道が走り、向かいの「小平霊園」へ北口交差点を渡って入ると、先日一度行った雑木林の中の黒目川の源流である「さいかち窪」。今も水はないが、空の水の道が確認される。
   雑木林に入る   窪から流れ出す土管     さいかち窪    新青梅街道の出口
   
小平霊園から直ぐに戻り、柳窪の住宅地にへ入ると、昔の”武蔵野”そのままと思われる景観。中に、東久留米では現存する唯一の茅葺民家で今年”国の登録有形文化財”に登録された「村野家住宅」。
夜は一人じゃ歩けない  柳窪の住宅街             「村野家住宅」
   
 このところ、毎日歩いて、7・8kg位の減量になっているが、偶には違うコースを歩くのも気分転換になる。住み慣れている場所でも”知らない”場所が多いので、これからもどんどん歩いてみようと思います。宜しく。

 

9月の「新宿御苑」

2011-09-22 12:17:18 | Weblog
 9月8日(木曜日)
 前回、8月26日に行った時は、入園して歩き出して直ぐに雨が降り出し、瞬間的に物凄い雨と雷。傘を持っていなかったので最初は持っていたビニールカッパをかぶって木の陰に逃げ込んだが、園内放送で「木の下に逃げ込まないで下さい」との案内で気が付き、強い雨に濡れて、広いトイレの中に逃げ込んで約40分。膝から下のズボンや履いていた靴の中までぐちゃぐちゃ。この時の雷の凄さは久し振りだった。普通のなら何ともないが、光った途端に”カリ!カリ!”と来るのには驚いた。
 今日は二番目の兄の再入院で、直ぐ上の兄と10時に入院させ、事前検査(心電図・呼吸器機能・レントゲン・採血)に付き添い、12時前に病院を出て、”バルト9”で映画を見様かと思っていったが、時間を調べていかないので、15分進んでしまい、今からだと完全に途中からになるのでやめて、裏の新宿御苑に。
 入園前にインフォーメーションに入り、”今の見頃”情報を地図上で確認してから入る。今日は、先日と違って天気は良く、ゆっくり見て廻る事が出来た。見た順番に写真を載せたいと思います。
 インフォーメーションセンター   キカラスウリの実     ”ウメモドキ”      ”シリブカガシ”
   
  ”ヤブミョウガ”    ”タイワンホトトギス”   ”ホンアマリリス”   ”ヒマラヤシーダ”
   
               ”キンシンジソ”とその種類
   
                  シソの種類                    白い”サルビア”
   
  ”シロシキブ”    ”プラタナス”の並木  プラタナスの下のツルボ   ”ツルボ”
   
    ”ムクゲ”    ”ハナミズキ”の赤い実     ”ノシラン”       ”ヤブラン”
   
紅白の”キョウチクトウ”   ”サルスベリ”      ”コムラサキ”      ”百日草”
   
  ”ハゲイトウ”        ”ススキ”          ”ハギ”     ”タイワンホトトギス”
   
     ”多行松”            ”多行松”の内側      ”センニンソウ”
   
    ”ガマズミ”       ”ウツギ”         ”カジの木”       ”実と花”
    
   ”ガマ”の穂      ”フサフジウツギ”       ーⅡ         ”曼珠沙華”
    
 母と子の森の小川          杉の木の下の ”ラクショウ”
  
 分からない花があったのを、出てからインフォーメーションセンターで撮った写真を見て貰ったら、直ぐに教えて貰えた。今後についても季節毎に回ってみたいと思います。
2時間。5,426歩。

95歳の義母を連れて、結果”ぶどう狩り”に。

2011-09-21 20:44:23 | Weblog
 9月7日(水曜日
 そろそろ時期になったので、日高市の方へ”栗拾い”に行こうと、三男の休みの日に企画。義姉に声を掛けたら、95歳のお義母さんも一緒に行く事になり、車二台で行く事に。
義姉が、いつもの様に花小金井駅までお義母さんを連れてきてくれ、息子達の車と二台で出発。新青梅街道から、瑞穂町の箱根ヶ崎を通って国道16号線に出て、小谷田を左折して国道299号線。以前は飯能市内を通らないと行けなかったが、今はそのまま”飯能狭山バイパス”を走り、滝不動尊の手前で、昔のコースと合流し、片側一車線を走る。2・3年前に巾着田へ”曼珠沙華”を見に義姉を誘って行った帰りに寄った高麗川沿いの「平栗園」で”栗拾い”&”バーベキュー”と思っていたが、「今年の栗は、まだイガが落ちていない。後2週間位が」との事で、秩父まで走る。出たのが遅かったので、秩父に着いたら丁度昼食に良い時間。皆を連れて、秩父市役所前の「秩父そば・立花」へ。ここは昔の「村さ来秩父店」御主人夫婦が以前の店長夫婦で、村さ来加盟当初から仲の良いご夫婦で、看板を替えてからも2回目。蕎麦も美味しかったが、セットメニューに入っていた”そば豆腐”が美味しかった。
  秩父そば 立花      立花店内       これから昼食       立花夫妻
   
 ゆっくり食べていたので、慌てて出る事にしたが、会計時に、逆にお土産を貰ってしまった。結局”栗拾い”はどこもだめで、急遽”ぶどう狩り”に変更し、何か所か電話をかけて紹介してもらったが、最後に紹介してもらった「やまねぶどう園」に。日によって獲れる”ぶどう”の種類が違うらしい。休憩所の頭の上にも”ぶどう”が一杯。
やまねぶどう園直売所     休憩所        ”ギザマート”  ”レッドネヘルスコール”
    
 これ、獲っても良い?   見て!初めて。       僕も       今日の”ナイアガラ”
   
皆が獲った以外に、巨峰より大きくて種のない”藤稔(フジミノリ)”が見事だったので別買いして帰ったが、”藤稔”が美味しかった。
 時間が余ったので、”どうしよう?”となり、折角なので【秩父神社】へ寄ってみる事に。
≪ご創建は、平安初期の典籍『先代旧事記ー国造本記ー』によれば、第十代崇神天皇の御代に、知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りした事に始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。元慶二年(878)には、神階正四位下に進み、延長五年(927)に編纂された『延喜式』にも掲載される等、関東でも屈指の古社の一つに数えられています。又、中世以後は、関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。現存するご社殿は、天正二十年(1592)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めている事などから、埼玉県の有形文化財に指定されています。又、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に、日本三大曳山祭りの一つに数えられています。≫
 裏の駐車場?に車を止めて、裏から入る。
  秩父神社境内案内図         秩父神社山門           秩父神社御本殿
    
     「つなぎの龍」           「北辰の梟」           「お元気三猿」
     
それぞれに、薀蓄も控えてきたが、今日は、ここまで来る予定ではなかったので、朱印帳も持ってきておらず、又来る事になると思うので、そこで書く事にします。
境内の端でチェンソーを使っている人達が居るので見に行ったら、先日の台風で、社務所裏の”ケヤキ”の大木が折れ、神社の木造の屏を壊して境内に倒れてきたので、そのままでは重くて運べないので、チェンソーで小さいブロックに切って片づけるらしい。
社務所の裏のケヤキが倒れ神社の塀を破壊し      運び易く小さなブロックに
   
先日、団地でも桜の木が倒れたり、今日(9月21日)の台風でも渋谷道玄坂の街路樹が倒れて車が下敷きになったり、色んな場所での倒木が確認されているが、ここで見たような作業は初めて見た。
帰りは、お義母さんと義姉を中野の哲学堂まで送り、家に帰ってきたら、距離はそれ程でもなかったのに、流石に疲れた。

鎌倉・寺社巡り 第三弾ー2

2011-09-20 21:08:29 | Weblog
 8月27日(土曜日)
 「御霊神社」の境内を横に抜けて、細い路地を曲がって行くと、長谷寺の駐車場の所に出、駐車場を横切って【海光山慈照院 長谷寺】に。
 住宅に”アプチロン”     「長谷寺」門前      地蔵堂前の卍池
    
【天平八年(736)、大和の長谷寺の開基である徳道上人を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和(奈良県)の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老五年(721)に徳道は、樟の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の「長谷寺」であり、もう1体(末)を祈祷の上で、海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。≫ 
拝観料(300円)を払い、道順に沿って階段を登ると、地蔵堂が有り、前に”卍池”があり、その上に上がっていくと観音堂や大黒堂などの前を通り越して、取りあえず湘南海岸が見渡せる展望台に行って休憩。
   湘南海岸が見える展望台        トンビに注意        仏足石
    
    まわり堂       ”ウメモドキ”        大黒天像       ミストクーラー
   
     鐘楼      途轍もなく大きい”木行” ハンカチの木の実      弁天洞窟
   
    和み地蔵        秋明菊       ”山査子(サンザシ”    白いサルスベリ 
   
   ”シモツゲ”      妙智池の大賀蓮 大賀蓮の花を見上げる亀 白いキキョウが一輪
   
 ゆっくり見て歩いて、外に出ると御霊神社に有ったと同じ”椨(タブ)”の木が良い感じで。人で込み合っている参道を歩くと、明治末期からこの場所で営まれ、昭和二年に建てられ、戦前の和風旅館として、歴史的にも大変貴重な建物である、旅館「對僊閣」。長谷通りに出て、鎌倉大仏で有名な【大異山 高徳院】へ狭い歩道を並んでいるお店を覗き、”カボチャのキンツバ”を買って食べながら歩く。
長谷寺山門前の”椨の木”    旅館「對僊閣」        カボチャのキンツバ
    
≪『吾妻鏡』には、歴仁元年(1238)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243)に開眼供養が行われたという記述がある。この時の大仏は”木造”だった。一方。、建長四年(1252)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記述もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する『鎌倉大仏』であるとするのが定説である。
鎌倉大仏が建立されている場所は、元々長谷の「おさらぎ」という地名であった。そのため、鎌倉大仏に限っては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合がある。又、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓がある。≫
   高徳院参道    境内の”サンゴジュ”     鎌倉大仏
  
 参拝し、朱印を申し込んでから大仏の裏に行ってみる。昔はこの奥に野生の”リス”への”餌付け”場所があり、楽しみだったが、近隣の住宅の方に迷惑をかけるので、餌付けも禁止されており、昔の餌付け場所には新しくトイレが建てられていた。昔買った大仏が描かれた”干支のお守り”を買い換えようと思って、お札所で聞いてみたら、「そのお守りは、今は取り扱っていません」と言われ、”このまま取っとこう”。先ほど歩いて来た”長谷通り”を戻り、長谷観音前交差点迄戻ったら、「生しらす」の幟旗が目につき、中からも声を掛けられたので入ってみた。店名は「甚兵衛」との事だが、店名はどこにも描かれていない。好きなアイスクリームや山形の”玉コンニャク”もあるが、何にもまして「生しらす丼」を注文。
 ”生しらす”の幟旗       「甚兵衛」          「生しらす丼」
    
 生しらす漁も今年は不良で、大変らしいが、サッパリした味で美味しかった。ここから鎌倉駅まで歩いてみる。気になる建物などを取り上げていきます。
   鎌倉彫・寸松堂     寸松堂の”樋”    これより東海道    毎日新聞販売店
   
 由比ヶ浜大通りを、もうそろそろ鎌倉駅へ曲がろうという交差点に変わった建物が建っており、通りを右に渡って見に行った。看板は「THE BANK」の表示が有り、”Bar”の表示が出ており、なんだか分かりにくいので、角の誠雲堂薬局のドアーを開けて中に入り、御主人にお聞きしたら、大変な事になった。”待ってました”的に、御主人が紙に書きながら説明をしてくれる。前の通りを広げる話から始まって、先に行きたいのが、話を聞き終わらないと行けない状況になってきた。関東大震災後に道路拡張から「鎌倉銀行由比ヶ浜出張所」が建設された事や、「誠雲堂薬局」も同じ時期に改葬された話まで、聞き終わるのにかなりの時間が掛かってしまった。面白い御主人だったが、疲れた。
 「THE BANK」鎌倉銀行由比ヶ浜出張所   誠雲堂薬局の御主人  大正の誠雲堂薬局
   
 御主人の話から逃れ、駅に向かって歩くと親子で刃物を研いでいるのが外から見え、入ってみると、研ぎが専門らしいが、昔懐かしい”肥後の神”が置いてあったので、買おうと思ったら、「警察がうるさいですよ」と云われた。昔は、必ずポケットに入っていたもので、高等師範(教育大学、今の筑波大学)の大きな庭に陣地を造って遊んでいたころは、必需品だったのに、時代が変わったので致し方なく、切れそうなハサミを一本買わせて貰った。通りから駅に向かう”御成通り”に入ると、鎌倉時代の武将の名前が書かれた幟が何本も立つ中、紙の専門店が。
 打刃物司 鎌倉菊一    菊一の看板           紙屋
  
   御成通り        旧安保小児科   鎌倉駅西口の時計台
  
鎌倉駅に着いた時に歩数を控え忘れており、1時半に江の島に着いた時に(早朝散歩が有ったので)16,589歩から始まり、帰りがけに恵比寿の気になる居酒屋で飲んで家に着いたら27,654歩だった。4時間半。8,000歩位かなと思う。

鎌倉・寺社巡り 第三弾

2011-09-19 21:54:17 | Weblog
 8月27日(土曜日)
 ブログを描くのを暫く出来ず、申し訳有りませんでした。
先週の12日から15日まで、中国地方の5県を歩き、走り廻ってきました。近々に見聞きして来た事を描かせてもらおうと思っていますので、ご期待ください。
 今日は「鎌倉・寺社巡り第三弾」として、今までに書かれていない場所を、仲の良い友人と回ってきました。今日は、東京駅から東海道線に乗り、大船で下車。先日大船を回った時に知ったモノレールで江の島まで行ってみる事に。先日は一駅だけ乗ってみたのですが、今日は終点の湘南江の島駅まで。JRを下り、改札を出て”湘南モノレールの駅まで歩き、終点まで300円。
  大船駅に入線        乗車       片瀬山駅ですれ違い  湘南江の島駅着
   
上から吊るされたモノレールは、これで二回目だが、かなり揺れるので、一番前で写真を撮っていてもどこかを握っていないと危なくてしょうがない。それなりに乗降もある様で、生活路線になっている。
 終点で下りると、5階建ての駅ビルの5階がホームで、4階が切符売場と改札。ビルを出て、少し歩くと、江ノ電”江ノ島駅が有り、ここから江ノ電に乗り、極楽寺駅に向かう。
 江ノ電”江ノ島駅”     江ノ電の入線       稲村ケ崎駅      極楽寺駅
   
極楽寺駅着。ここは駅舎の反対側にお寺が有り、駅を一回りしないといけない。この駅は「閑東の駅百選」に選ばれ、”認定書”が貼り出されていました。
   江ノ電”極楽寺”駅舎       駅前の川          【極楽洞】
    
≪江ノ島電鉄が所有する煉瓦造りの坑門で、右手の桜橋からみる事が出来ます。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形を留めています。江ノ電が極極楽寺を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を偲ばせます。≫
   極楽寺山門       極楽寺境内(サルスベリ)       極楽寺参道
     
駅を半分回り込むと【極楽寺】参道から境内の掃除を毎日なさっているのだろうが、これから落ち葉の時期になると、無くなるまで毎日同じ事の繰り返しになり、大変な事だ。”境内撮影禁止”の標示が有り、”少し”遠慮する。境内真中に有る大きな”サルスベリ”は見ものだが、少し勢いが落ちてきていた。朱印を頂き参拝。
≪真言律宗 霊鷲山感応院 極楽率寺。開山は良観坊忍性。奈良西大寺叡専門下で戒律を学ぶ。弘長二年(1262)に北条業時に招かれて、多宝寺住持となり、その後文永四年(1267)に極楽寺に開山として迎えられました。正元元年(1259)に深沢に創建され、後に開基となる北条重時が現在地に移転したといわれています。元寇に際しては、調停の命により、国家安泰を祈る祈願所としての寺格を保ちました。かつての寺域は広大で、中心の七堂伽藍を囲む様に多くの子院、そして寮・病院などの病院施設もあった事が、当寺に伝わる絵図からわかります≫
極楽寺を出てきたら、丁度極楽洞から江ノ電が出てきたのを撮れ、切通しを下りていくと、左の急階段を登った先の”虚空蔵堂”の上り口に【星の井】。
   「御霊堂」      極楽洞から江ノ電が   極楽寺坂切通し      星の井
      
≪鎌倉十井の一つで、”星月夜の井””星月の井”とも呼ばれています。昔、この井戸の中に、昼間も星の影が見えた事からこの名が付いたと云われています。奈良時代の名僧・行基は井戸から出てきた光り輝く石を、虚空蔵菩薩の化身と思い、御堂を建てて、虚空蔵菩薩を祀ったという伝説もあります。井戸の水は、清らかで美味だったので、昭和初期まで旅人に、飲料水として売られていたそうです。≫
急階段を登って虚空蔵堂に参拝し、御霊神社へ曲がる角に「老舗 力餅家」が有り、そのまま進むと江ノ電の踏切越しに【御霊神社】が見える。
 虚空蔵堂への階段     虚空蔵堂       老舗「力餅家」   江ノ電越しに御霊神社
   
≪御霊とは、”強く尊い祖先の御霊”の意で、神社の創建は、平安時代後期と伝えられています。桓武天皇の子孫で、「鎌倉武士団」を率いた鎌倉権五郎景昌を祀っています。景昌は、「後三年の役(1083)に十六歳で出陣して有名をはせ、その後現在の鎌倉・湘南地域を開発した領主です。地元では、「権五郎さま」と呼ばれ、親しまれています。毎年九月に行われる「面掛行列」は、伎楽や舞楽・田楽の古い面をつけた面掛衆が練り歩く、珍しい祭事です。≫
    御霊神社     境内から鳥居前を通る江ノ電    椨(タブ)の木
    
 境内は雰囲気が良く、朱印を頂く間に参拝。境内には、権五郎が御料地を見まわる際に、弓を立てかけられたと伝えられる「引立の松」や、”かながわの名木100選(市天然記念物)”に選ばれている、樹齢約350年の”坂の下の御霊神社「椨(タブ)の木」”等で良い雰囲気を醸し出しており、丁度鳥居前を江ノ電が通貨。(極楽洞から出てきた瞬間が、人気の撮影スポット)
 まだまだ長くなりそうなので、一度ここで切らせて頂きます。

下里・氷川神社の”盆踊り”へ。

2011-09-04 22:55:18 | Weblog
 8月14日(日曜日)
 昼間の川遊びで疲れて寝てしまった孫達が起きるのを待って、歩いて下里の氷川神社へ。孫も歩いているので倍以上の時間がかかるが、西団地前の交差点に近くなると太鼓の音が夜空に響いて聞こえてくる。氷川神社には駐車場はないが、医院が4軒集合してる場所の駐車場が解放されているらしい。
氷川神社盆踊り会場   太鼓を叩く島崎氏  一輝が拾ったセミを   瑞希が掴んで
   
太鼓を叩いていたのが、このところ毎日ブルーベリーを買いに行っている家の御主人で、島崎せいじさんだったのでびっくりして写真を撮ってしまった。市会議員を1期やっていたらしい。
下の屋台の方は、混みあっているのと、暗いのとで、ゴチャゴチャ。その中でも”くじ”に子供が群がっていた。
  ソースせんべい       綿あめ         雰囲気ー1      雰囲気を楽しむ
   
  5等。何位する      風船欲しそう    座って食べるところがないので末社に失礼
    
  おどける瑞希      君もプリキュア?    気に入ったの?      踊り手
    
 帰るにつけて、屋台でも殆ど食べていないので、孫が「牛丼が良い」というので、最近出来た「すき家」で食事をしたが、小さいのにちゃんと食べていた。    

落合川へ川遊びに。

2011-09-04 21:47:24 | Weblog
 8月14日(日曜日)
 息子の休日なので、皆を連れて、落合川へ川遊びに。
息子の車で、川まで送ってもらい、駐車場に置きに行っている間に、川辺にテントを張って、水着を着て行った孫達を連れて川の中へ。
この辺りは”いこいの水辺”と呼ばれ、この辺りだけ川の中に入って遊べるのだ。昨年も連れてきたらすごく喜んでくれたので、今年も来る事に。
      川の中に            川辺にテントを        川床から湧水が
    
  何が居る?        ”タニシ”         ”ザリガニ”      気持ち良い
   
 ママ、何か居る?       大丈夫?        ハイ・ポーズ      皆で楽しく
   
一応都内で、幼児が川に入って遊べる川が有るなんて知ってますか?。毎日の様に歩いている黒目川は下流で落合川と合流して黒目川となり、新座市・朝霞市を抜け、和光北ICの辺りで新河岸川となり、最終的に荒川に注いでいる。落合川は、水遊びをしている”いこいの川辺”の1kmばかり上流が源流となっており、入れないが浄水所がある。綺麗な所だ。
昼食を食べて、少し休んだら、夜は、下里の”盆踊り”に行く予定。

黒目川散歩の近況。

2011-09-04 17:44:29 | Weblog
8月後半の「黒目川」
 7月24日から歩き出した「黒目川散歩」。朝から鎌倉・栃木・浜松に行った以外、三日間、雨で出来なかった以外は毎日続いている。7月22日の朝に83.5kg有ったのが、今朝歩き出す前に測ったら76kg。まだ誰も”痩せたんじゃない?”と言ってくれない。言ってくれるまで頑張らなくっちゃ。
 今日も途中でポツポツ来たが、その後降られずに済んだ。気にしていると、毎日景色が変わっていくし、鯉・亀・鴨・等は毎日同じところに住みついて居るが、シラサギも殆ど毎日と云っていいくらいみる事が出来、歩く楽しみの一つになっている。この辺りに住み着いているのかも。
 今日は、8月13日以降、毎日の様に見ている”シラサギ”の写真を少し見てもらおうかと思う。
8月13日(土曜日)に、以前見させてもらった”ササゲ(赤飯の豆)”に綺麗な薄紫の小さな花が咲き、東久留米総合高校脇の川にいた”サギ”が飛び立つ瞬間を。
    ”ササゲ”       ”ササゲ”の花    総合校脇の”サギ”   飛び立つ瞬間
    
8月15日(月曜日)には”サギ”が川の中で何故か踊りだし、撮影するのに慌ててしまった。
               ”サギ”のダンス                  木の天辺に悠然と
   
8月17日(水曜日)には飛んで行った”サギ”とは別の”サギ”が川魚を獲った瞬間が撮れた。
総合校脇を飛ぶ”サギ” 鴨と一緒に獲物を   川魚を咥えた瞬間    結構大きい魚だ
   
8月26日(金曜日)には、「大円寺」脇の小さな畑にオレンジ色の”ジンジャー”が咲いた。
  ”ジンジャー”        アップ        柿が色付き出した     蝉の死骸が
   
今日は、9月4日(日曜日)もう季節は”秋”に。あれだけうるさかった蝉も、今は所々で鳴くも、居場所が分かる位の感じ。今日は”サギ”は見なかったが、虹色に光った背中を持つ小さな”トカゲ”を見た。毎日デジカメを持って歩いてはいるが、この頃は”サギ”を見ても撮らず、以前撮った事が有る”アオサギ”や、一度見たが撮れなかった”ヘビ”を探して歩いています。又、何か新しい物が撮れたらブログに載せます。「黒目川散歩」もいつまで続けられるか・・・。
 先日、「おじさんの会」のお誘いを受けたのですが、二番目の兄の再度の入院(8日)と、手術(9日)にもろにぶつかってしまい、行きたかったけど今回は無理だった。直ぐに別の規格が有るそうなので、そちらを楽しみに。

鎌倉・寺社巡り 第二弾ー3

2011-09-03 22:55:29 | Weblog
 8月12日(金曜日)
 「鎌倉宮」で”朱印”を頂いた時に、社務所の方に「瑞泉寺へ行くのは」とお聞きしたら「鎌倉宮に沿った道を行けば良いのですが、途中に平山郁夫さんの家が有りますよ」と教えてくれたので、ついでだから探して歩いてみる事に。”瑞泉寺700m”の標識を見ながら鎌倉宮に沿った道を歩く。道路から右に少し引っ込んだ建物の塀に気になる小さな看板があり確認。道に沿った直ぐの家が自宅みたい。
  気になった建物 「平山郁夫シルクロード美術館」事務局   平山郁夫氏自宅
    
 鎌倉宮の敷地に続いた所のローンテニスクラブの真ん前が平山画伯の自宅。テニスクラブの先に”永福寺跡”の石碑だけ建っている。二階堂川に架かる通玄橋を渡り、ダラダラ坂を登って行くと”紅葉谷”の表示が有り、11月頃に来ると景色も変わるのだろう。その先に【錦屏山 瑞泉寺】
≪鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式ある寺院です。山号の錦屏山は、寺を囲む山々の紅葉が錦の屏風の様に美しい事から付けられたと言われています。又、境内は、四季を通じて様々な花を楽しむ事が出来ます。開山の夢窓国師は、後醍醐天皇や足利尊氏も深く帰依し、鎌倉~南北朝期に禅宗で重きをなした僧です。作庭にも才を発揮し、昭和45年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は、国師の作として、国の名勝に指定されています。≫
     山門        山道脇の小道    男坂(左)と女坂の階段   本殿への門
   
  門の右の手水場    庭の”キキョウ”       本堂      天然記念物”オウバイ”
   
社務所で”朱印”を頂き、狭い通路の庭を歩いてみた。裏の庭園が有名らしいが、自分にはどこが良いのか全く分からなかった。鐘楼の手前の両側には何故か”象”の置物が”狛犬の様に並んで。又、何故か「松陰吉田先生留跡碑」が男坂の階段の上に。帰りは男坂の階段を降りるが、登ってきた女坂の階段とは全く違い、昔の儘の様(削れたままで歩きにくい)だ。
  庭の地蔵堂           夢窓国師が策定したと伝える”庭園”の一部
    
 鐘楼と象の置物   松陰吉田先生留跡碑   ”ヤブミョウガ”      ”玉紫陽花”
    
 今来た道を、鎌倉宮の先まで戻り、左折して川を渡り、第二小学校の校庭に沿って歩くと、県道204号に出て左折すると、鎌倉女子大学二階堂学者を過ぎると、突然左に【大蔵山 杉本寺】が。見上げる先に長~い階段が見え、”え!これ上がるの!”眩暈がする。
≪鎌倉幕府が成立する500年も前の奈良時代の天平六年(734)に行基が開いたと伝える”鎌倉最古”の寺です。行基は奈良の大仏造営への貢献や貧民救済の社会事業などで知られています。本尊の十一面観音像三体は、国又は、市指定の重要文化財で、内一体は行基の作とされています。板東三十三観音霊場の第一番札所で、八月十日の縁日は参拝者で賑わいます。≫(二日前だった)
  大蔵山 杉本寺   本堂への階段(124段)  杉本寺山門        ”閼伽水”
    
    「杉本寺」本堂          ”鐘楼”     本堂正面の階段(通行止め)
    
 境内の大蔵弁財天   弁財天前の香炉      弁財天脇の洞窟  
   
 県道204号線を歩くと、浄妙寺バス停の先に(鎌倉五山の五位)【稲荷山 浄妙寺】
≪源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣・足利義兼が退耕行勇を開山として建立しました。行勇は源頼朝や政子が帰依した高僧です。鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に二十三の塔頭を持つ大寺院でした。現在は、総門・本堂・客殿・庫裡が残っています。茶室・喜泉庵と、枯山水の庭は平成三年に復元されました。本堂奥にある鎌足稲荷神社は、鎌倉の地名の由来になったとされています。≫
  「浄妙寺」山門      「浄妙寺」本堂         茶室・喜泉庵
    
 県道204号に戻り、通りを超えた反対側のバス停横の”華の橋”を渡ってそのまま進むと通称”竹の寺”と呼ばれる【功臣山 報国寺】
≪足利・上杉両氏の菩提寺として栄えました。建武元年(1334)の創建。開基については足利尊氏の祖父・足利家時とも上杉重兼とも言われており、開山は五山文学を代表する天岸慧広(仏乗禅師)です。仏乗禅師は、中国より招聘された円覚寺の開山・無学祖元に師事し、後に中国へ渡って修行した高僧です。開山自筆と伝えられる『東帰集』や、自ら使用した「天岸」、「慧広」の木印は国の重要文化財で、鎌倉国宝館に保管されています。孟宗竹の竹林が有名で、”竹の寺”とも言われています。永享十年(1438)に起きた”永享の乱”で敗れた鎌倉公方・足利持氏の子義久がこの寺で自刃している。≫
入口から、きちんと整備されており、夏の終わりを告げる”カナカナ”の鳴き声が良い響きに感じる寺。特に竹林は、京都嵯峨野の大河内山荘周辺を思い出す雰囲気(あんなに広くはないが)が。竹林を見ながら抹茶の頂ける場所が設けられており、女性には人気スポットに。
 滑川に架かる華の橋下  功臣山報国寺山門      「報国寺」本堂
     
     裏庭の”竹林”         竹林観察所       裏庭と崖の洞窟
    
報国寺が”今日一”の寺だった。前回のお寺を入れても一番雰囲気のあるお寺ではないかと思う。ここまで結構歩いてきたのと、6時前には店に出なければならないので、帰りは、浄妙寺バス停からバスに乗って鎌倉駅まで。約35分。
朱印:7寺社。5時間15分。13,588歩の”鎌倉寺社巡り”でした。