9月24日(土)&26日(月)
土曜日に電車で「巾着田」迄行って来たのですが、帰って来てデジカメの写真をパソコンに取り込もうと思ったら、途中から全く写ってない。良く考えてみたら、曼珠沙華公園に入る手前でカメラを落としてしまい、その時に中のディスクが外れてしまっていた為と分かり、土曜日にもう一度車で出かけて写真を撮り、近くの郵便局廻りと、「高麗神社」へ参拝してきました。二日間を合わせた書き方に。
西武池袋線 高麗駅前の混雑 高麗駅裏の売店
土曜日(月曜日も同じだった)なので、電車を降りて、裏に回り歩いている人達について歩けば迷子にはならないが、巾着田までの間には、周辺の農家が地場産品を売る店がかなりの数出店している。
高麗豆腐 台の高札場 「水天の碑」 巾着田への道
栗園 県道15号線の人出 「巾着田」案内図
鹿台橋から高麗川を 高麗川の堰 堰に”シラサギ”(月) 川沿いの道
「曼珠沙華」 咲く前は”アスパラ”見たい 曼珠沙華のアップ 木の枝から
「曼珠沙華公園に入ると、写真を撮るために立ち止まる人が多く(自分も)、狭い通路を進むのが大変。丁度見頃な場所と、まだこれからという(遅咲き群生地)が有るので、10月に入っても暫くは見頃が続くのではと思う。
入口を入った辺り この辺りも見頃 この枝からも曼珠沙華
ドレミファ橋 先日の台風で対岸の崖崩れ イベント広場の仮設売店
仮説売店と休憩所 売店の”小判草” 左から黒米・白米・赤米
遅咲き群生地”これから” ”生け花”みたい あいあい橋を あいあい橋と下の瀞場
あいあい橋の橋組 白い曼珠沙華はこの辺りに多い 上からのアップ
「曼珠沙華公園」を出て、巾着田の内側を歩く。
”赤とんぼ” 牧場 ”ウスバカゲロウ”
そば畑(白い花と、赤い花が) 水車小屋
コスモス畑 コスモスに芋虫 ”クルミ”の木に実が 売店の”花ハス”
”アマクリナム”(アマリリスとクリナムの掛け合わせ) 蛍を育てています カワニナとメダカが一杯
巾着田の一部 ”ショウガ” 稲田とカカシ
途中から月曜日の写真になっていますが、土曜日は良い天気。月曜日は一日雲が多く、今にも降り出しそうな天気なので、イメージが違う。コスモス畑などでは、土曜日は赤とんぼが舞っていたが、月曜日はあまり見られなかった。
巾着田を出て、行ったことのない「高麗神社」から郵便局周りを車でしながら帰る事に。巾着田バス停の交差点を左折して、道なりに進むと、以前回った「聖天院」の前を通って少し進むと【高麗神社】
≪奈良時代の歴史書『続日本記』元正天皇の霊亀二年(716)五月の条に、駿河(静岡)・甲斐(山梨)・相模(神奈川)・上総・下総(千葉)・常陸(茨城)・下野(栃木)の七か国の高麗人千七百九十九人を武蔵国(埼玉)に移して高麗郡を置くとあります。当時の高麗(コマ)は高句麗(コウクリ)のことで、新羅(シラギ)滅亡の後、朝鮮半島を統一した高麗(コウライ)とは別の国です。
高麗郡が設けられたとき、その郡を治めたと伝えられるのは高麗王”若光”です。若光については、『続日本記』文武天皇の大宝三年(703)の条に、従五位下高麗若光に王姓を賜うとあり、すでに位を授けられ、更に王姓を賜ったのは、若光が高句麗の王族であったので特に優遇され、後に郡の統治を任されたものと考えられます。安住の地を与えられたものの、国の中央から遠く離れた辺境の地、武蔵国の一角に移された郡民の困苦は深刻なものであったと思われます。郡民の生活を託された若光は、今の高麗神社の辺りに居を定めて郡民を督励し、祖国の技術をもって荒野を開き産業を起こして民生を安定させ、郡民敬慕のの内に、波瀾に富んだ生涯を終えたと伝えられています。郡民がその徳を偲び、その霊を偲び、その霊を祀ったのが高麗神社の始まりです。≫
将軍標 鳥居 手水場 「高麗神社」
「高麗神社」拝殿 高麗家住宅と住宅脇の”枝垂れ桜”の大木
拝殿奥に進むと”高麗家住宅”が有り、およそ400年たたずむ、古民家を内部見学日(毎年9月17日~25日)を過ぎていたが、覗かせてもらった。隣に”枝垂れ桜”の大木が有り、季節には物凄いのではないかと思う。来年には必ず見に来ようと思う。
高麗家住宅内部
高句麗古墳壁画 壁画から再現した華麗な衣装
参拝し、朱印を頂いている頃から、少し雨が降り出し、車で日高市から家に向かう途中の郵便局を4局回り、風景印も本局で、フォルムカードを2種買わせてもらって帰宅。
土曜日に電車で「巾着田」迄行って来たのですが、帰って来てデジカメの写真をパソコンに取り込もうと思ったら、途中から全く写ってない。良く考えてみたら、曼珠沙華公園に入る手前でカメラを落としてしまい、その時に中のディスクが外れてしまっていた為と分かり、土曜日にもう一度車で出かけて写真を撮り、近くの郵便局廻りと、「高麗神社」へ参拝してきました。二日間を合わせた書き方に。
西武池袋線 高麗駅前の混雑 高麗駅裏の売店
土曜日(月曜日も同じだった)なので、電車を降りて、裏に回り歩いている人達について歩けば迷子にはならないが、巾着田までの間には、周辺の農家が地場産品を売る店がかなりの数出店している。
高麗豆腐 台の高札場 「水天の碑」 巾着田への道
栗園 県道15号線の人出 「巾着田」案内図
鹿台橋から高麗川を 高麗川の堰 堰に”シラサギ”(月) 川沿いの道
「曼珠沙華」 咲く前は”アスパラ”見たい 曼珠沙華のアップ 木の枝から
「曼珠沙華公園に入ると、写真を撮るために立ち止まる人が多く(自分も)、狭い通路を進むのが大変。丁度見頃な場所と、まだこれからという(遅咲き群生地)が有るので、10月に入っても暫くは見頃が続くのではと思う。
入口を入った辺り この辺りも見頃 この枝からも曼珠沙華
ドレミファ橋 先日の台風で対岸の崖崩れ イベント広場の仮設売店
仮説売店と休憩所 売店の”小判草” 左から黒米・白米・赤米
遅咲き群生地”これから” ”生け花”みたい あいあい橋を あいあい橋と下の瀞場
あいあい橋の橋組 白い曼珠沙華はこの辺りに多い 上からのアップ
「曼珠沙華公園」を出て、巾着田の内側を歩く。
”赤とんぼ” 牧場 ”ウスバカゲロウ”
そば畑(白い花と、赤い花が) 水車小屋
コスモス畑 コスモスに芋虫 ”クルミ”の木に実が 売店の”花ハス”
”アマクリナム”(アマリリスとクリナムの掛け合わせ) 蛍を育てています カワニナとメダカが一杯
巾着田の一部 ”ショウガ” 稲田とカカシ
途中から月曜日の写真になっていますが、土曜日は良い天気。月曜日は一日雲が多く、今にも降り出しそうな天気なので、イメージが違う。コスモス畑などでは、土曜日は赤とんぼが舞っていたが、月曜日はあまり見られなかった。
巾着田を出て、行ったことのない「高麗神社」から郵便局周りを車でしながら帰る事に。巾着田バス停の交差点を左折して、道なりに進むと、以前回った「聖天院」の前を通って少し進むと【高麗神社】
≪奈良時代の歴史書『続日本記』元正天皇の霊亀二年(716)五月の条に、駿河(静岡)・甲斐(山梨)・相模(神奈川)・上総・下総(千葉)・常陸(茨城)・下野(栃木)の七か国の高麗人千七百九十九人を武蔵国(埼玉)に移して高麗郡を置くとあります。当時の高麗(コマ)は高句麗(コウクリ)のことで、新羅(シラギ)滅亡の後、朝鮮半島を統一した高麗(コウライ)とは別の国です。
高麗郡が設けられたとき、その郡を治めたと伝えられるのは高麗王”若光”です。若光については、『続日本記』文武天皇の大宝三年(703)の条に、従五位下高麗若光に王姓を賜うとあり、すでに位を授けられ、更に王姓を賜ったのは、若光が高句麗の王族であったので特に優遇され、後に郡の統治を任されたものと考えられます。安住の地を与えられたものの、国の中央から遠く離れた辺境の地、武蔵国の一角に移された郡民の困苦は深刻なものであったと思われます。郡民の生活を託された若光は、今の高麗神社の辺りに居を定めて郡民を督励し、祖国の技術をもって荒野を開き産業を起こして民生を安定させ、郡民敬慕のの内に、波瀾に富んだ生涯を終えたと伝えられています。郡民がその徳を偲び、その霊を偲び、その霊を祀ったのが高麗神社の始まりです。≫
将軍標 鳥居 手水場 「高麗神社」
「高麗神社」拝殿 高麗家住宅と住宅脇の”枝垂れ桜”の大木
拝殿奥に進むと”高麗家住宅”が有り、およそ400年たたずむ、古民家を内部見学日(毎年9月17日~25日)を過ぎていたが、覗かせてもらった。隣に”枝垂れ桜”の大木が有り、季節には物凄いのではないかと思う。来年には必ず見に来ようと思う。
高麗家住宅内部
高句麗古墳壁画 壁画から再現した華麗な衣装
参拝し、朱印を頂いている頃から、少し雨が降り出し、車で日高市から家に向かう途中の郵便局を4局回り、風景印も本局で、フォルムカードを2種買わせてもらって帰宅。