4月9日(月曜日)
家内が亡くなった2か月後の4年前、西武有楽町線の「新桜台駅」から地下鉄有楽町線「氷川台駅」迄歩き、そこから始めて石神井川を見ながら郵便局を廻って王子駅まで歩いて見ましたが、東武東上線の「中板橋駅」に近くなるまではそれ程桜も多くなかったので、今回は、昼過ぎに池袋の税理士事務所へ3月分の資料を持参してから、東上線に乗って「中板橋駅」下車。商店街を抜けて「久保田橋」の処から石神井川になり、今日は石神井川に架かる各橋上から下流に向けて写真を撮ったのを載せて見様と思います。桜も散りだす前で、ほぼ満開状態で、もの凄く綺麗でした。
久保田橋から 山中橋から 新西原橋から 根村橋から 中根橋から
双栄橋から 西開橋から 堰の上橋から 西宿裏橋から 愛染橋から
石神井川の右岸を歩いてくると、以前通った時にも見た『氷川つり堀公園』(活き粋いたばし まちなみ景観賞)があり、年配者(年寄とは言わない)に混じって若い女性も釣っていたが、この”つり堀”は竿とエサ(練り餌は禁止)を持参すれば入場無料。大きい魚は居ないらしく、金魚・ハヤ・タナゴ・コイ・フナ・クチボソが釣れる(キャッチ&リリース)そうだ。
「氷川つり堀公園」入口 釣り場 小魚を狙い 釣り場
近所の小学校だとは思いますが、子供達の手描きした”鯉のぼり”が飾られた【板橋】。”板橋百景”の一つ。
≪板橋という地名は、この橋に由来すると云われています。”板橋”の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中にも見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年の市制町村制が施行されると町名となり、昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も”板橋”の名が採用されました。板橋宿は、南の滝野川村境から、北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿・平尾宿と称し、三宿を総称して”板橋宿”と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、この板橋周辺も非常に賑やかだった事が伺えます。≫
山手通を越えた新板橋から 子供手描き鯉幟の板橋から 番場橋から 名無しの鉄橋から 御成橋から
稲荷橋から 加賀学園橋から 加賀二の橋から 緑橋から 加賀橋から
この辺りは【加賀藩前田家】の下屋敷が有ったところで、地名にその名残が多い。
≪延宝八年(1680)の段階で、加賀藩前田家は本郷邸(現・東京大学周辺)を上屋敷に、駒込邸(現・本駒込6丁目周辺)を中屋敷に、板橋宿に面する平尾邸(現・加賀1・2丁目、板橋3・4丁目周辺)を下屋敷に定めています。上屋敷は、藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は、隠居した藩主などの住居に利用されました。下屋敷の平尾邸は、約2万8千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝等が各所に配された池泉回遊式庭園が展開していました。その規模は、本国金沢にある有名な大名庭園「兼六園」の約7倍の広さがありました。≫
加賀緑橋から 金沢橋から 吾妻橋から 谷津橋から 谷津大観音
観音橋から 滝の川橋から もみじ橋から 松橋から 王子駅直近の音無橋
音無橋下周辺は「音無川親水公園」となっており、橋の脇から階段を下りて親水公園に入ると、観光客が多く、弁当を広げたりしていた。
「音無親水公園」 舟串橋から 突き当りが王子駅
久保田橋から舟串橋まで30橋。ズーーと歩いている人も居り、ゆっくり歩いて約2時間。9,694歩。の良い散歩になりました。
この後、飛鳥山へ寄り、都電で早稲田の方へ戻り、神田川を少し歩いて見ましたが、こちらは直ぐにッ来たいと思っています。
家内が亡くなった2か月後の4年前、西武有楽町線の「新桜台駅」から地下鉄有楽町線「氷川台駅」迄歩き、そこから始めて石神井川を見ながら郵便局を廻って王子駅まで歩いて見ましたが、東武東上線の「中板橋駅」に近くなるまではそれ程桜も多くなかったので、今回は、昼過ぎに池袋の税理士事務所へ3月分の資料を持参してから、東上線に乗って「中板橋駅」下車。商店街を抜けて「久保田橋」の処から石神井川になり、今日は石神井川に架かる各橋上から下流に向けて写真を撮ったのを載せて見様と思います。桜も散りだす前で、ほぼ満開状態で、もの凄く綺麗でした。
久保田橋から 山中橋から 新西原橋から 根村橋から 中根橋から
双栄橋から 西開橋から 堰の上橋から 西宿裏橋から 愛染橋から
石神井川の右岸を歩いてくると、以前通った時にも見た『氷川つり堀公園』(活き粋いたばし まちなみ景観賞)があり、年配者(年寄とは言わない)に混じって若い女性も釣っていたが、この”つり堀”は竿とエサ(練り餌は禁止)を持参すれば入場無料。大きい魚は居ないらしく、金魚・ハヤ・タナゴ・コイ・フナ・クチボソが釣れる(キャッチ&リリース)そうだ。
「氷川つり堀公園」入口 釣り場 小魚を狙い 釣り場
近所の小学校だとは思いますが、子供達の手描きした”鯉のぼり”が飾られた【板橋】。”板橋百景”の一つ。
≪板橋という地名は、この橋に由来すると云われています。”板橋”の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中にも見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年の市制町村制が施行されると町名となり、昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も”板橋”の名が採用されました。板橋宿は、南の滝野川村境から、北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿・平尾宿と称し、三宿を総称して”板橋宿”と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、この板橋周辺も非常に賑やかだった事が伺えます。≫
山手通を越えた新板橋から 子供手描き鯉幟の板橋から 番場橋から 名無しの鉄橋から 御成橋から
稲荷橋から 加賀学園橋から 加賀二の橋から 緑橋から 加賀橋から
この辺りは【加賀藩前田家】の下屋敷が有ったところで、地名にその名残が多い。
≪延宝八年(1680)の段階で、加賀藩前田家は本郷邸(現・東京大学周辺)を上屋敷に、駒込邸(現・本駒込6丁目周辺)を中屋敷に、板橋宿に面する平尾邸(現・加賀1・2丁目、板橋3・4丁目周辺)を下屋敷に定めています。上屋敷は、藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は、隠居した藩主などの住居に利用されました。下屋敷の平尾邸は、約2万8千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝等が各所に配された池泉回遊式庭園が展開していました。その規模は、本国金沢にある有名な大名庭園「兼六園」の約7倍の広さがありました。≫
加賀緑橋から 金沢橋から 吾妻橋から 谷津橋から 谷津大観音
観音橋から 滝の川橋から もみじ橋から 松橋から 王子駅直近の音無橋
音無橋下周辺は「音無川親水公園」となっており、橋の脇から階段を下りて親水公園に入ると、観光客が多く、弁当を広げたりしていた。
「音無親水公園」 舟串橋から 突き当りが王子駅
久保田橋から舟串橋まで30橋。ズーーと歩いている人も居り、ゆっくり歩いて約2時間。9,694歩。の良い散歩になりました。
この後、飛鳥山へ寄り、都電で早稲田の方へ戻り、神田川を少し歩いて見ましたが、こちらは直ぐにッ来たいと思っています。