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郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

”かっぱ橋道具まつり”へ。

2011-10-28 00:04:53 | Weblog
 10月7日(金曜日)
 今日は、”かっぱ橋道具まつり”へ行くつもりでJR山手線の鶯谷駅南口で下車。
南口を出た途端に、正面に”東京スカイツr-”が見える。東北・上越新幹線等の線路が並ぶ上の陸橋を下りて”言問通り”に出て浅草方面に右折し、根岸1丁目交差点を右折すると(上野郵便局)で風景印を貰い、売っていた「こちら亀有交番前派出所」のフレーム切手を買って外に出ると、向かい側の金網越しにJRの特急列車が二台見える。車庫みたいだ。
  鶯谷駅南口から   線路の上を通る陸橋 根岸1丁目交差点から  車庫の特急列車
   
 北上野交差点で”昭和通り”を渡り、”清澄橋通り”から”かっぱ橋本通り”に入ると、この通りに沿って”かっぱ像”が何体か展示されていたので写真を撮ってみた。
「東京東信用金庫」前    「ぷくぷく」前   台東区の真ん中”ヘソ”  「肉のさがみ」前
   
 禅宗・曹源寺(かっぱ寺)と”かっぱのぎゅうちゃん”と夫婦かっぱ     曹源寺前から
   
 「海善寺」向かいに   「河西紙業」角に    「福岡屋」隣に      「萬藤」前に
  
「萬藤」横のかっぱ村   用品「オダイヤ」    「オダイヤ」看板?    「萬藤」店舗前
   
 「キンヘイ薬店」前 「テプコ浅草館」閉館内  河童橋交差点至近に   「八幡神社」
   
 ”かっぱ橋道具街通り”を突っ切り、そのまま進むと、閉館になった「デプコ浅草館」のシャッター越の”かっぱ”を撮り、”国際通り”に出ると右折し、道具街に戻る。途中で「八幡神社」に参拝。【かっぱ橋道具街祭り】も土日ではないので派手なイベントは開催されていないが、町全体で受け入れている感じはする。片側づつ歩いて、かっぱ橋交差点に金色の”かっぱ河太郎像”。
≪古来、河童橋は商売とは深い縁で結ばれていた。今から約二百年前の文化年間、商人として財を成した合羽屋喜八は、この辺りの水はけが悪く、わずかな雨で度重なる洪水に、人々が難儀をしている事を見かね、私財を投げ山し、治水の為の工事を始めた。ところが、工事は困難を極め、中々捗らない。その様を見ていた隅田川の河童達が、喜八の快気に感じ、夜な夜な現われては人知れず工事を進め、さしもの難工事もついに完成した。そして、その河童を見た人は、何故かそれから運が開け、商売が繁盛したという。≫
この故事に鑑み、河童橋道具街の誕生九十年を迎えるに当たり、ご来街のお客様共々、幾久しい商売繁盛を祈念し、台東区の協力を頂き、この地に「かっぱ河太郎像」を建立。
 前回来た時に気になっていた店に入って見る事に。「合羽橋珈琲」という店で、女性のお客様が前来た時には並んでいた。今日は待たずに入れたが、本格的なコーヒーのお店で新しい中にも内装に古材を取り入れたりで、落ち着いて話が出来る店。カウンターで、キリマンジャロを頂き、2階にお店が有るので上がってみた。”和紙”を専門に置いてある店で、孫の女の子用に、正月プレゼントを買っておいた。田原町駅から地下鉄銀座線に乗ろうと歩き、食品サンプルが凄く綺麗だったが、”浅草通り”に出た「田窯」でマイドンブリを買って帰る。
 「合羽橋珈琲」店頭   食品サンプル店
 
 3時間10分。7,984歩。風景印1局。

「栃木市」第三弾

2011-10-27 15:47:18 | Weblog
 8月18日(木曜日)
 ”例幣使街道”の『岡田記念館』に入る。ここも550年の歴史を持つ旧家で、細々した物の展示物も多く展示されていたが、個人史料でも、料金を取っているのだから、もう少しどうにかならないものか。庭を含めて歩き回ってみた。敷地内に、昔は外から出入り出来た「栃木県で一番古い床屋」があったり、自分の会社名の基になった、京都龍安寺に有る「吾唯足知」の手水鉢と同じものが使われずに置かれていた。
  『岡田記念館』入口     栃木で一番古い床屋 「吾唯足知」の手水鉢
  
     「麻問屋」跡          二号館(薙刀他)           陶器館
   
  一号館(刀他)     古木の渡り廊下    「畠山陣屋入口」
  
 一通り見て歩き、古木の渡り廊下の所では一時迷子になってしまったが、来た小路を戻って外に出られた。岡田記念館に沿って歩いたら、先程見た”栃木で一番古い床屋”がガラス戸越に。記念館の外れに「小江戸火消し館」という家が有り、消防自動車が置かれていたり、昔の消防道具が展示されていた。 
    「小江戸火消し館」         消防道具             墨絵処
  
 「岡田記念館」から”巴波川”に沿って右に曲がると『代官屋敷の”翁島別邸”』への細い通路が有り、入っていくと雰囲気のある建物が有り、上がらせて頂いたら、管理人の女性が「時間がおありならご説明をさせて下さい」と言ってくれたので「お願いします」と頼んだら、物凄い事に。この建物の管理を何時頃からやってらっしゃるのか聞かなかったが、”この建物が好きで好きでしょうがない”らしく、”来られた方に”少しでも知って頂ければ”との姿勢が強烈で、途中で帰る事が出来なくなった。凄い人だ。
教えて頂いた、使用材について、覚えている事だけ書いてみます。
≪1階:居間の床柱(黒柿)、落しかけ(亀甲竹)、廊下は(長~い1枚ケヤキ)、廊下の梁(奥が根元の杉丸太)、ガラス戸のガラスは(昔造られたそのまま)敷居(100年経っても変わらない赤樫)、天井板は(三千年経った屋久杉)、1間半の床の間には右に紫檀、上部は(鉄刃木)
2階:床の間は、家が一軒建つ位のもみじの一枚板。壁には(糸正杉:一年に糸一本位細い年輪の杉板)≫間違っている処もあるかもしれませんg、一見では分からない部分を、懇切丁寧に説明してくれ、便所や映画の撮影に使われた風呂場なども案内してくれた。キチンとお礼を言って外に出る。次に来るチャンスがあれば是非もう一度寄ってみたい。
   翁島別邸入口    代官屋敷の「翁島別邸」  居間「床柱・落しかけ)
  
ケヤキの一枚板の廊下  昔のガラス使用    一間半の床の間   杉丸太の奥が根元
   
   敷居は赤樫   天井は三千年の屋久杉もみじの一枚板の床の間   1階の便所
   
 松竹映画「定」の撮影で、黒木瞳さんが入浴シーンで使われた風呂場で、天井部分が”から傘天井”と呼ばれる。
     風呂場        から傘天井       映画の説明文   天袋にも僅かな傾斜   
 別邸を出て、岡田記念館前に戻ると床屋の正面に、この辺りは雰囲気も良い。殆ど廻り切ったので、市役所に戻ろうと歩いていたら、明治か大正時代の感じの「館野青宣家」から、大正二年創業の「栃木病院」。県立栃木高校の角を左折すると、その先が市役所。宇都宮に移る前は、ここに県庁が有り、周りの堀を”県庁堀”と呼んでいたので、名前だけ残っている。
「岡田記念館」の床屋の正面   「岡田記念館」前の通り     「館野青宣家」建物
  
創業大正二年の栃木病院 県庁堀の”鯉”    連理の松梅
  
 市役所別館の斜め前に稲荷神社が有り、その境内に御神木”連理の松梅”が寂しそうに。
やっと市役所迄戻ってきたが16時40分に。6時間40分も掛かってしまった。
最後に、『とちぎ蔵の街』のルーツについて。
≪「蔵」が有るという事は、そこに入れておく物資や資金があったという事です。栃木市が「蔵の街」として発展したんは、北関東輸数の商都であったからです。
1617年、家康の霊柩が日光山へ改葬され、その後、朝廷からの勅使が日光東照宮へ毎年参向する様になりました。その勅使を例幣使という事から、通る道は例幣使街道と呼ばれました。栃木は、この街道の宿場町となり、人が集まり、物が集まる様になりました。これが商都としての発展のきっかけになったといわれます。更なる発展の原動力となったのは、巴波川n舟運での江戸との公益であるといわれます。江戸から日光御用の荷や塩などが運ばれ、栃木からは木材や農産物などが運ばれました。舟運は江戸の初めから利用され、次第に交易が盛んになり、江戸の終わり頃には栃木の商人達は隆盛を極めたといわれます。その豪商達が白壁土蔵を巴波川の両岸に沿って建てていきました。栃木市の蔵の街並みは、かつての栄華を極めた豪商達の歴史が築いて来たものなのです。≫
 今回の「とちぎ蔵の街」で印象に残ったのは
     一に”翁島別邸”の女性。
     二に”油伝味噌”の金銭登録機と”味噌おでん”。
     三に”夕顔ラーメン”。
     四に”蔵の街”。
郵貯4局。風景印3局。朱印1寺。6時間40分。13,950歩。209kmのドライブ散歩。

「栃木市」第二弾。

2011-10-26 21:10:46 | Weblog
 8月18日(木曜日)
 『とちぎ蔵の街美術館』を出て、『山車会館』から通りを渡り、『蔵の街観光館』脇から、裏の”交流館”に入って見たが、直ぐに出て、そのまま進むと【神明宮】の鳥居に突き当り、境内に入って参拝し、社務所で朱印を貰おうとチャイムをならしたが、何方も出てこない。出掛けたままなのだろう。
≪下野の国”栃木”の鎮護の神として斉き奉らる。当社は中興改築の棟札に、「応永十壬寅年(第百代後小松天皇の御宇)(1404)九月十六日正遷宮、天照大神、祇園牛頭天皇」とあり。
[御神徳]=全国神社の本宗として仰がれる伊勢皇大神宮の内宮に奉斉され、申すまでもなく太陽のごとく私共の上に恵みの光を投げかけ、かつ明るく強く生きる力を与えて下さるという一つの日の神と申されましょう。従って皇祖の大神として奉祀され、我国最高の貴神と仰がれます神にまします。≫
 懸社「神明宮」鳥居   手水場と神楽殿     「神明宮」拝殿
  
 「神明宮」に入る時に目に止まっていた「夕顔ラーメン」の看板。「神明宮」を出てポスターを見て、眼の前に有った「ふくや」へ入る。時間がずれているのでお客は一人もいない。カウンターに座って親父さんの話を聞く。
≪栃木県特産の”かんぴょう”を粉末にして麺に練り込んであり、カルシウムや食物繊維が豊富に含まれていて、腸内になくてはならぬ”ビフィズス菌”を増殖させる働きがあるそうだ≫
  「夕顔ラーメン」ポスター  夕顔ラーメン「ふくや」   夕顔ラーメン
  
 ”かんぴょう”が練り込んであるのか、無いのか分からなかったが、食感と喉越しが良く、普通の醤油ラーメンと変わらない。平成8年から”町おこし”の一環でやっているそうだ。
 「ふくや」を出て、前の通りを突き当たった寺に”山本有三の墓”が有るそうなので寄ってみた。
 金龍寺境内に入ると”何が有るの?”という感じの寺。
      金龍寺競売        楠正成と正行の像        ”山本有三”の墓
  
 金龍寺を出てきたら、行き掛けには分からなかった創業大正12年の「とんかつ屋」があったが、次にここへ来たときには食べて見様。『あだち好古館』に、とんかつ屋の前の、裏口から入って見た。私的な美術館で、江戸末期から明治中期にかけて建てられた呉服商の蔵を改修した館内は、展示物は多いのだが、ガラスは埃だらけだったり、蔵の床もズブズブだったりで、展示物を見て歩く雰囲気になれず、殆ど”うわの空”で出てきてしまった。
  「とんかつ屋」     あだち好古館入口   「やまとや」人形店
  
 その先の、【山本有三ふるさと記念館】に入って見る、
≪「路傍の石」などで知られる文豪山本有三は栃木市出身です。江戸末期の見世蔵を改修した記念館の館内には愛用の品や、自筆の原稿が展示されています。≫
 山本有三の”生誕の地”となっているが、本当の生誕地はお隣の”理髪店『銀巴里」の所だそうだ。
 御宿「かな半」旅館   山本有三ふるさと記念館     館内の箪笥階段
  
 館内の”土蔵造り”     館内の有三愛用品    隣の理髪店”銀巴里”
  
   漬物本舗 「鳥海」         「下野新聞社」          「桃井肥料店」
  
 ”蔵の街大通り”を進んで「万町交番」の所で一応終了するが、交差点の先にこれもわざわざ蔵造りにした郵便局があり、その後東武日光線の”新栃木駅”にぶつかり、そのロータリーにある(栃木局)に寄り、駅前通りを歩くと「花火屋」という看板。花火しか売ってない店で、こんな店見た事ない。
   「万町交番」    「栃木蔵の街郵便局」    「花火屋」
  
 県道32号線でヤオハンプラザ「アイム」前を通過して例幣使通り交差点を左折すると古い味噌蔵が目に入った。『油伝味噌』。入り口脇に、売店と休憩室が有り、”味噌おでん”を注文し、中を見学出来るかと思ったが、中には入れず、工場手前で我慢。”味噌おでん”が美味しかったが、写真を撮り忘れてしまったのは残念。この休憩所で驚いたのはレジスター。大正末期の”NCR”が置かれており、「動くんですよ」。自分達が扱った「SWEDA]ではないが、感激した。「すいませんが写真を撮らせて下さい」とシャッターを。
創業天明年間の「油伝味噌㈱」「用心井戸」(防火用水) 敷地内の”水琴窟”
  
 工場脇のミストクーラー       売店のNCR金銭登録機左に出ている処が記録紙に
   
 「油伝味噌」は元々は油屋で”油屋伝兵衛”と呼ばれたのが味噌屋に転業してからそのままを店名にしたそうだ。そのまま【例幣使街道】を歩くと、「ヤマサ味噌」の煙突が見えるが、廃業してしまった様だ。その先に【岡田記念館】
≪1617年、徳川家康が日光山に改葬され、その後、毎年、朝廷から日光東照宮に例幣使と呼ばれる勅使がつかわされました。この道が例幣使街道と呼ばれ、その一部が大通りや嘉右衛門町通りであり、現存している見世蔵などが当時の繁華街を偲ばせています。≫
≪岡田家は550年以上の歴史を持つ旧家で、江戸時代には畠山氏の陣屋となっていました。4,000坪にも及ぶ広大な敷地に残る土蔵には岡田家伝来の宝物が展示されています。≫
  廃業した「ヤマサ味噌」     「岡田記念館」  「岡田記念館」入口(旧陣屋)
  
 写真の枚数だけでも178枚。撮ってき過ぎですよネ。まだ1/3位残っているので、次回回しにさせてもらいます。

是非一度行ってみたかった「栃木市」に行って来た写真が出てきました。

2011-10-25 21:38:30 | Weblog
 8月18日(木曜日)
 もう二か月以上前に行った「栃木市」の写真が、突然出てきました。ファイルした場所がなんかの間違いで、全く違う場所に入ってしまったらしく、以前、色々探してみたが分からなかった。
 村さ来でスーパーバイザーをしていた時に、茨城県・栃木県(長野県・群馬県も)定期巡回で年に4~6回店舗訪問をしていたが、栃木市には店がなかったので、寄ってみる機会がなかったが、地元の人に「一度行って見られたら良い。良い街ですよ」と言われていた。今日は朝から”黒目川散歩も中止して、車で向かう事に。
 家を7時半に出発。和光から外環道・東北自動車道で栃木ICで下り、ナビにしたがって「栃木市役所」に着いたのが10時。市役所の駐車場に入れ、市役所で、観光案内を頂き、歩き出す。
 市役所の隣りに市役所別館(大正10年11月竣工)の脇に”栃木県議会発祥の地”の碑もあり、商工観光課に寄って見所を聞く。詳しい栃木市の地図を貰ってスタート。
 市役所別館を掘割に沿って裏に回ると、この地で生まれた「山本有三文学碑」が有り、巴波川(ウズマガワ)に沿った道を歩く事に。堀割が荷揚場になっており、昔の雰囲気を感じさせる。問屋の角を曲がると”巴波川網手道”の表示が。横山郷土館(休館)・協立銀行とあり、そのまま歩くと水位観測所も見える。
    栃木市市役所別館       別館を裏から    別館裏に「山本有三文学碑」
   
麻苧真縄問屋荷揚場   巴波川網手道      横山郷土館
  
     横山郷土館正面        協立銀行        巴波川水位観測所
   
 雰囲気を匂わせる建物が有り、看板が「松本床屋」(明治八年創業)。幸橋の街灯も良い雰囲気を醸しており、幸橋を渡り【塚田歴史伝説館】という施設に入って見る。
≪塚田家は、江戸後期から巴波川の舟運を活かし、木材回漕問屋を営んできた豪商で、巴波川沿いに120mに及び巡らされた黒塀と白壁土蔵は栃木市を代表する景観となっている。≫ 
”三味線ばあさん”という都都逸をひく語り部ロボットに案内され、豪商が収集した物の展示、地元に伝わる”蔵芝居「うずま川秘話」”や、人形山車(手力男命)、庭園などを見学。 
明治八年創業の”松本床屋”  幸楽橋        塚田歴史伝説館
  
  ”三味線ばあさん”人形   人形山車(手力男命) 別荘庭園の”水琴窟”
  
 庭の”チャボヒバ”     巴波川遊覧船    遊覧船券売所       うずま公園
   
 伝説館を出て、巴波川沿いに戻ると、巴波川上に川船が浮かんでおり、”遊覧船”らしいので、乗ってみようかと券売場に行ったら、”遊覧”と言っても、ほんの30m位の中で動いているだけらしく、話にならないので素通り。一度”うずま公園”に入って見たが、何にも無いので両毛線の栃木駅に向かうと、(栃木駅前局)に寄ると、駅前通りの”サルスベリ”が丁度いい。新装なった栃木駅前に出ると「日本海庄や」が有り、女性スタッフが居たので「如何ですか?」とお聞きしたら、「新装なった駅の中に大手居酒屋が2店舗出店したので厳しいです。」と話してくれ、「実は店長なんです」と。可愛い子だったので驚いたが、写真を撮るのを忘れて「頑張んなよ!」と励まして別れた。
  うずま川水門  栃木駅前通り”サルスベリ”   両毛線”栃木駅”
  
 駅前から”蔵の街大通り”を歩く。”ゆったり”とした町並みで、殆ど歩いている人もない。これも地方都市の駅前の状況と変わらない。ここからは、写真を獲って歩きましたので、ランダムに載せていきます。まず(栃木室町局)に寄る。
 県宅地建物取引業   三益屋本店(人形)    手塚紙店       蔵の家具や 
   
名物じまん焼「富士屋」   「井岡荒物店」     五十畑荒物店     関根家(改修中)
  
 栃木県主食卸㈱ 日星肥料(電話番号一二六) 餅工房 ひがの     阿部呉服店
   
    八百熊        蔵の街観光館      綿忠(履物店)     好古壱番館
    
    とちぎ山車会館       (左)日本武尊     (右)素戔嗚尊
  
 会館裏の”Cafe15”   蔵の家具や”手造り丸三”    とちぎ蔵の街美術館
  
「とちぎ山車会館」の隣りに【とちぎ蔵の街美術館】が有り、3棟連なっている蔵が展示場に。
≪およそ200年前に建てられた土蔵3棟を改修し、美術館として現代によみがえらせ、栃木市ゆかりの作家を中心に収蔵しています。≫
 丁度、『楽しい昭和のレトロアート展』(レトロの中に斬新なアートがあった!)が開催されており、期間中(8月6日~9月25日)には色々なイベントもあったみたいだけれど、展示物は少し物足りなかった。
美術館内部の蔵造り      「お笑いメンコ」         「相撲メンコ」
  
 ここで時間も1時半になってしまったので、残りは明日に廻させてもらいます。       

山口県の岩国市の「錦帯橋」と”白ヘビ”を見に。

2011-10-22 23:41:10 | Weblog
 9月15日(木曜日)
 今日が、今回の旅行の最終日。岡山から鳥取(境港)・島根(出雲・松江・石見)・広島と回って、あと予定は山口県。本当は萩へ行って、松下村塾は当然だが、住宅の垣根になっている”夏みかん”を見に行こうと思ったけれど、郵便局回りをしていると、思う様に距離が伸びない。今日は、広島から一番近い山口県の観光地である岩国へ行って来る事にして7時半にホテル発。市電を見ながら市内を走り、”都市高速”に入る。
広島市内を高速入口に  広島の市電        広島城南交差点
  
 一度高速を出て、ナビ任せでアストラムライン大塚駅目から県道71号線。五日市ICから”山陽自動車道”に入り、下りる予定の大竹IC手前で、山口県の萩から廻れればと思っていた秋芳洞の周りの秋吉台の”カルスト台地”の様な景色が見られた。大竹ICで下り、国道2号線を走って岩国市に入る。JR岩国駅前の岩国局に着いたのが8時46分。裏の駐車場に入れて暫く待つったが、局の前のマンホール(錦帯橋)を退屈しのぎに写してみた。
  カルスト台地の様        岩国市内のマンホール
  
(岩国局)で5県目のフォルムカードを買い、取りあえず目的達成。錦帯橋に向かいながら(岩国西局)へ寄ったが、まわりの街路樹が何故か”松”。海岸線の松並木以外では珍しいのでは。西局から真直ぐ”錦帯橋”への”大名小路”が走り、遠くに城山に掛かるロープウエーが見え、クラシックな市バスが走っている。
  ”松”の街路樹   城山をバックに市バス 城山山上の岩国城が
  
 ”錦帯橋”は車では通れないので、”錦城橋”を渡り、土手を左に走ると、一度”錦帯橋”の前を通り越して”巌流ゆかりの柳”(後でわかったが)の所を右折して”吉香(キッコウ)公園”のロープウエー脇の大駐車場に車を止めて、眼を上に向けると、二機のロープウエーが行き交い、山麓駅から右を見ると岩国城が見える。まず見たいと思っていた”白ヘビ”の隣りに「旧目加田家住宅」を見学。
                       「旧目加田家住宅」
   
 今日一の目的。国指定の天然記念物である【岩国の白ヘビ】を見に。
≪岩国市だけに生息している世界でも珍しいヘビで、商売繁盛・開運の守神様等と言い伝えられております。ヘビの白色変種が安定した遺伝形質を維持して特定の地域に集中的に生息している例は、世界にも例がなく、学術的にも極めて貴重な存在であります。しかし近年、生息地域の都市化が進み、白ヘビの数が減少しつつありますので、岩国市では、財団法人岩国白蛇保存会と共に、保護保存対策に勤めております。≫(こことは別に市内に4ヶ所の放飼場や観覧所があります。)
      白ヘビ館        館内のピンク色に見える       白ヘビ
  
何しろ”綺麗”。見ていて飽きない。数が減った様にも、もっと大きなヘビが居たんでは?とも思うが、聞いてみたら、環境がかなり変わってきているので、減ってきているようだ。ここの庭で初めて”水琴窟”を見て、聞いた覚えが有るが、聞いてみたら、大きな台風で、地下に埋まっている甕に水が入ってしまい、かなりの費用が掛かるために取り壊してしまったそうだ。残念。庭に
    ”蛇ウリ”       ”アブチロン”        アップ
  
ロープウエーすれ違い    木炭自動車      「錦雲閣」前の池にアオサギ
  
 錦雲閣前で”アオサギ”と会い、黒目川から飛んで来たのか?と声を掛けながら”錦川”の土手に上がり、右に歩くと岩国石人形資料館や土産物店の前を通って【錦帯橋】に。300円の入橋券(往復券)を買い、渡る。
≪日本三名橋や、日本三大奇矯に数えられており、名勝に指定されている。初代岩国城主吉川広家が岩国城を築城して以来、城と城下を繋ぐ橋は、数回架けられているが、錦川の洪水により度々流失していた。3代領主、吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造る事に着手。橋脚をなくす事で、流失を避けられるとのアイデアの元、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋である”猿橋”の調査を命じた。しかし、川幅30mの”猿橋”に対して、錦川の川幅は200mもあるため、同様の”跳ね橋”とするのは困難であった。広嘉は、明の帰化僧である独立(ドクリュウ)から杭州の西湖には、島伝いに架けられた6連のアーチ橋があつ事を知り、これを基に”連続したアーチ橋”「という基本構想に至った。アーチ橋の橋台を石垣で固定することで、洪水に耐えられると考えた。児玉九郎右衛門の設計により、延宝元年(1673)に5連のアーチ橋の”錦帯橋”が完成した。しかし、翌年の延宝二年(1674)の洪水によって流失してしまった。同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失する事なく、定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。但し、当時橋を渡れるのは、武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れる様になるのは、明治に入ってからであった。≫
太鼓橋を歩く時は、下の階段を見ていないと、段差が変わるので危ないので、十分注意を。
   錦帯橋手前の通り       錦帯橋-1       錦帯橋ー2
  
    渡り切ってから振り向いて見ると、城山にロープウエーの山上駅の岩国城が
  
            錦川の河原に下りて下から錦帯橋”橋組”も
  
 もう一度”錦帯橋”を渡り返し、橋を下りて土産屋さんから「吉川史料館」へ行こうと歩くと、宮本武蔵と巌流島で対決した”佐々木小次郎”の銅像があったが、”物干し竿”と呼ばれた刀の”ツバメ返し”の持ち方が逆手だった。
  錦川で”アユ釣り”  ”槍倒しの松”越に  佐々木小次郎の銅像   菖蒲園のアオサギ
   
 菖蒲園前の「吉川史料館」に入って見ました。毛利家の重鎮の史料館なので、さぞ色々な物が見れると期待して入ったのですが、外観から入口までは、”流石吉川”と思わせたが、たった一部屋だけで、殆ど自分の興味を引くものがなかった。これで500円では、観光ツアーも来ないと思う。
   「しろやま喫茶室」       「吉川史料館」入口     「吉川史料館」の白壁   
   
 早々に史料館を出て、裏の”吉香牡丹園”の方から石造りの建物に寄ってみたら「岩国徴古館」。こちらの方が無料だが見る物は・・・。旧吉川家厩門の前に堀が造られており、白鳥が二羽。
    「岩国徴古館」         「旧吉川家厩門」        堀の”白鳥”
  
 徴古館の向かいの堀を渡って【吉香神社】へ。
≪岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀る神社で、現在の社殿は享保十三年(1728)、横山の白山神社内に造営され、明治十八年(1885)に旧城跡の現在地に移築されたものです。鳥居・神門・拝殿及び幣殿・本殿が、南から北に一直線に並んだ構成となっています。全国的にも数少ない祖霊を祀る神社。≫
 神社境内を歩き、参拝。御朱印を頂こうと思ったが、神社には人が居らず、売店で聞いたら社務所を教えてくれたのですが、「済みません、今外出しています」との事で貰えなかった。
    「錦雲閣」      「吉香神社」神門   「吉香神社」拝殿  社務所と”サルスベリ”
   
 朱印を貰えなかったので、駐車場の方へ戻る途中の堀に”亀”がのんびり。
   社務所入口     「吉香神社」鳥居      堀の”亀”
  
 11時15分「吉香公園」駐車場を出発。来た道を戻り、国道9号線を走り、山口県の一番端の(和木局)に寄って、”小瀬川”を渡ると広島県の大竹市に入り、(大竹局)による手前の青木踏切でJR山陽本線が通過するのを待つ。
            ”錦城橋”から”錦帯橋”を          大名小路より”錦帯橋”
  
           山陽本線青木踏切で、上下線が         右に瀬戸内海と宮島が
  
 (大竹栄局)から(大野局)と廻ると、右の瀬戸内海の奥に、”厳島神社”の赤い鳥居が遠くに見え、宮島口に12時54分着。(宮島口局)へ寄り、宮島へ渡ろうかと思ったが、レンタカーを16時に岡山の借りたトヨタに返さなければならず諦めた。
 「厳島神社」の赤い鳥居が   宮島口の観光船乗り場      山陽本線
  
 帰る事にして、”もみじ饅頭”をお土産に買い込んで車に乗せ、国道9号線から廿日市ICより山陽自動車道で岡山に向かう。宮島SAで休憩し、福山西・今治JCTが四国へ行く”しまなみ海道”への分岐だ。その先の右に「福山大学」の校舎が見える。14時33分に岡山県に入り、岡山ICに15時5分着。駅前レンタカー迄戻る間に(岡山津島局)(岡山寿局)と廻り、トヨタレンタカー岡山西に15時半着。
  福山大学校舎    岡山市のマンホール   桃太郎の祭ずし
   
 12日から15日の3泊4日。合計歩数:68、488歩。
車は2泊3日で、5県を廻り、走行距離は826km。一日平均275km。
郵貯58局。風景印28局。フォルムカード5県。15種。フレーム切手9種。朱印2社。
 楽しかったが、一人では寂しさを感じる。11月には九州へ。

山口県の岩国市の「錦帯橋」と”白ヘビ”を見に。

2011-10-22 23:41:10 | Weblog
 9月15日(木曜日)
 今日が、今回の旅行の最終日。岡山から鳥取(境港)・島根(出雲・松江・石見)・広島と回って、あと予定は山口県。本当は萩へ行って、松下村塾は当然だが、住宅の垣根になっている”夏みかん”を見に行こうと思ったけれど、郵便局回りをしていると、思う様に距離が伸びない。今日は、広島から一番近い山口県の観光地である岩国へ行って来る事にして7時半にホテル発。市電を見ながら市内を走り、”都市高速”に入る。
広島市内を高速入口に  広島の市電        広島城南交差点
  
 一度高速を出て、ナビ任せでアストラムライン大塚駅目から県道71号線。五日市ICから”山陽自動車道”に入り、下りる予定の大竹IC手前で、山口県の萩から廻れればと思っていた秋芳洞の周りの秋吉台の”カルスト台地”の様な景色が見られた。大竹ICで下り、国道2号線を走って岩国市に入る。JR岩国駅前の岩国局に着いたのが8時46分。裏の駐車場に入れて暫く待つったが、局の前のマンホール(錦帯橋)を退屈しのぎに写してみた。
  カルスト台地の様        岩国市内のマンホール
  
(岩国局)で5県目のフォルムカードを買い、取りあえず目的達成。錦帯橋に向かいながら(岩国西局)へ寄ったが、まわりの街路樹が何故か”松”。海岸線の松並木以外では珍しいのでは。西局から真直ぐ”錦帯橋”への”大名小路”が走り、遠くに城山に掛かるロープウエーが見え、クラシックな市バスが走っている。
  ”松”の街路樹   城山をバックに市バス 城山山上の岩国城が
  
 ”錦帯橋”は車では通れないので、”錦城橋”を渡り、土手を左に走ると、一度”錦帯橋”の前を通り越して”巌流ゆかりの柳”(後でわかったが)の所を右折して”吉香(キッコウ)公園”のロープウエー脇の大駐車場に車を止めて、眼を上に向けると、二機のロープウエーが行き交い、山麓駅から右を見ると岩国城が見える。まず見たいと思っていた”白ヘビ”の隣りに「旧目加田家住宅」を見学。
                       「旧目加田家住宅」
   
 今日一の目的。国指定の天然記念物である【岩国の白ヘビ】を見に。
≪岩国市だけに生息している世界でも珍しいヘビで、商売繁盛・開運の守神様等と言い伝えられております。ヘビの白色変種が安定した遺伝形質を維持して特定の地域に集中的に生息している例は、世界にも例がなく、学術的にも極めて貴重な存在であります。しかし近年、生息地域の都市化が進み、白ヘビの数が減少しつつありますので、岩国市では、財団法人岩国白蛇保存会と共に、保護保存対策に勤めております。≫(こことは別に市内に4ヶ所の放飼場や観覧所があります。)
      白ヘビ館        館内のピンク色に見える       白ヘビ
  
何しろ”綺麗”。見ていて飽きない。数が減った様にも、もっと大きなヘビが居たんでは?とも思うが、聞いてみたら、環境がかなり変わってきているので、減ってきているようだ。ここの庭で初めて”水琴窟”を見て、聞いた覚えが有るが、聞いてみたら、大きな台風で、地下に埋まっている甕に水が入ってしまい、かなりの費用が掛かるために取り壊してしまったそうだ。残念。庭に
    ”蛇ウリ”       ”アブチロン”        アップ
  
ロープウエーすれ違い    木炭自動車      「錦雲閣」前の池にアオサギ
  
 錦雲閣前で”アオサギ”と会い、黒目川から飛んで来たのか?と声を掛けながら”錦川”の土手に上がり、右に歩くと岩国石人形資料館や土産物店の前を通って【錦帯橋】に。300円の入橋券(往復券)を買い、渡る。
≪日本三名橋や、日本三大奇矯に数えられており、名勝に指定されている。初代岩国城主吉川広家が岩国城を築城して以来、城と城下を繋ぐ橋は、数回架けられているが、錦川の洪水により度々流失していた。3代領主、吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造る事に着手。橋脚をなくす事で、流失を避けられるとのアイデアの元、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋である”猿橋”の調査を命じた。しかし、川幅30mの”猿橋”に対して、錦川の川幅は200mもあるため、同様の”跳ね橋”とするのは困難であった。広嘉は、明の帰化僧である独立(ドクリュウ)から杭州の西湖には、島伝いに架けられた6連のアーチ橋があつ事を知り、これを基に”連続したアーチ橋”「という基本構想に至った。アーチ橋の橋台を石垣で固定することで、洪水に耐えられると考えた。児玉九郎右衛門の設計により、延宝元年(1673)に5連のアーチ橋の”錦帯橋”が完成した。しかし、翌年の延宝二年(1674)の洪水によって流失してしまった。同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失する事なく、定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。但し、当時橋を渡れるのは、武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れる様になるのは、明治に入ってからであった。≫
太鼓橋を歩く時は、下の階段を見ていないと、段差が変わるので危ないので、十分注意を。
   錦帯橋手前の通り       錦帯橋-1       錦帯橋ー2
  
    渡り切ってから振り向いて見ると、城山にロープウエーの山上駅の岩国城が
  
            錦川の河原に下りて下から錦帯橋”橋組”も
  
 もう一度”錦帯橋”を渡り返し、橋を下りて土産屋さんから「吉川史料館」へ行こうと歩くと、宮本武蔵と巌流島で対決した”佐々木小次郎”の銅像があったが、”物干し竿”と呼ばれた刀の”ツバメ返し”の持ち方が逆手だった。
  錦川で”アユ釣り”  ”槍倒しの松”越に  佐々木小次郎の銅像   菖蒲園のアオサギ
   
 菖蒲園前の「吉川史料館」に入って見ました。毛利家の重鎮の史料館なので、さぞ色々な物が見れると期待して入ったのですが、外観から入口までは、”流石吉川”と思わせたが、たった一部屋だけで、殆ど自分の興味を引くものがなかった。これで500円では、観光ツアーも来ないと思う。
   「しろやま喫茶室」       「吉川史料館」入口     「吉川史料館」の白壁   
   
 早々に史料館を出て、裏の”吉香牡丹園”の方から石造りの建物に寄ってみたら「岩国徴古館」。こちらの方が無料だが見る物は・・・。旧吉川家厩門の前に堀が造られており、白鳥が二羽。
    「岩国徴古館」         「旧吉川家厩門」        堀の”白鳥”
  
 徴古館の向かいの堀を渡って【吉香神社】へ。
≪岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀る神社で、現在の社殿は享保十三年(1728)、横山の白山神社内に造営され、明治十八年(1885)に旧城跡の現在地に移築されたものです。鳥居・神門・拝殿及び幣殿・本殿が、南から北に一直線に並んだ構成となっています。全国的にも数少ない祖霊を祀る神社。≫
 神社境内を歩き、参拝。御朱印を頂こうと思ったが、神社には人が居らず、売店で聞いたら社務所を教えてくれたのですが、「済みません、今外出しています」との事で貰えなかった。
    「錦雲閣」      「吉香神社」神門   「吉香神社」拝殿  社務所と”サルスベリ”
   
 朱印を貰えなかったので、駐車場の方へ戻る途中の堀に”亀”がのんびり。
   社務所入口     「吉香神社」鳥居      堀の”亀”
  
 11時15分「吉香公園」駐車場を出発。来た道を戻り、国道9号線を走り、山口県の一番端の(和木局)に寄って、”小瀬川”を渡ると広島県の大竹市に入り、(大竹局)による手前の青木踏切でJR山陽本線が通過するのを待つ。
            ”錦城橋”から”錦帯橋”を          大名小路より”錦帯橋”
  
           山陽本線青木踏切で、上下線が         右に瀬戸内海と宮島が
  
 (大竹栄局)から(大野局)と廻ると、右の瀬戸内海の奥に、”厳島神社”の赤い鳥居が遠くに見え、宮島口に12時54分着。(宮島口局)へ寄り、宮島へ渡ろうかと思ったが、レンタカーを16時に岡山の借りたトヨタに返さなければならず諦めた。
 「厳島神社」の赤い鳥居が   宮島口の観光船乗り場      山陽本線
  
 帰る事にして、”もみじ饅頭”をお土産に買い込んで車に乗せ、国道9号線から廿日市ICより山陽自動車道で岡山に向かう。宮島SAで休憩し、福山西・今治JCTが四国へ行く”しまなみ海道”への分岐だ。その先の右に「福山大学」の校舎が見える。14時33分に岡山県に入り、岡山ICに15時5分着。駅前レンタカー迄戻る間に(岡山津島局)(岡山寿局)と廻り、トヨタレンタカー岡山西に15時半着。
  福山大学校舎    岡山市のマンホール   桃太郎の祭ずし
   
 12日から15日の3泊4日。合計歩数:68、488歩。
車は2泊3日で、5県を廻り、走行距離は826km。一日平均275km。
郵貯58局。風景印28局。フォルムカード5県。15種。フレーム切手9種。朱印2社。
 楽しかったが、一人では寂しさを感じる。11月には九州へ。

広島へ。

2011-10-22 11:25:39 | Weblog
 9月14日(水曜日)
 国道9号線から”江の川”を渡った”江津JC”から”山陰道”に入り(16時22分)、先年まで村さ来の本部に居て、広島の郊外ショッピングセンターにある「フジグラン高陽店」で独立した高月君へ電話で何時もと同じ様に「これから行きたいけれど」と連絡。「丁度外出していますので帰りましたら連絡させて頂きます。」と返事を貰い、浜田JCTで広島へ向かう”浜田道”に入る。途中で高月氏から「本当に内藤さんですか?。どちらにいらっしゃるのですか?」と連絡が入り、「浜田道を走ってます。18時前後には着けると思います。」この高速は、殆どが山ばかり、”千代田JCT”で”中国道”に入り、”広島北JCT”で”広島道”に入って直ぐの”広島北IC”で高速を下りたのが17時24分で、約1時間。国道191号線を広島市内方面に入った途端に渋滞に巻き込まれたが、ナビを頼りに、17時50分にフジグラン着。
             「村さ来 フジグラン高陽店」店頭と店内スナップ
   
ここのショッピングセンターもテナントの入れ替わりが多く、今も残っているのは「村さ来」と焼肉屋だけだそうだ。「村さ来」も閉店予定だったが、”残ってくれ”と依頼され、開店時に一時この店の責任者をして、ショッピングセンターの担当の方とも面識の有った高月氏が、”家賃を下げでくれれば自分が引き継ぎたい”との交渉の中で、通常では出てこない数字が出たので、引き受ける事になったとの事で、利益の確保はきちんと出来ている。との話し。車なので飲めないから、”おすすめ料理”を頂いて店を出る。若い人材も育っているみたいで、本当にホッとした。
 ナビを頼りに、広島市内に入るとすでに夜なので、ナビだけが頼り。少し迷ったがどうにか「半兵ヱ 広島袋町店」に着き(20時20分)、店の隣りのコインパーキングに駐車させ、店に入ったら、満席で断られた。今まで北海道から岡山までの「半兵ヱ」を見て回ったが、”満席”で断られたのは初めて。仲間としては”嬉しい限り”。店長に名刺を出して挨拶したら、「済みません、30分位時間を頂けませんか」と丁寧に言われたので、近所を一回りしようと外に出たら、「PARCO」の直ぐ傍である事が分り、だったら「お好み村」へ行ってみようと、直ぐ傍に有る「お好み村」のビルへ。折角なので4階に上がり、結構混んでいる店が多かったが、その中で一人もお客のいない店が有り、「何でお客が一人もいないの?」と親父さんに声を掛けたら、「今、帰ったばかりです」との返事。本当かどうか食べてみる事にして、親父さんの”あすすめ”を注文。他にお客が一人もいないのに、テレビの野球で広島戦を見っ放しで、一言も話さない。作っているのを見ていても、鉄板の温度を感じない。「ハイ お待ち」と出されたが、案の定”不味かった”。広島でも、お好み村でも何度も食べているが、こんなに気分の乗らない”お好み焼”は経験した事がない。残して帰る訳にもいかないので、我慢して食べた。30分で店に戻り、店内に。
  「お好み村」のビル        「半兵ヱ広島袋町店」店頭 
   
                     「半兵ヱ 広島袋町店」店内 
   
 花戸店長は、地元出身の入社8ヶ月。スタッフの動きも良く、料理・ドリンクの出も早く、活気が有る。お客様の数(混み具合)が人を動かしているのか。
 予約してあった、ホテルにチェックしたのが22時。明日は、山口県の岩国に。
郵貯19局。風景印11局。 

松江から世界遺産「石見銀山」へ。

2011-10-20 20:44:24 | Weblog
 9月14日(水曜日)
 戻ったホテルで朝食を取り、9時20分ホテルを出発。まずJR松江駅前を通って(松江中央局)に寄り、国道9号線に入って、ナビを見ながら9号線至近の局を廻りながら石見を目指して走る事に。昨日松江に入って来た9号線を、逆に”宍道湖”を右に見ながら走り(来待局)。出雲空港への道を右に見て(荘原局)を過ぎると”出雲ドーム”の白い屋根が見える。斐伊川を渡り、山陰本線の出雲市駅を左に見る辺りで、直ぐ傍の(朝倉局)にだけ寄り(先を急ぐ)、神戸川を渡り、暫く走ると左側に”神西湖”が見えて来て、手前に(出雲神西沖局)。(湖陵局)から多岐町に入ると右に風力発電の風車が見えて来ると、その先が日本海。
   出雲ドーム         神西湖           多岐町の風車
  
 ”しおさいロード”と言われる日本海沿いの道路を走ると、ここは”いちじくの町”と呼ばれているらしく、海水浴場が続く。左に”田儀駅”を見、右に”手引が浜”を通り、大田(オオダ)市に入り、(大田さつか局)”道の駅ロード銀山”を通り越すと、「太田市駅」。(大田市駅前局)(大田山崎簡易局)(石見大田局)から県道46号線を走る。
 山陰本線”田儀駅”     手引が浜     山陰本線”太田市駅”
  
(久利局)から(世界遺産石見銀山大森局)に入る手前から、街並みが変わってきて、”何だここは?”と言う感じの、昔の街道がそのまま残っている様な場所で、馬籠・妻籠・奈良井等の街道を見て歩いたが、ここはあまり人出がなく、暗い感じで、静か過ぎる。【大森銀山重要伝統的建造物群保存地区】で、世界遺産の中の一部。車で入って来たので、郵便局に一応止めてもらったが、どこまでこの街並みが続くのか分からないので、結局車でゆっくり動く事に。
≪この街並みは、人権尊重と平和を目指す、ユネスコの世界遺産に登録された「世界遺産石見銀山遺跡」の中心部にあり、十六世紀以降、銀の生産及びこれに関連する仕事に携わった人々の居住地として発展した。仙ノ山の山麓に位置する銀山地区は、十六世紀中には相当な規模に発展し、十七世紀初頭の絵図には谷筋の道路に沿って町家が立ち並ぶ繁華な町として描かれている。江戸幕府による石見銀山の直接支配が始まると、大森区域に陣屋(代官所)が設置され、江戸時代を通じて石見銀山とその周辺百五十余村を支配した。近代以降も銀役所が置かれる等、政治経済の中心であった。現在、銀山地区は伝統的建造物が道沿いに点在しており、旧の地割りが良く残り、銀生産の遺構が山麓に所在する。大森地区は、銀山附役人や、町年寄りの旧宅、商家や御宿の町家などが混在して家並みが形成され、周囲の背後の山裾には寺院や神社が点在する。≫
石見銀山大森郵便局         「大森銀山重要伝統的建造物群保存地区」
   
              「大森銀山重要伝統的建造物群保存地区」
   
 町並み交流センター              「保存地区」
  
          「保存地区」           銀山公園からスタート 大久保石見守の墓所へ
   
 保存地区を抜けて行くと、銀山公園に駐車場が有ったが、そのまま登って行こうと思って止まらずに行ったら、すぐ先で「この先には車では入れません」と書かれていたので、”世界遺産”どもあるし、慌てて駐車場に戻って、観光案内所で「石見銀山みてあるき」という一枚のパンフレットを貰って、片道2km、40分は掛かるという道を歩き出す。そんなに掛かるとは思わなかった。”銀山川”沿いに遊歩道が造られており、歩き易くなっており、年配のご夫婦や若い女性等のグループがそれぞれ歩いている。まずは江戸時代の銀山奉行だった「大久保石見守墓所」が。
                「大久保石見守の墓所」
  
 墓地から下りた先に、”コスモス”が咲き、遊歩道を暫く進むと左に曲がって進んだ右側に段々で造られていた、昔の「清水谷精錬所跡」が現われ、登ってみた。昔の事が少し分かる様な感じがするが、殆ど囲いもなく、”どこでも見て”という感じ。
   ”コスモス”       精錬所への道     清水谷精錬所跡全体
  
                  清水谷精錬所跡
  
  毘沙門天立像       「清水寺」山門         不動明王立像
  
      清水寺            散策路      極楽寺 吉岡出雲墓絵の階段
   
 散策路を歩いていたら、ガイドさんの案内を聞きながら歩いているグループの後について歩くと、ガイドさんの話が聞こえてくる。石見銀山が世界遺産になった原因の一つに、「鉱山は川に”毒”を流してしまい、地域の住民が多大な被害を被るのが普通で、一時は”見合わせ”と言われていたが、ここの山は、ちゃんと管理されており、この横に流れている川の水が飲み水や、農業用水としても使われていたのが分り、逆転で世界遺産に登録されたと話していた。
目的地の”龍源寺間歩”に近づくと他の間歩も見えて来、銀山師の中から選ばれた山組頭だった高橋家が。
   福神山間歩        間歩内          高橋家
  
 そうこうしていると、やっと目的地に着いたみたい。寄り道をしてきたので、丁度50分4,222歩。掛かった。【龍源寺間歩】へ。
≪正徳五年(1715)の開発で、他に永久・大久保・新切・新横相間歩と共に、代官所の直営で「五か山(ゴカサン)」と呼ばれていました。江戸時代の開掘の長さは600mに及んでおり、石見銀山では大久保間歩に次いでの大坑道です。良質の銀鉱石が多く掘り出されました。≫
券売所で入場料400円支払って間歩(山の坑道)内に入ったら、天井が低いので、170cm以下の僕が、5m位進んだ所で、”ガツーン”と、もろに頭をぶっつけ、ビックリ。途中屈まなくても良い場所もあったが、暗い中を進み、それ程歩いていないのに出口に向かって新道の坂を上がっていくと「石見銀山絵巻」が展示されていた。
          もうすぐ入口          ”龍源寺間歩”券売所 ”龍源寺間歩”坑口
   
      坑口     狭くて低い。入った途端     横坑           立坑
   
      横坑     これより先、行けません 上り斜坑で出口に   出口から坑内を
    
 呆気なく出口に出てしまい、”これで終わり?”という感じ、何回か入った事のある「佐渡金山」とは全く違う。観光地化していないのが良いのならこのままでも良いとは思うが・・・。歩いて来た距離から見ると”物足りない”。
 実際には、江戸時代に開発された間歩156.7m(内、国指定史跡の範囲が坑口から20mまで)と栃畑谷へ通り抜けられる新坑道116.4m。因みに新坑道に、「石見銀山絵巻」が見にくい中で展示されている。帰りは、銀山川の反対側の舗装道路の下り坂を歩いて帰る事に。
 出口を出て帰り道       売店      佐毘売山神社への階段  下河原吹屋跡
   
    稲刈り中           渡辺家周辺         渡辺家住宅
  
 やっと銀山公園の駐車場に戻り着く。往復で1時間45分。8,371歩。でした。
県道46号線を戻り、太田市駅から国道9号線に戻り、右に日本海を見ながら江津方面に走ると、”大浦港”の港に出る手前の(五十猛局)前に、「石見銀山大浦港番所跡」の表示がされていた。
   五十猛(イソタケ)周辺       五十猛局前の石見銀山大浦港跡の碑
   
 (仁万局)(温泉津”ユノツ”局)(福波局)と寄って行くと、福波局で15時55分。今日の郵貯回りは、ここで終了し、江津ICから山陰道に乗り、広島を目指す。この辺りにも風力発電用の風車が山の上に何機も繋がって。山陰地方には前から多いそうだ。 
続は次回に。    

早朝の「松江城」へ。

2011-10-19 22:51:56 | Weblog
 9月14日(水曜日)
 時間がないので、朝食前に「松江城」へ行って来ようと、ホテルの前からタクシーに乗って出る。宍道湖の入口に架かる四本の橋(宍道湖大橋・松江大橋・新大橋・くにびき大橋)の内の新大橋を渡り、掘割に沿って走り、【松江城】大手門口に。今日も朝から良い天気に。
≪慶長十六年(1611)に堀尾吉晴により、足掛け五年の歳月をかけて築城された”松江城”は、山陰で唯一現存する天守閣で、桃山風の造りが特徴。黒い下見板と白壁のコントラストが、質実剛健な構えで美しく、別名「千鳥城」とも呼ばれる。≫
   「松江城」大手門口         井戸跡         井戸跡内
  
 小泉八雲文学遺跡の木の碑が建っている脇の石段を上ると三ノ門跡。左に【松江神社】が。
≪御祭神は、松江開府の祖の堀尾吉晴公・初代藩主の松平直政公・七代藩主の松平治郷(不昧)公に徳川家康公。明治七年に旧松江藩の人々によって、楽山に松平直政公を御祭神として、楽山神社が創建されましたが、寛永五年(1629)堀尾忠晴公が、朝酌村西尾に創建した東照宮を明治三十二年に合祀し、当地に御遷座、松江神社と改称されました。≫
   三ノ門跡       「松江神社」鳥居       「松江神社」
  
 参拝したが、時間が早くて朱印は貰えない。神社隣に洋館が建っており見に行くと【興雲閣】。
≪この建物は、山陰地方に明治天皇をお迎えしようという地元の強い要望によって、その御宿所とするため、松江市が13,489円を掛けて明治三十六年(1903)に建設した。まもなく日露戦争が起こり、天皇の行幸は実現しなかったが、明治四十年五月、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の山陰行啓の時、御旅館としてその務めを果たした。現在”松江郷土館”≫
興雲閣の前に大きな公孫樹の木があり、”銀杏”が鈴生りに。更に石段を上がると松江城の天守閣が間近に見える。岡山の”烏城”より雰囲気が良い城だが、時間が早すぎて入れないのが残念。又、次に来た時には必ず入って見ようと思う。
      「興雲閣」        興雲閣前の銀杏     松江城天守閣
  
                  天守閣                      裏へ下りる石段
   
 石段を裏に下りると、”ギリギリ井戸”を見ながら、廻っていくと城内なのに普通に車が走っている中を【護国神社】へ参拝。
 「護国神社」鳥居        「護国神社」
 
 その先で、掃除をしている方達の奥に「城山稲荷神社」があり、50段の石段を登って参拝。
  稲荷神社の鳥居    神社への石段     「城山稲荷神社」拝殿
  
 場内から”稲荷橋”を渡って外に出、”新橋”を渡り小泉八雲記念館の方へ歩くと時間前なので開店前の状態だったのは残念だったが、白壁造りが堀端に続く景色は見応えがある。
 木造りの”新橋”  看板は”アイ不動産”だが 
 
   「小泉八雲記念館」       「小泉八雲旧居」       「田部美術館」
    
  「菓子老舗 風流庵」       「出雲そば 八雲庵」   「八雲庵」前の堀端の”松”
  
    「武家屋敷」門          「茶房 八雲庵」
 
  堀端の”芙蓉”         ピンク          白        堀川めぐりの遊覧船
   
 白壁を見ながら歩いていたら、堀の中の石垣近くに一羽の”アオサギ”を発見。地元の川でも見れるのでそれ程ビックリはしなかった。松江城を約一周して大手門の”ぐるっと松江堀川めぐり”の乗船場に戻ってきたので、丁度来たタクシーに乗ってホテルに戻る。
  堀に”アオサギ”      ”うか橋”        ”北惣門橋”    大手前広場乗船場
   
 因みに、乗ったタクシーの運転手さんに”観光タクシー”の件でお聞きしたら、
1時間:5,000円。4時間:2万円。1日貸切:3万円だそだ。1時間15分。4,564歩の早朝散歩でした。

久し振りの松江の夜。

2011-10-18 22:05:53 | Weblog
 9月13日(火曜日)
 門脇氏に予約しておいて頂いたホテルにチェックし、着替えて待っていると、門脇さんが迎えに来てくれた。何年振りだろうか?。「村さ来」の山陰地区本部は島根県と鳥取県の受け持ちだが、会社の事務所が浜田なので、山口県に近い場所のため、二県を管理するには場所が悪く、松江に事務所を設け、直営の1号店も松江市内に開店させ、昨年亡くなった村岡氏が中心となって管理、加盟店への指導・援助なども実施していた。門脇氏は、元々調理師で、村岡氏と一緒に働いていた関係で、”村さ来”に関係し、新メニュー説明会だとかで東京にも何度か見えており、自分が出張で伺う時は、直営店の板長として料理を提供してくれ、店回りは村岡氏について鳥取地区の加盟店を廻ったり、会議を開いたりし、年配者の村岡さんにも大変お世話になった。かなり前に地区本部を解約し、今は加盟店だけ鳥取県に残っている状況。門脇氏は村岡氏の遺志を継いで、元の仕事 社団法人全日本司厨士協会鳥取県本部松江支部の会計部長という肩書で、料理屋や居酒屋にメニュー提案したり、料理の規格をしたりしているそうで、結構頑張っている。連れて行ってくれた店もそうゆう店で、「折角山陰へ来てくれたので、美味しい物をと電話をしたら、今日は27㎏の”クエ”がはいったとの事で、行ってみましょう」と案内してくれた。店は「旬門」。内装は今様だが、店の裏が大橋川が流れていて雰囲気が良い。
    旬門店頭          旬門店内            門脇氏
  
     お通し        クエの刺身       生サバ刺身        岩ガキ
   
一番最初に提供される”お通し”が洒落ていて、次に出てくる料理に期待を持たせてくれたが、出てきた”クエ”(地元の名称で”赤水”)は勿論、生サバも岩ガキも大変美味しかった。あっという間に2時間たってしまい、昔の直営一号店の有った伊勢宮町に見に行き、門脇氏の知人の店「食の素材や 夢すたじお」に連れて行ってくれたら、昔自分が使っていた職人がこの店に入っておりビックリしていた。その後伊勢宮町の「元村さ来」の物件を見(閉店したままの状態)、一番の飲食街を歩いたが、客引きの人ばかりで、ここも昔の面影はない、。最後に村さ来山陰地区本部設立当時の営業担当をしていて、22年前に自分の店を開いた溝辺氏の店ショットバーの「大正倶楽部」へ。彼とも10何年振り。3人で話していると、清宮氏の事は当然だが、青木氏の名前が出たり、イベントの話が出たり、直ぐに昔の話で盛り上がってしまった。
 「大正倶楽部」店内      溝辺氏      鯛のカルパッチョ
  
最後に、松江の夜で、門脇氏に全てお任せになってしまい(払わせてくれなかった)、急に当日連絡したのに、大変お世話になってしまった。又、今日の走ってきたコースで、昼間走った「大根島」に門脇氏の自宅が有ったそうで、昔聞いた事を思い出したが、その時点では全く忘れていた。門脇氏が東京に出て来た時には必ず連絡してくれる事を約束してホテル前で別れる。
久し振りに楽しい松江の夜でした。