goo blog サービス終了のお知らせ 

郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

関西・第六弾「龍安寺・金閣寺」を廻って。

2010-11-27 23:53:37 | Weblog
 11月17日(水曜日)
 高雄発11:45のJRバスを待つ間、後に並んでいた女性に、先程買った焼栗をあげたら、のど飴をくれた。話し
てみたら、3か月前に広島から御主人の転勤でこちらに来たので、毎週京都のあっちこっちを歩いているとの事。
家はこの途中との事。仁和寺の一つ手前の福王子で下りられる時に「ありがとう。美味しかったです」と声を掛け
てくれた。世界遺産の「仁和寺」の二つ先が石庭で有名な世界遺産の【大雲山 龍安寺】。ここでバスを下りる。
≪徳大寺家の別荘だったのを、宝徳二年(1450)管領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山
 として創建されたものである。応仁の乱に焼失して、明応八年(1499)、勝元の子、政元が再興したが、寛政九年
 (1797)火災で方丈・仏殿・開山堂などを失った。現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したものである。
 方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し、禅苑の名刹である。≫
駐車場が分から入り、入館料を払い、鏡容池の脇を歩き、石の大仏を見ながら庫裡に入り、板の間に上って朱印
をお願いしてから方丈の見学に。
 縁側に座って”石庭”を見学したあと、裏に廻ると水戸光圀寄進といわれる”蹲(つくばい)”を。
  
十何年か前、会社の組織が変り、常務取締役に昇進して何年目かに、ある人とここを訪問した時に、この言葉を
知り、文鎮を買って帰り、会社の机の上に置いておいた。会社を辞め、新しい仕事をしようと思った時に、社名を
色々とカタカナで考えていたところ、文鎮に目が行き、「吾唯足知」(ワレタダタルヲシル)から”知足”という
社名に。今も良い名前を付ける事が出来たと思っている。(禅の格言を謎解きに図案化された無言の悟道である)
朱印を頂き、色紙・タペストリー・飾り色紙、ついでに朱印帳を三冊購入して庭に。(マップ添付・道順)
             
勅使門前を通り、西源院の脇を歩き、鏡容池の手前に、道順に幟旗の立っていた「名物 ゆどうふ」のお店が西
源院の中にあり、丁度昼食に。写真も撮ったが、湯豆腐の中にピーマンの切ったのが入っていた。何で?という
感じ。わざわざ”おばんざい”付きのセットを頼んで見たが、ここの”おばんざい”はあまり参考にはならない。
湯豆腐だけで十分。
 龍安寺を出て、”きぬかけの道”と呼ばれる道を歩くと立命館大学の前を通って今度は【金閣寺】へ。
≪お釈迦様の骨を祀った舎利殿「金閣」が特に有名なため、金閣寺と呼ばれていますが、正しくは「鹿苑寺」と
 言い、臨済宗相国寺派の禅寺です。この地は、鎌倉時代に西園寺公経の別荘北山第が在りましたが、足利三
 代将軍義満が大変気に入り、応永四年(1397)に西園寺家から譲り受け、山荘北山殿を造りました。金閣を
 中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇(一休禅師の父)をお招きしたり、
 又、中国(明国)との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した所で、この時代の文化を特に北山文化と言い
 ます。義満の死後、遺言通り夢窓国師を開山(初代の住職)とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとり、鹿
 苑寺と名付けられました。≫
流石に金閣寺は、大型観光バスが多く、修学旅行生を含めて、人・人・人。総門で入場料を払うと、切符が
「金閣舎利殿 御守護」の”お札”の様な切符になっていて、これは捨てられない。鏡湖池越しに”金閣”が黄金
色に光って見え、丁度陽も差して来て紅葉も映える。場所を探して皆でシャッター(逆さ金閣が奇麗に)を。
参道と総門        金閣
≪金閣の前にある鏡湖池(キョウコチ)を中心とし、西の衣笠山を借景としたこの庭園は室町時代の代表的な池泉
 回遊式庭園で、国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。方丈の北側には京都三松の一つで舟の形を
 した「陸舟の松」があり、義満が自分で植えたと言われています。金閣の後を進むと、義満がお茶の水に使っ
 た と伝えられる「銀河泉」、手を清めた「厳下水」があり、その次の「龍門の滝」は、鯉が滝を登ると龍になると
 言われる中国の故事「登龍門」に因んだ「鯉魚石」が置かれています。「安民沢」は昔からある池の名前で、中
 の島には「白蛇の塚」があります。≫
皆にくっ付いてゆっくりと周遊し、”不動堂”に来た途端にお土産やさんばかりで、寺地内なのに凄いなとビックリ。
朱印もこの”商売”の中で二種類頂き、裏参道を通って外に。
    
 この後どっちに行こうかと思って地図を見て、行ったことのない【大徳寺】へ行ってみる事にして金閣寺前から
北大路通を歩き、(京都北大路千本局)に寄り大徳寺前交差点の少し手前から静かな寺域に入る。突き当って、
ガイドさんの付いた観光客の方の後に付いて歩くと朱色の山門脇を抜けてぐるっと廻り込んで入って行った場所
が【京都紫野 高桐院】。”ここは何だ?”と思いながら竹林に囲まれた雰囲気ある石畳を歩くと小さな庵が。
≪細川幽斎公の長子忠興三斎公により慶長六年(1601)に建立された大徳寺塔頭の一で、開祖玉甫紹和尚は
 幽斎公の弟であった。墓所は三斎公及びガラシャ夫人の墓石は、生前愛好した石灯篭をっもってそれに当て
 た。これは元利休秘蔵の天下一の称ある灯篭であったが、豊大閤と三斎公の両雄から請われて、利休はわざ
 と裏面三分の一を欠き、疵物と称して秀吉の請いを退けた。後に利休割腹の際、あらためて三際公に遺贈し
 たもので”無双”という銘を持ち、また別名を欠灯篭ともいう。≫
知らずに入り、縁側から置いてあるスリッパに履き替えて庭に出たら、墓所が有り、細川忠興は分からなくもない
が、夫人でキリシタンだったガラシャの墓が一緒に在るとは思わなかったので、大きくはない墓所だが、何かホッ
とするものを感じた。墓所の為の”三斎井戸”が有り、庭を表現した句が添えられていた。”露地は色な形のとび石
あり、人は石の上を歩く”と。来れて良かった。      
 ”大徳寺”で朱印を貰おうと思っていたので、高桐院の方にお聞きしたら「この場所全部が”大徳寺”で、ここが
というお寺はないんですヨ」と。中心に在る勅使門・三門・仏殿・法堂が中心何だろうが、一切受け付けていない
そうで、なんとなくガッカリ。帰り掛けに通った寺院の”三玄院”院頭に「石田三成公御墓所」の表示が有るが、
「拝観謝免」と有り、入れない事に。拝観可能な中、”洛北の苔寺 名勝庭園”と有った【龍源院】に入り、拝観料を
払おうと思ったら、若いお母さんが赤ちゃんにオッパイをあげながら拝観料を受け取っていたのには驚いた。
≪大徳寺中で最も古いお寺で、名も大徳寺の山号(龍寶山)の”龍”と、今日の臨済禅で唯一つのみ存続している
 松源一派の”源”の両字よりなっている。約500年前、能登(石川県)の領主であった畠山義元公、九州の都総
 督であった大友義長公(大友宗麟の祖父)らが創建した。≫
龍安寺の様な”石庭”が何ヶ所かあり、それぞれ名前が付けられ、石庭でないところは奇麗な”苔”が一面に。方
丈の襖に”竜の図”が描かれ、拝観者も少なく、ゆっくり配管出来る。
             
 北大路通を渡り、住宅街に入り建勲通から、船岡山公園の一角にある、織田信長を祀る【建勲神社】へ。
≪豊臣秀吉が明智光秀を討った後、主君の怨を報じ、大徳寺に於いて七日間の盛大な大法要を営み、信長公の
 霊を慰めるべく船岡山に寺を建てんとしてオウギ正親町天皇より天正寺の寺号を賜りましたが、寺の竣工は中
 途で終りました。爾来船岡山は信長公の霊地として大切に保護され明治維新に至り、明治二年明治天皇は信
 長公の御偉勲に対し特に神社創立の宣下あり、建勲神社の神号を賜い、明治八年別格官幣社に列せられ社地
 をこの船岡山に賜い社殿を新営、明治四十三年本殿以下諸社を中腹の地から山上現在の社地に移建した。≫
結構急な階段を上ると、良い景色が目に入る。一部紅葉も見頃を迎えている。
  
北大路通に戻り、市バスで京都駅前まで戻り、一度ホテルに戻る。
郵貯1局。風景印1局。朱印9寺社。8時間32分。19,055歩。山歩きの下りで足をやられた感じの散歩。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。