釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

象潟や雨に西施がねぶの花

2008年07月05日 05時12分22秒 | お散歩日記/東京地名の話
浅草の観音様の裏に「象潟(きさかた)」という旧町名がある。浅草花柳界の見番があるちょっと粋な地域であり、浅草浅間神社のお富士さんの植木市でも知られる町である。町会名として名前をとどめているが、現在の住所表示にはない地名である。現在の町名は浅草三丁目から五丁目の一部分にあたる。

さてこの「象潟」の由来である。
江戸時代、羽後本荘藩の六郷家の屋敷があったことから、名づけられた。現在の東京の地名で、江戸時代の大名屋敷に起因するものは多いが、ここはちょっと変わっている。本来ならば、本荘町とか六郷町とか名づけそうである。
普通は、青山、麻布盛岡町、仙台坂、南部坂、毛利庭園、佐竹商店街、芝田村町、播磨坂、内藤町、板橋区加賀、江東区白河、鍋島公園、池田山、島津山、仙石山、紀尾井町、信濃町、神田神保町など、大名の名前や役職、藩の所在地、藩の名前など使われる。
「象潟」とはご存知のように、六郷家の領内にあった名勝の名前である。名勝の名前を取った町名はほかには例がないのではないだろうか。
松尾芭蕉の「奥の細道」で訪れた最北の地が象潟である。芭蕉の時代には、潟の中に多くの小島が浮かぶ松島にも匹敵する景勝地であったようだが、その後の地震により土地が隆起し、潟であった部分はいまでは水田になってしまっている。
芭蕉は「奥の細道」で「俤 松島に通ひて また異なり。松島は笑ふが如く 象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて 地勢 魂を悩ますに似たり。」と著し、

象潟や 雨に西施が ねぶの花

と詠んでいる。

西施は、中国の美女で春秋時代の末、紀元前5世紀ごろの美女で、越王勾践(こうせん)の愛妾であったが、越と呉王夫差(ふさ)の争いで、越の参謀である范蠡(はんれい)の計略に従い、夫差の愛妾となる。計略は功を奏し、夫差は骨抜きになり、呉は弱体化して、越に滅ぼされてしまう。越が滅んだ後の西施のことは定かではないが、范蠡に殺害されたともいわれている。
ご存知のように、呉と越の戦いからは、「呉越同舟」「臥薪嘗胆」「会稽の恥」などの故事成句ができている。

芭蕉は、ねぶの花(合歓の花)を美女西施の寝顔にたとえている。
美女だったために運命をもてあそばれた西施の憾み(うらみ・悲しみという意味)なのだろうか。梅雨時の低い雲の下の潟に降る雨に合歓の花が浮かんでいる。

そんな縁で、象潟町会にでは碑を建てて合歓の木を植えている。六月末は合歓の花の咲く季節、そぼ降る雨の中で遠い春秋時代や江戸時代にタイムスリップをするのはいかがだろうか。


合歓の花

 
芭蕉句碑               読みにくいので道の反対側に町会の説明書がある。


句碑の隣には宮戸座の跡の碑

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (Ten)
2008-07-05 07:31:21
私は先日、初めて『合歓の花』を知りました。母に教えてもらったんです。今まで知らなかったという事は、先代の知恵や知識がどんどん失われているんだな、ということを改めて実感しました。
ちょっとでも、間に合うものを覚えていこうと思います。まあ、庭の木々ですら全然名前知らないんですが、“モノには命と名前がある”ということを肝に銘じつつ。
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勉強になりました (雨曇子)
2019-06-22 12:32:31
「象潟や」と入れてみたらこのブログに行きつきました。愛読します。
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