釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

青山の庚申塔

2009年01月30日 16時56分39秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
明けましておめでとうございます・・・・・ってもう月末です。

今回は今から百五十年前、江戸末期のお話です。
さすがの私もこのころは生まれていません。でもこのころから西麻布に存在していたものがあります。

ひとつは長谷寺。現在は永平寺の東京別院になっている寺です。
江戸時代のガイドブック「江戸名所図会」にも載っている由緒正しい寺です。その挿絵にはお堂の屋根の上にとまっているコウノトリが描かれています。最近野生の姿がやっと復活できた珍しい鳥が江戸時代では西麻布にもいたんですね。それほど長閑な場所だったんです。

江戸時代の地図を見ると今の二丁目の朝日通りは川で、その辺りにはたんぼが広がっています。昭和のはじめまで「笄たんぼ」と呼ばれていたほどの田園地帯だったんですね。

もうひとつ変わらないものがあります。それは道です。もちろん舗装をされたりして形状は変わったでしょうが、その位置は昔と変わらないのです。

ゴンタの店の横を三角公園の方に入って、立山墓地に突き当たった二又のところに「庚申(こうしん)塔」という石碑があります。



暦の庚申の日にはというのは、悪い虫が人間の行状を天に知らせ、それで人間の寿命が決まると信じられていました。そこで六十日に一度の庚申の日には、村人が集まって徹夜をしたそうです。そんな講が何年も続いた記念に建てたのがこの碑です。

画像でわかるように建立は1865年(慶応元年)。まさに幕末。
今から12回前の今年と同じ丑年、144年前のこと。

この石碑は道しるべも兼ねていてます。だからこの道がどこに続いていたかわかるのです。
「右 あをやま 内とうしん宿 ほりのうち 左 二十きおくみ 百人おくみ ぜんこうじ」

今の漢字に直すと
「右 青山 内藤新宿 堀ノ内 左 二十騎御組 百人御組 善光寺」となります。

右に進むと青山・・・今の長者丸通り、そして内藤新宿、杉並堀ノ内の妙法寺、左は青山の幕臣が住んでいた二十騎組(現在の南青山4・5・6丁目)百人組(大山道沿い・現在の青山通り沿い)そして今も北青山にある善光寺、という次第です。

さてそれでは逆方面、麻布の側はどうなっていたでしょうか。
ゴンタの前で朝日通り(当時は川)を横切り道は夕日通りに続いていました。ゴンタの前には小橋があったようです。
私は父から橋の話を聞いたことがあります。昔、下水工事で道路を掘り下げたときに地中から、橋脚が出てきたそうです。そこには「たぬきはし」とかかれていたそうです。「狸橋」なんてユーモラスな名前ですね。そのくらい当時は田園地帯だったのでしょう。

夕日通りと同じ道をたどった江戸時代の道は、六本木通りの向こう側にも続き、向こう側からは、平行して流れていた川に沿った道になったようです。
今の牛坂下にも橋があってそこが笄町の名前の起こりだった笄橋です。

笄橋については以前のブログをご覧ください。
笄橋
黄金長者と白金長者
娘と息子

先ほど書いた長谷寺は今よりも広い寺だったようです。現在もある大安寺、慈眼院も含め今の夕日通り沿いまで広がっていたようです。現在も夕日通りに面したところまで、長谷寺の土地であることからも明らかです。

もちろんそのころは今の外苑西通り、六本木通り、根津美術館から表参道に通じる通りなどはありませんから、今書いた道が重要であったのでしょう。
江戸の人が歩いた道だと思って歩くとまた不思議な感覚になります。

(この記事は太陽新聞のコラム「西麻布二丁目の夕日」に加筆しています。)
コメント (1)
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