釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

息子と娘

2005年01月26日 03時44分39秒 | お散歩日記/東京地名の話
モンタギュー家とキャピュレット家ならぬ、白金長者と黄金長者にもそれぞれ息子と娘がいたそうです。二人は舞踏会ならぬ目黒不動の参詣で見かけて一目惚れしちゃいます。ここで二人が逢瀬を重ねたのが、両屋敷の中間地点にある笄橋。息子が娘に贈った不動明王の模様の入った笄が二人の危機を救う話なんです。この話の原点がどこにあるかは不明ですが、なかなか面白い。

基本的には目黒不動の御利益話なんですが、
(1)男(白金長者の息子)が目黒不動で不動尊の模様の入った笄を拾う。
(2)男は女(黄金長者の娘)を見染める。
(3)お互いの屋敷の中間点にある笄橋でデート。
(4)女に恨みを持った亡霊が橋の下から出て、女を苦しめる。
唐突に橋の下から亡霊。橋の下というと人柱を思い出しちゃいますね。この亡霊はたぶん女が好きだったのにだまされて人柱にされたんだろうな、能の「綾鼓」のように亡霊になって、女を苦しませるわけだ。
(5)笄の不動尊が亡霊を鎮める。亡霊は橋の下に帰っていく。
本当に能のような話。
(6)男は黄金長者の婿になってめでたしめでたし。

それで笄橋になりました。という話なんですね。
これだとロミオとジュリエットにはならない。全然悲劇じゃないし。

ところがこんな話もある。
お互いの親は二人の恋を認めずに、二人を会わせない。
とうとう娘は狂ってしまい。夜な夜な青山から麻布のあたりをさまよい歩いたそうだ。
その娘が青山から降りてきたのが「姫下坂(ひめおりざか)」

さてその坂はどこにあるのだろうか?
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黄金長者と白金長者

2005年01月25日 19時24分41秒 | お散歩日記/東京地名の話
笄橋にはもう一つの伝説があります。
それは白金長者と黄金長者に関するものです。

黄金長者は渋谷長者ともいわれていますが、まあいろいろな説があってどれがどれやら?
まず、南青山三丁目に長者丸商店街というのがあってそのあたりに住まいしていたという説。
渋谷の金王八幡宮あたりにあった渋谷城に住まいしていたという説。
この渋谷城が平安末期から戦国時代に北条氏によって攻め滅ぼされるまで存在していたという説。
時代も場所も漠然として、もう少し調査が必要です。(調べればわかると思いますが・・・。)

白金長者はその点もう少しはっきりしています。
南北朝の頃の館跡が白金の自然教育園の中に残っていて、その子孫と称する方もいらっしゃるようです。旧町名にも品川区に上大崎長者丸というのがあって、その場所は高速2号線を挟んで、自然教育園と向かい合っています。

黄金長者の名称は「渋谷金王丸」という源平の頃の人物から出ているようです。
それに対する名称として「白金」が出てきたんではないでしょうか?
そのぐらい、相対する名前の長者でロミオとジュリエットのような話が展開するのです。
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笄橋

2005年01月24日 17時13分50秒 | お散歩日記/東京地名の話
笄町の名前の起こりは遠く平安時代にさかのぼります。

承平8年(938)2月、源氏の祖といわれる源経基は、当時武蔵介(武蔵の国の副知事)でした。経基は武蔵権守(実質の知事)の興世王とともに職権と称して、武蔵の国足立郡内へ強行入部したことから足立郡司(足立郡の長官・現在のさいたま市西区)の武蔵武芝と紛争が勃発し、対立関係に発展しました。その対立に介入してきたのが下総の国の平将門なのです。
興世王は武芝・将門と講和するが、経基はこれを疑い、都に逃げ帰り、天慶2年(939)3月3日、将門の謀反と報告をしました。
これが天慶の乱(平将門の乱)の始まりです。

この経基の都への道筋でこの物語は起きます。

当時、今の外苑西通り一本西側の通りは龍川という川だったそうです。この川はその頃は大きな川で、今でもわかるように谷間になっているところから、将門の一派が「龍が関」という関所を設けていたようです。
経基は、自分は将門の一派で、相模の国に軍勢を集めに行くと偽り、太刀に付属している笄を身分の証しに置いた行ったそうです。そして無事に京都に着いたということなのです。
その後、11世紀半ば、経基のひ孫である源頼義が陸奥守として下向する際に通りかかり、先祖の名前が橋の名前になっていることをはばかり、その伝説に基づいて、笄橋と改称したそうです。
その後、川の名前も笄川と呼ばれるようになり、橋も川も明治頃まで存在していたようです。

笄橋は現在西麻布交差点から広尾方向に向かって一つ目の信号を右折した一つ目の小さな交差点のところにあったようです。この外苑西通と平行する道が笄川のあとです。現在の地下鉄広尾駅の上の交差点を「広尾橋」というのも笄川に架かっていた橋の名前の名残です。
またgontaの前には「たぬき橋」という橋があったそうです。建て替える前の家の庭には橋の橋脚の石がありました。(現在はありません。)

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麻布笄町

2005年01月21日 06時03分06秒 | お散歩日記/東京地名の話
今、権太が住んでいるのは西麻布。生まれた頃は麻布笄町でした。
笄・・・この字なかなか読めません。
読み方は【こうがい】
その意味は
(1)
髪を整えるための道具。毛筋を立てたり、髪のかゆいところをかいたりするための、箸に似た細長いもの。男女ともに用いた。象牙・銀などで作る。

(2)
江戸時代の女性用髪飾りの一。髷(まげ)などに挿す。金・銀・鼈甲(べつこう)・水晶・瑪瑙(めのう)などで作る。

(3)
刀の鞘(さや)に挿しておく、金属性の篦(へら)のようなもの。本来整髪具だが、中世以降は装飾用。

(4)
錨かん(びようかん:錨(いかり)の上部に幹と直角につけた鉄棒。これによって錨が倒れ、爪が海底に食い込む姿勢になる。)の別名。
(大辞林より)

この笄町の地名には古い伝説があります。
次回はこの伝説について書きますね。
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はじめまして権太です

2005年01月14日 04時10分39秒 | あいさつ
ブログを作りました。
これから大好きな東京のことや、いろいろな不思議なことを書いていこうと思います。
よろしくお願いします。
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