釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

泥中に咲く蓮の花

2009年08月28日 20時42分45秒 | 四季の花
泥の中で育っても清らかさを失わない蓮の花は仏教では人生の喩えとして使われます。
浄土教の源信・法然・親鸞の教えを
源信「泥中に ありて花咲く 蓮華かな」
法然「泥中に あれど花咲く 蓮華かな」
親鸞「泥中に あれば花咲く 蓮華かな」
と例えた話もあります。

水中や空中の茎から花が出るのではく、泥の中から直接花が伸びて咲くことをよく現しています。


蓮の蕾

『妙法蓮華経』でわかるように蓮は仏教と深くかかわっています。
仏の座る台座は蓮ですし、散華にも蓮の花を用います。

「一蓮托生」「泥中の蓮」「蓮っ葉」などことわざや故事成語にも使われる花です。

ハスはハス科ハス属の水生植物です。
世界で二種類、日本にも古代から存在していたようですが、現在のものは宋の時代に改良が進んだものが導入され、その後、江戸時代の園芸ブームで100種類の品種を数えるまでになったそうです。

「蓮」という名前の由来は下の画像をご覧のように


花の咲いたあとの果托が蜂の巣のようであることから「はちす」といわれそれが「ハス」になったようです。
現在でも蓮を「ハチス」ということはよくあります。(仏教のことばや古典芸能ですが・・・。)

蓮はまた食用としてもいろいろと使い道があります。
一番食べるのはもちろん「地下茎」である蓮根(レンコン」、
そして、ベトナム料理で出される「茎」、「おしべ」を茶葉に混ぜる蓮花茶、
「葉」は食材や米をを包んで蒸し物を作ったらり、乾燥させて蓮葉茶に、
「種」はそのまま食します。
このようにほとんどが食用になります。

また、蓮の繊維で曼荼羅を織り上げた中将姫伝説のように、繊維までも使えるようです。







早朝に咲いた花は午後には閉じてしまいます。
それを三日間繰り返し、四日目に散ってしまうそうです。





散った花びらは何かに似ていませんか?
そう、中華料理で使うレンゲ、正式名称「チリレンゲ(散蓮華)」。
別にちり鍋に使うからチリレンゲっていうんじゃありませんよ。

もちろん「レンゲ草」も蓮の花びらに似ているから名付けられた花です。



不忍池には「蓮見茶屋」も来月末まで営業中です。
もう少し蓮の花を楽しめそうですね。



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忍ぶ忍ばず

2009年08月27日 21時02分50秒 | お散歩日記/東京地名の話
千代田線の始発電車に乗って不忍池に蓮の花を見に行きました。

蓮は、ご存知のように早朝に開花し、昼前には花を閉じてしまいます。だからきれいに咲いた花を見るためには早起きが必要なのです。おかげさまで、朝まで起きている仕事なので、早起きをしないで、そのまま電車に乗りました。
千代田線の湯島駅を降りて少し歩くと不忍池です。

千代田線といえば、1967年9月千代田線の工事中に不忍池の水が工区に流れ込み、干上がったことがありました。子供心にそのニュースを覚えているのも恐ろしいものです。
確か不忍通り(千代田線が通っている通り)側の池の水がなくなったのを記憶しています。その風景はどんなだったのでしょう。

不忍池は、もともとは江戸湾(東京湾)の入り江で、海岸線の後退で室町時代には今のように池になっていたようです。
蓮が有名になったのは、八代将軍吉宗の時代(享保年間)だそうです。

さて、不忍池の名前の由来は、今、上野の山といわれている高台はもともと「忍ヶ岡」と呼ばれていました。忍に対して忍ばず・・・・というしゃれから名付けられたというのですから面白いですね。

江戸初期に江戸の鬼門(東北の方角)に当たる忍ヶ岡には、天海僧正によって寛永寺が創建されました。この寺は京都の鬼門封じの寺「比叡山延暦寺」にならって名付けられました。
山号のは「比叡山」にならって東の比叡山の意味から「東叡山」とし、寺号は、建立の時の元号「延暦」にならって「延暦寺」、当時の元号の「寛永」をとって「寛永寺」としたのです。

比叡山の麓には琵琶湖があります。
寛永寺もその岡の下には、不忍池があります。

琵琶湖には竹生島という島があり、宝厳寺という日本三大弁才天・西国三十三観音に含まれる名刹があります。琵琶湖だから琵琶を持つ弁財天が祀られたのかどうかはわかりませんが・・・。

それを模して、不忍池にも池の中央に弁才天を安置する島を築いたそうです。
それが今も参詣人が訪れる中島弁天堂です。


正面から見た弁天堂


ご丁寧にも堂前に琵琶が。

弁天堂の周囲にはたくさんの碑や供養塔や塚が並んでいます。
その風景も不思議なものがあります。


ふぐの供養塔

早朝、それも五時台だというのに不忍池の周辺は異様な熱気に包まれていました。
ウォーキングやランニングをする人、そのあたりにご宿泊の方、上野広小路から家路に着く中国人、犬の散歩、通勤、写生をする人、写真をとる人(私も)、座って数人で会話している人たち、そして女装の人まで・・・・。
そこかしこで挨拶は交わされるし、数十人の集団で走る人々、数多くの自転車。
子供も若者も老人もわんさか・・・・。
何でこんなに朝早くから人がたくさんいるかわかりません。
ちょっとカルチャーショック。

池は三つあって、北の池は蓮が植わっていますが、上野動物園の敷地内にあって一周はできません。西の池は、ボート池で蓮は植わっていません。南の池はびっしり蓮が植わって、周囲を回ることができます。
今回はじっくり南の池を二周しました。日が昇るにつれて池の表情を変わっていきます。

蓮の画像は次回にじっくりご紹介します。

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東アジアの中の日本を考える二つの展覧会

2009年08月25日 21時11分23秒 | 美術館・博物館めぐり
東アジアの国々と日本を比較する二つの展覧会に出会いました。



まずは
「日本建築は特異なのか」 (8月16日)

千葉佐倉・国立歴史民俗博物館 8月30日まで開催

東アジアの建築の中で日本建築は特異なのかを、中国、韓国との比較から考察している展覧会です。
宮殿・宗教建築・住宅などそれぞれの事象を比較して、写真や模型を展示しています。それぞれの地域が中国の影響を受けながら、独自の様式を持つに至った過程を比較を一覧表で示しながら解りやすく解説していました。

三か国の建物はよく似ていると感じますが細部ではいろいろと違い見せています。印象に残ったのは、住宅の違いでいろいろな点で相違があるようです。
特に韓国・日本は靴を脱ぐのに対して、中国は靴のまま家に入る点や、中国・韓国では、戸は観音開きが普通なのに対して、日本は引き戸である点など、非常に印象に残る解説でした。

また他国にはない神社建築で、神像が存在しないことが多い神道では、建物自体が神様の神格を表すので、何々造りという神社ごとの様式があり、建物から神様の内容を知ることができたそうです。

ほかにも韓国と日本の大工道具の比較や建築図面の展示などがありました。

ボリュームは少ない展示でしたが、いろいろ興味を引く内容で楽しめました。



次は
「染付 ~藍が彩るアジアの器~ 」 8月25日

東京国立博物館 9月6日まで

素地の白磁にコバルト顔料で模様を描き、透明な釉をかけて焼くと、文様は鮮やかな藍色に発色します。白磁に藍色のコントラストが美しい磁器を日本では「染付(そめつけ)」と呼びます。

中国では「青花」と呼ばれる染付は、元朝時代の後期に景徳鎮で作られるようになったようです。その後、明時代に隆盛を極めます。
その技術は周辺国に及び、ベトナム、朝鮮、そして日本と広がっていきます。

それぞれの国がそれぞれの染付を作り出していて、その味わいもとても異なったものです。

日本では、伊万里焼と呼ばれ、鍋島藩の独占のもと発展していきます。
また、茶道具として、ベトナムのものや朝鮮のものが珍重されたりと独自の道をたどります。

たくさんの皿や器を見ていたら、これにどんな料理を載せたらいいのか、どんな盛り方がいいのか、そんなことばかり頭をよぎるようになってしまいました。

実際、最後のコーナーでは、染付を使った茶席やテーブルセットが展示しありました。

この暑い夏、白地に鮮やかな藍の色彩が何よりのご馳走だった展覧会でした。
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変化朝顔

2009年08月24日 18時11分37秒 | 四季の花
前回ご紹介した花は「朝顔」でした。
朝顔の中でも「変化朝顔」です。

「桜」「花菖蒲」など江戸時代の花の変種改良の話は今までにも取り上げてきました。「朝顔」も江戸時代に改良されたそんな花なのです。

朝顔の種は「牽牛子(けんごし)」と呼ばれる下剤や利尿剤の薬草で、奈良時代末期に遣唐使が持ち帰ったものだといわれています。ですから最初は花を愛でるものではなく、薬草園で育てられていました。万葉集の登場する「朝貌」はキキョウだといわれています。

「朝顔」という名前は、10世紀の『本草和名』に「牽牛子 和名 阿佐加保」と著されていることから、平安時代に定着したと思われます。『源氏物語』や『枕草子』に登場し、和歌にも詠まれるようになっています。

江戸時代、17世紀半ばに白い花が発見されるまでは、青紫の花のみだったようです。その後、いろいろな花色が発見されて大園芸ブームにが巻き起こったようです。

品種改良によって、花形まで変化するように作られましたが、雄しべや雌しべが花弁に変化した花は種子が取れません。簡単にいうと突然変異しなかった兄弟の種子から次代の突然変異を待つことで、品種を維持しているのです。恐ろしいほどの江戸時代の園芸技術です。

幕末に二度目のブームが起こったあと、明治期には大輪の朝顔が好んで作られるようになって、変化朝顔は廃れてしまいます。

近年九州大学で研究復活され、東では佐倉の歴史民俗博物館が研究栽培に当たっています。
毎年、夏には変化朝顔の展示が付属の「くらしの植物苑」で開かれています。


くらしの植物苑(京成佐倉駅・JR佐倉駅から徒歩またはバス)

それではさまざまな変化朝顔をご覧に入れます。


信じられないような形です。これでも朝顔です。


優雅な花です。葉っぱはまさしく朝顔なんですが・・・。


これも朝顔には程遠い花です。


なかには蔓を上に伸ばさない枝垂朝顔も・・・。


同時期に「向島百花園」(東武・東向島駅下車)でも変化朝顔展が開かれます。
これは朝顔花壇。


これとTOP画像は向島の朝顔です。このくらいならまだ朝顔だと判断できますね。

今週末、28日~30日まで、日比谷公園でも変化朝顔展があるようです。
興味がある方は是非お出かけください。


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この花は何?

2009年08月21日 20時24分17秒 | 四季の花
今日のブログはクイズです。
この花は何でしょうか?





上の花の品種名が下の札です。
戒名みたいな名前・・・・前半が葉の色と形状、後半が花の色と形状です。





下の二つも同じ花の園芸品種です。

さてさて、皆さんはわかりましたか。
正解は次回ブログで。
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道教の美術 ‐道教の神々と星の信仰‐

2009年08月18日 20時48分01秒 | 美術館・博物館めぐり
道教の美術 ‐道教の神々と星の信仰‐

日本橋・三井記念美術館(地下鉄三越前駅・JR新日本橋駅)8月15日

日本で初めて開催された「道教」の美術展です。
昨今の宗教展覧会ブームの中でも「道教」はなかなか奥深く難しいものと思われていたのでしょうか。
道教を一口で説明するのは難しいのですが、展覧会では「中国の風土の中で生まれた様々な神々に、不老長寿や福禄寿といった現世利益を願う民族宗教です。」と解説しています。
私たちは「老子」の思想として学んだ記憶がありますが、どちらかというと日本の神道の中国版のようなものだと捉えられるようです。

この展覧会では、その「道教」が中国の国民的な宗教になっていったかを展示物でわかりやすく解説するとともに、その「道教」が日本に与えた数多くの影響を星の信仰を中心にたどっています。

前半は中国の文物が中心で、後半は日本の文物になります。
特に日本に与えた影響がこんなに大きなものだと驚かされます。

役行者に始まる「修験道」や安倍清明で名高い「陰陽道」、閻魔大王や地獄の思想、「蓬莱思想」、「風水」、「四神」、「五行思想」、「福禄寿」、「七夕」、「妙見信仰」、「庚申信仰」など枚挙に暇がありません。

あまりの影響の広さに焦点がややボケていますが、星の信仰を中心に置いたところで、わかりやすくなっています。

国宝や重要文化財も展示されていますが、展示されている文物で「道教」の思想をわかりやすく解説しているところに魅力を感じられる展覧会でした。

9月6日まで

「道教の美術」 展覧会ホームページ


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長谷寺で掃苔

2009年08月12日 05時53分51秒 | 掃苔録
前のブログでかいたように西麻布の長谷寺には多くの有名人のお墓があります。
そのいくつかをご紹介しましょう。

坂本九
「上を向いて歩こう」で一世を風靡した坂本九さんは、1985年8月12日に日航機事故で亡くなりました。享年43歳。
毎年、命日にはご家族がお参りにこられるそうです。
あっ、今日は8月12日・・・・あらためてご冥福をお祈りします。


坂本九さんの墓

エノケンこと榎本健一
日本の喜劇王として知られるエノケンこと榎本健一さんは、青山南町(現在の南青山)のかばん屋に生まれ、その後、父親が笄町(現在の西麻布)で煎餅屋を営んでおられた縁でここにお墓があるようです。
のちに店は麻布十番に移転したそうで、今も残る老舗の煎餅屋や豆屋をエノケンさんの実家だという都市伝説があります。(事実じゃないのでは・・・。)
1970年に亡くなり、享年65歳。若かったんですね。
エノケンさんといっても今となってはご存じない方も多いでしょうが、私はテレビなどで見たことがあります。寂しいですがもう歴史上の人物になりつつありますね。
お墓の入り口に人柄を表すような洒落た墓碑が立っています。




エノケン(榎本健一)さんの墓碑と墓

沖雅也
壮絶な死と「涅槃でまってる。」の言葉で知られる沖雅也さんの墓もここにあります。日景家の墓で眠りにつかれています。
亡くなったのは1983年、享年31歳。


沖雅也さんの墓

黒田清輝

「湖畔」などの作品で知られる明治の洋画家です。
晩年、麻布笄町(現在の西麻布4丁目)に在住した縁からここにお墓があるようです。
1924年57歳で亡くなっています。

 
黒田清輝の像と代表作「湖畔」(本物)
東京国立博物館黒田記念館で撮影


黒田清輝の墓・・・画像にはないがなぜか鳥居があるお墓です。

井上馨

初代外務大臣で明治の元老井上馨。
鹿鳴館で知られる政治家です。
1915年79歳で亡くなっています。


井上馨の墓

ほかにも明治一代女で名高い花井お梅
ソニーの盛田昭夫の墓があるそうですが、まだ未確認です。
またの機会に譲りましょう。

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長谷寺(ちょうこくじ)

2009年08月10日 21時14分47秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
今回は西麻布二丁目のランドマーク大本山永平寺別院補陀山長谷寺をご紹介しましょう。



長谷寺は永平寺の別院という名前でもわかるように禅宗の曹洞宗の寺院です。よく「はせでら」と読む方がいらっしゃいますが、正しくは「ちょうこくじ」と読みます。古くから観音様を祀るお堂があったようですが、寺として開山されたのは江戸時代の初めのようです。

西麻布の交差点近くの「浜の家」さんのところから登る坂が、江戸時代は参道だったようで、今でも「大安寺」「慈眼院」という二つの寺(塔頭)があり、大きな寺だったことがしのばれます。
(よく大きな寺院の参道の両側には子院(塔頭)が見られることがよくあります。)

坂を登りきった突き当たりに、昔、「あけぼの幼稚園」という幼稚園があって近所の子供たちが通っていました。私は卒園生ではないんですが、懐かしい思い出です。


あけぼの幼稚園の碑

その幼稚園のあとに戦災で焼けた観音様を再現した観音様が出来上がったのは昭和52年(1977年)です。最初は新しくて何か違和感がありましたが、先日お伺いしたら、落ち着いた色合いになり大きくて立派なお姿にあらためて感激しました。
観音堂には誰でも入れますからぜひ一度お参りに行ってみてください。


観音堂

まだまだ思い出はあります。長谷寺の境内は、以前は夏休みのラジオ体操や、秋祭りの踊りの会場になっていました。朝が苦手な私は最初の日と最後の日だけ行って、ちゃっかり皆勤賞のお菓子をもらっていました。
今でも祭りのときは観音堂の裏手でバザーや踊りが行われています。九月にはまた行われますからぜひ見に来てくださいね。

長谷寺には数十人の修行僧の方がいらっしゃいます。夜の西麻布でお目にかかることも多いと思いますが、朝早くから庭の掃除をしたり、座禅をしたり、修行に励んでいられます。もちろんご自分たちの食事も作られています。ここの前の典座(禅寺の料理長)さんは料理本を出されるほどの方で、もしかして長谷寺のお坊さんが西麻布で一番おいしいものを食べているのじゃないでしょうか。

以前は駒澤大学の仏教学部の学生さんもいらっしゃいましたが、今は学校を終えられた方のみ修行しておられるそうです。なぜ駒澤大学かというと、駒澤大学の発祥は、曹洞宗の修行所「栴檀林(せんだんりん)」であることに由来します。いってみれば長谷寺は現代の「栴檀林」なのです。

禅宗といえば座禅ですが、ここでは一般の方も参禅できますので、興味のある方はお寺までどうぞ。

長谷寺の右奥には、墓地があります。昔は墓地の突き当たりの塀が低かったので、乗り越えて、隣の根津美術館の庭と行き来をしていました。どこかのおかみさんもそんな話をしていました。

ここの墓所には有名人の墓が多くあります。エノケンこと榎本健一、坂本九、沖雅也、明治時代の元勲・井上馨、画家の黒田清輝、世界のソニーの盛田昭夫、明治一代女の花井お梅など・・・・・。そんなに大きな墓地ではありませんが枚挙に暇がありません。お墓については次回ご紹介します。

江戸時代からある大きな寺ですから、今でも西麻布二丁目の半分近くの地主さんでもあります。本当に西麻布二丁目とは切っても切れないお寺です。

*最寄駅は表参道駅・広尾駅・乃木坂駅・六本木駅ですが、どれも徒歩10分以上かかります。
 渋谷駅から新橋駅行き「都01」を利用すると、南青山七丁目バス停からすぐです。
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エンジュ 槐

2009年08月07日 18時06分24秒 | 四季の花
真夏は花が少ない季節です。
そんな中で、街を歩いていると道が真っ白になっているところがあります。



上を見上げると豆のような花が咲いています。



花の名は「槐 (エンジュ)」
マメ科の植物で中国原産だそうです。
仏教伝来のころに日本に伝わり、今では街路樹によく植わっています。

白い花がびっしりと咲く様は涼やかで、また散った花はフラワーシャワーのようで美しく大好きです。
最近は道が汚れるので敬遠するむきもあるようですが、陽射しの中で一瞬の涼を得られる貴重な花です。

この木は、中国では大臣の位を現す木だそうです。
中国の漢代の行政官職の総称をあらわす「三公九卿」という日本の「公卿」の言葉の語源になった言葉があります。
その三公九卿のうち、大臣に当たる丞相などの三公は槐の木の前に座り、行政長官である九卿は棘の木の前に座してその位を現したそうです。

ほかにも鬼門よけにしたので、「木」ヘンに「鬼」と書いて「槐」という説も出ていました。

そんな高貴な花だったのですね。
道に白い花が落ちていたら、ちょっと上を見上げてみてください。
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壊してしまったものは元に戻らない

2009年08月05日 06時10分03秒 | 美術館・博物館めぐり
美しきアジアの玉手箱 シアトル美術館所蔵 日本・東洋美術名品展

サントリー美術館(東京ミッドタウン・六本木駅)9月6日まで


シアトル美術館の所蔵する日本や中国をはじめとするアジア美術の展覧会です。
シアトル美術館はその成り立ちがアジア美術のであったことで、美術館の核がアジア美術だそうで、今回は7000点件に及ぶ日本・東洋美術のコレクションをから名品100点がやってきています。
これだけまとまった数がアメリカ国外に出されるのは初めてだそうです。

日本美術では、考古の土偶からはじまって、伎楽面、仏像、書蹟、仏画、漆芸、磁器、浮世絵、屏風絵、襖絵などいろいろなジャンルから名品が出展されています。
日本にあったら国宝・重要文化財指定は確実なものがキラ星のごとく並んでいます。
また、中国美術も古代から清代までいろいろなジャンルがそろっていました。
さらに韓国、東南アジア、南アジアの作品も並んで、盛りだくさんな内容です。

主なものをご紹介しましょう。

浦島蒔絵手箱
鎌倉時代の蒔絵手箱だが、ふた裏の浦島の図柄が国文学的にいうと室町以降の意匠ということで研究が待たれるそうです。同じような手箱がサントリー美術館にあって国宝に指定されているということです。

竹に芥子図
金地に雌竹に芥子の花が描かれた狩野重信の屏風です。狩野派というよりも琳派のような華やかな雰囲気を持っています。雌竹や芥子という図柄は珍しいということです。豪華で美しくやさしい雰囲気が惹かれる作品でした。

烏図
六曲一双の屏風に無数の烏が描かれています。一見異様な感じを受けますが、その存在感はすばらしいものがあります。作者は不詳で、狩野派とも長谷川一門、または琳派ではと定まっていません。学芸員さんもおっしゃっていましたが、同じ図柄の連続はなにか燕子花図屏風につながるものがあると思います。
シアトル美術館でも日本美術のシンボル的な存在として扱われているようです。長い時間屏風の前に佇んでいたいほど心に残る作品でした。

五美人図
葛飾北斎の肉筆浮世絵です。いろいろな階層や年齢の五人の美人が縦に連なって描かれています。美しい色彩と確かな描写がさすが北斎と思わせる作品です。

鹿下絵和歌巻
光悦・宗達の作品で鹿の下絵の上に和歌がしたためられています。残念なことに分断されて、後半部分がシアトル美術館に所蔵されています。今回の目玉だけあって大変美しく巻物です。

金焦落照図寄詩
中国・明代の文微明の書です。力強い書体に心を奪われてしまいました。あまり書で感動することはないのですが、これは本当に名品だと思います。

壊すことの虚しさ

さて今回の展覧会から感じたことを書きたいと思います。
シアトル美術館の日本美術は戦前にアメリカに渡ったもののほかに、戦後に渡ったものも数多くあります。
廃仏毀釈の明治期だけでなく、戦後期も日本美術の危機だったことがよくわかります。
今回のメインの「鹿下絵和歌巻」も戦後渡ったものです。
今回の企画として、シアトルの後半部分のほかに日本にある前半部分が展示され再会を果たしています。
しかし悲しいことに、前半部分はいくつにも裁断されて(断簡)表装されて掛け軸になっています。まさに人間のエゴというか自分だけが部分的に楽しむ形に作りかえられているのです。そしてさらに所在不明になった部分もあるということです。完全に一堂に会することは無理なようです。
日本人自らがいろいろな理由があるにせよ大切な宝を壊してしまったということが信じられませんし、最初に二つに裁断した方も有名な茶人だったので悲しい気持ちになりました。
幸い後半部分はシアトルに渡ったために細かく裁断されることもなく、巻物の形のまま残されたのです。
美術品が海外に流出したという言葉を使いますが、私は流出だと思いたくありません。高きから低きに流れ落ちるという感じがするからです。今回のように海外に渡ったから破壊されずに残ることもあるのです。
同じようにギリシャから里帰りした写楽もそんなことがいえるのではないでしょうか。

また、中国元代の煬輝作「墨梅図」には江戸時代に田安家が所蔵していた時に押された朱印が絵の真ん中にあります。絵と一体化しているとはいえ不思議な眺めです。実は有名な絵であったらしく、この絵の模写は日本に残っていて、本物が海を渡ってしまいました。

国宝とか重要文化財という、箔がついていない美術品を眺めるということも、自分の感性だけで、そのものの好き嫌いを素直に判断できていい機会でした。これで作者もわからなかったら、面白いんですが。

壊していいものと悪いもの、私物化していいものと悪いもの・・・・、そして一度失ったら二度と戻らない、そんなことを考えさせられた展覧会でした。

(7月31日・8月4日)
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