釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

唱歌「鎌倉」

2006年09月24日 19時53分10秒 | お散歩日記/東京地名の話
「鎌倉」という唱歌をご存知だろうか。
八番まであって、鎌倉の名所旧跡がうまく歌われている。
作詞者は芳賀矢一・作曲者は不詳。

鎌倉

そして今回鎌倉で最初に訪ねたのは二番の歌詞の場所。

極楽寺坂越え行けば、
長谷観音の堂近く
露坐の大仏おわします。

鎌倉駅から江ノ電で極楽寺駅へ、そこから最初は極楽寺に参拝した。
極楽寺周辺はテレビドラマ「俺たちの朝」のロケ地として有名になった場所だから、ご存知の方も多いと思う。
鎌倉方面からのトンネルを抜けて左にカーブした谷あいに駅がある。駅から坂を上り、切通しの線路を渡ると極楽寺の門が見える。


江ノ電・極楽寺駅


極楽寺

極楽寺は昔は大きな寺だったらしいが、今はこじんまりとした寺になっている。
入場料無料だけど、境内の撮影は禁止・・・だから画像ありません。

極楽寺から極楽寺切通し・成就院へ。
唱歌「鎌倉」の一番の歌詞

七里ガ浜の磯伝い、
稲村ケ崎、名将の
剣投ぜし古戦場

で、歌われているのは新田義貞の鎌倉攻めの様子である。
新田軍は極楽寺坂から鎌倉侵攻しようとしたが、道が狭く守りも堅かったので、稲村ガ崎から海伝いに攻め入ったのである。
剣を海の神に捧げて、海中に道を作るというまるでモーゼのような話であるが、まぁ潮の干満を知っていたパフォーマンスなわけだ。

現在の切通しも狭く、大軍が攻めるには難儀な場所だとよくわかる。
成就院もそのときの戦火で全焼したよう


成就院門前より由比ガ浜方面を望む。

成就院の門前を頂上として、画像のように鎌倉市内を望むことができる。
この寺は名月院と並ぶ紫陽花の名所で、季節には画像の両側は紫陽花で埋まるということだが、道は人で埋まるらしい。

切通しを抜けると、鎌倉十井の一つ、星月ノ井がある。
またの名を「星ノ井」「星月夜ノ井」という。
昼でも井戸をのぞくと星が見えたという。
今は蓋がしてあってのぞけない。
鎌倉の枕詞は確か「星月夜」だったはず。
でも用例が見つけ出せない。

そして、御霊(ごりょう)神社



御霊神社というと、怨霊を祀っている神社が多いけれど、ここは鎌倉権五郎を祀っている。
鎌倉権五郎というと歌舞伎「」の登場人物として有名で、江戸時代のスーパーヒーローである。
鎌倉時代より前の人で、この辺の開発に尽力したらしい。
御霊と五郎は、曽我五郎と御霊でも見られることだから、珍しいことではない。
でも曽我五郎は恨みを持っているけど、鎌倉権五郎はそうじゃないような気がする。
鎮めるという意味より、その強い力を借りるということだろうか。
訪れた日は、次の日が祭りで、町の方が準備をしていた。

御霊神社から住宅地を抜けて、長谷通りへ。
連休とあってものすごい人出である。
今までの静かな鎌倉からは一変、狭い歩道を人ごみをかき分けて大仏のある高徳院に向かう。



大仏様は何度訪れても、その大きさに感動する。
ご存知のように、津波で大仏殿が流されてからは、露坐(ろざ)になっている。
鎌倉の仏像では唯一の国宝だそうだ。
大仏殿の背後には、与謝野晶子の有名な

かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
美男におわす 夏木立かな

の歌碑がある。
まさしく美男のお顔立ちである。

次に花の寺として知られる高則寺へ向かう。
境内は季節ごとの花で満ちている。
今は花の少ない時期であるが、蓮、ミズヒキ、萩など咲いていた。


本堂前に夏の名残の蓮が咲く

次に高則寺の一つ海側にある長谷寺へ。
昔から阪東三十三観音霊場として、鎌倉でも人気を争う寺であるが、最近は骨肉の争いで有名になっている。
拝観料と賽銭だけで年間三億五千万円。
兄弟喧嘩の種にはなりそうだけど、御仏に使える身でもお金には目がくらむものなのかな。
境内からは遠く逗子方面まで見渡せる。


長谷観音堂

人ごみの長谷寺から由比ガ浜大通へ。
骨董品屋や鎌倉彫りの店が目立つ通りだ。
戦災を受けていないから古い民家も目立つ。
しばらく行くと辻に六体の地蔵がある。
六地蔵である。


六地蔵

このあたりは刑場があったということだ。
ここまで来ると鎌倉駅も近い。


小学校の遠足や家族で訪れてから何度も足を運んでいるが、一年半前の真冬の訪問までは、ほとんど観光名所の寺や神社しか行ったことがなかった。
前回、参拝した報国寺の竹の見事さ、建長寺半僧坊までの道のりの深閑とした様に、深く感銘を受けた。
今回も、妙本寺のたたずまいにすっかり虜になってしまった。
鎌倉の奥深さをますます思い知らされた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

比企谷の雨

2006年09月21日 04時19分09秒 | お散歩日記/東京地名の話
久々に鎌倉を歩いた。
連休の人ごみの中を名所の寺院をめぐり、まだ少し夕暮れには時間があったので、鎌倉駅周辺のまだ訪れたことのない寺に詣でた。

鎌倉駅から東へ10分足らず、滑川を渡り、山に囲まれた比企谷(ひきがやつ)に妙本寺はある。

1203年(建仁3年)9月、鎌倉幕府の重要な御家人であった比企能員(ひき・よしかず)が幕府の覇権争いから北条氏に誅殺され、二代将軍頼家の長男で当時六歳の一幡とその母・若狭局をはじめとする比企一族は、この比企谷の屋敷で火をかけて滅亡に追い込まれる。

1979年のNHK大河ドラマ「草燃える」では、頼家(郷ひろみ)若狭局(白戸真理)比企能員(佐藤慶)でドラマ化されている。
「草燃える」配役一覧

その後、比企氏の菩提を弔うために、比企氏の生き残りで能員の末子、能本が一堂を建立したことに始まる寺である。頼家と若狭局の娘の竹御前が難産で亡くなったために、ここにお堂を建てたことがはじまりであるともいわれる。

どちらにしても、比企氏の怨念がいろいろと祟りを起こしていたと思われる。
次のような話も伝わる。若狭局の霊が、義時の孫娘に乗り移るという事件が起きている。
まさしく比企一族の怨霊が跋扈していたようだ。それを鎮める意味があったのであろう。1260年(文応元年)日蓮の弟子の日朗によって妙本寺として開山されている。


滑川の橋を渡ると正面に総門が見えてくる。
山門の右側に変わった形の幼稚園。その奥の谷間に寺がある。
木々が鬱蒼と茂り、鎌倉駅のそばなのに深山の趣である。
左手の冠木門から階段の上がると本堂。

本堂

直進して階段を上ると二天門、その先に広々とした境内と祖師堂がある。
祖師堂の三方は山である。
典型的な鎌倉の谷戸(やつ)地形である。


二天門


祖師堂

祖師堂の右手には比企氏の供養塔。
左手には大きな日蓮像と墓地。

ここまで来たところで、台風の余波だろうか、にわかに雨が降り出した。
細かい霧雨だ。広々とした境内なのに陰陰滅滅とした雰囲気が充満している。
とってもじゃないけど、供養塔にはカメラを向けられなかった。
相当に比企氏の怨念は強いらしい。

ただ、救いは祖師堂の階段にいた猫。
まったく人を怖がらない。
あとで鎌倉のいろいろなサイトで見たら、鎌倉では有名な猫らしい。


有名猫

境内を跡に、境内の北側にある蛇苦止(じゃくし)明神へ向かう。
北条氏の娘に乗りうつった若狭局の霊を鎮めるために作られたお堂だという。
そこまでの道のりは、細く階段が続く。
さらに陰陰滅滅としてくる。雨であたりも薄暗い。
お堂に着くと右手に古井戸があった。
若狭局が身を投げた井戸だとか・・・・・あれ、焼死したんじゃないんだ。
ここでもカメラを向ける気分には到底なれなかった。

画像がないのもなんなんで、サイトをリンクしておきます。
供養塔・蛇苦止堂の画像

こう考えると鎌倉はいくつもの谷戸にたくさんの怨霊を抱えた土地なんだなぁと思える。
鎌倉時代の初期には北条氏の有力御家人の排斥。
そして終末期には、新田義貞の鎌倉侵攻による大殺戮。
あんまり気持ちがいい土地ではない。

でも、妙本寺はそんなことも忘れさせるくらいに自然に満ちた寺である。
鎌倉にはまだまだ知らない寺があるし、知らない季節がある。
また紅葉の季節にでも訪ねてみたい。

妙本寺を出て、滑川を渡ると、そこには本覚寺が、怨霊が谷戸から出ないように、まるで蓋をするように妙本寺に対峙していた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誕生日

2006年09月06日 19時51分05秒 | あいさつ


9月5日
めでたく○○回目の誕生日を迎えました。
当日はみなさんにお祝いしていただきました。
朱美さん、久保さん、ケーキありがとうございます。
穣さん、美味しい果物、ごちそうさまでした。
ご来店のみなさま、本当にありがとうございました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする