「鎌倉」という唱歌をご存知だろうか。
八番まであって、鎌倉の名所旧跡がうまく歌われている。
作詞者は芳賀矢一・作曲者は不詳。
鎌倉
そして今回鎌倉で最初に訪ねたのは二番の歌詞の場所。
極楽寺坂越え行けば、
長谷観音の堂近く
露坐の大仏おわします。
鎌倉駅から江ノ電で極楽寺駅へ、そこから最初は極楽寺に参拝した。
極楽寺周辺はテレビドラマ「俺たちの朝」のロケ地として有名になった場所だから、ご存知の方も多いと思う。
鎌倉方面からのトンネルを抜けて左にカーブした谷あいに駅がある。駅から坂を上り、切通しの線路を渡ると極楽寺の門が見える。
江ノ電・極楽寺駅
極楽寺
極楽寺は昔は大きな寺だったらしいが、今はこじんまりとした寺になっている。
入場料無料だけど、境内の撮影は禁止・・・だから画像ありません。
極楽寺から極楽寺切通し・成就院へ。
唱歌「鎌倉」の一番の歌詞
七里ガ浜の磯伝い、
稲村ケ崎、名将の
剣投ぜし古戦場
で、歌われているのは新田義貞の鎌倉攻めの様子である。
新田軍は極楽寺坂から鎌倉侵攻しようとしたが、道が狭く守りも堅かったので、稲村ガ崎から海伝いに攻め入ったのである。
剣を海の神に捧げて、海中に道を作るというまるでモーゼのような話であるが、まぁ潮の干満を知っていたパフォーマンスなわけだ。
現在の切通しも狭く、大軍が攻めるには難儀な場所だとよくわかる。
成就院もそのときの戦火で全焼したよう
成就院門前より由比ガ浜方面を望む。
成就院の門前を頂上として、画像のように鎌倉市内を望むことができる。
この寺は名月院と並ぶ紫陽花の名所で、季節には画像の両側は紫陽花で埋まるということだが、道は人で埋まるらしい。
切通しを抜けると、鎌倉十井の一つ、星月ノ井がある。
またの名を「星ノ井」「星月夜ノ井」という。
昼でも井戸をのぞくと星が見えたという。
今は蓋がしてあってのぞけない。
鎌倉の枕詞は確か「星月夜」だったはず。
でも用例が見つけ出せない。
そして、御霊(ごりょう)神社。
御霊神社というと、怨霊を祀っている神社が多いけれど、ここは鎌倉権五郎を祀っている。
鎌倉権五郎というと歌舞伎「暫」の登場人物として有名で、江戸時代のスーパーヒーローである。
鎌倉時代より前の人で、この辺の開発に尽力したらしい。
御霊と五郎は、曽我五郎と御霊でも見られることだから、珍しいことではない。
でも曽我五郎は恨みを持っているけど、鎌倉権五郎はそうじゃないような気がする。
鎮めるという意味より、その強い力を借りるということだろうか。
訪れた日は、次の日が祭りで、町の方が準備をしていた。
御霊神社から住宅地を抜けて、長谷通りへ。
連休とあってものすごい人出である。
今までの静かな鎌倉からは一変、狭い歩道を人ごみをかき分けて大仏のある高徳院に向かう。
大仏様は何度訪れても、その大きさに感動する。
ご存知のように、津波で大仏殿が流されてからは、露坐(ろざ)になっている。
鎌倉の仏像では唯一の国宝だそうだ。
大仏殿の背後には、与謝野晶子の有名な
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
美男におわす 夏木立かな
の歌碑がある。
まさしく美男のお顔立ちである。
次に花の寺として知られる高則寺へ向かう。
境内は季節ごとの花で満ちている。
今は花の少ない時期であるが、蓮、ミズヒキ、萩など咲いていた。
本堂前に夏の名残の蓮が咲く
次に高則寺の一つ海側にある長谷寺へ。
昔から阪東三十三観音霊場として、鎌倉でも人気を争う寺であるが、最近は骨肉の争いで有名になっている。
拝観料と賽銭だけで年間三億五千万円。
兄弟喧嘩の種にはなりそうだけど、御仏に使える身でもお金には目がくらむものなのかな。
境内からは遠く逗子方面まで見渡せる。
長谷観音堂
人ごみの長谷寺から由比ガ浜大通へ。
骨董品屋や鎌倉彫りの店が目立つ通りだ。
戦災を受けていないから古い民家も目立つ。
しばらく行くと辻に六体の地蔵がある。
六地蔵である。
六地蔵
このあたりは刑場があったということだ。
ここまで来ると鎌倉駅も近い。
小学校の遠足や家族で訪れてから何度も足を運んでいるが、一年半前の真冬の訪問までは、ほとんど観光名所の寺や神社しか行ったことがなかった。
前回、参拝した報国寺の竹の見事さ、建長寺半僧坊までの道のりの深閑とした様に、深く感銘を受けた。
今回も、妙本寺のたたずまいにすっかり虜になってしまった。
鎌倉の奥深さをますます思い知らされた。
八番まであって、鎌倉の名所旧跡がうまく歌われている。
作詞者は芳賀矢一・作曲者は不詳。
鎌倉
そして今回鎌倉で最初に訪ねたのは二番の歌詞の場所。
極楽寺坂越え行けば、
長谷観音の堂近く
露坐の大仏おわします。
鎌倉駅から江ノ電で極楽寺駅へ、そこから最初は極楽寺に参拝した。
極楽寺周辺はテレビドラマ「俺たちの朝」のロケ地として有名になった場所だから、ご存知の方も多いと思う。
鎌倉方面からのトンネルを抜けて左にカーブした谷あいに駅がある。駅から坂を上り、切通しの線路を渡ると極楽寺の門が見える。
江ノ電・極楽寺駅
極楽寺
極楽寺は昔は大きな寺だったらしいが、今はこじんまりとした寺になっている。
入場料無料だけど、境内の撮影は禁止・・・だから画像ありません。
極楽寺から極楽寺切通し・成就院へ。
唱歌「鎌倉」の一番の歌詞
七里ガ浜の磯伝い、
稲村ケ崎、名将の
剣投ぜし古戦場
で、歌われているのは新田義貞の鎌倉攻めの様子である。
新田軍は極楽寺坂から鎌倉侵攻しようとしたが、道が狭く守りも堅かったので、稲村ガ崎から海伝いに攻め入ったのである。
剣を海の神に捧げて、海中に道を作るというまるでモーゼのような話であるが、まぁ潮の干満を知っていたパフォーマンスなわけだ。
現在の切通しも狭く、大軍が攻めるには難儀な場所だとよくわかる。
成就院もそのときの戦火で全焼したよう
成就院門前より由比ガ浜方面を望む。
成就院の門前を頂上として、画像のように鎌倉市内を望むことができる。
この寺は名月院と並ぶ紫陽花の名所で、季節には画像の両側は紫陽花で埋まるということだが、道は人で埋まるらしい。
切通しを抜けると、鎌倉十井の一つ、星月ノ井がある。
またの名を「星ノ井」「星月夜ノ井」という。
昼でも井戸をのぞくと星が見えたという。
今は蓋がしてあってのぞけない。
鎌倉の枕詞は確か「星月夜」だったはず。
でも用例が見つけ出せない。
そして、御霊(ごりょう)神社。
御霊神社というと、怨霊を祀っている神社が多いけれど、ここは鎌倉権五郎を祀っている。
鎌倉権五郎というと歌舞伎「暫」の登場人物として有名で、江戸時代のスーパーヒーローである。
鎌倉時代より前の人で、この辺の開発に尽力したらしい。
御霊と五郎は、曽我五郎と御霊でも見られることだから、珍しいことではない。
でも曽我五郎は恨みを持っているけど、鎌倉権五郎はそうじゃないような気がする。
鎮めるという意味より、その強い力を借りるということだろうか。
訪れた日は、次の日が祭りで、町の方が準備をしていた。
御霊神社から住宅地を抜けて、長谷通りへ。
連休とあってものすごい人出である。
今までの静かな鎌倉からは一変、狭い歩道を人ごみをかき分けて大仏のある高徳院に向かう。
大仏様は何度訪れても、その大きさに感動する。
ご存知のように、津波で大仏殿が流されてからは、露坐(ろざ)になっている。
鎌倉の仏像では唯一の国宝だそうだ。
大仏殿の背後には、与謝野晶子の有名な
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
美男におわす 夏木立かな
の歌碑がある。
まさしく美男のお顔立ちである。
次に花の寺として知られる高則寺へ向かう。
境内は季節ごとの花で満ちている。
今は花の少ない時期であるが、蓮、ミズヒキ、萩など咲いていた。
本堂前に夏の名残の蓮が咲く
次に高則寺の一つ海側にある長谷寺へ。
昔から阪東三十三観音霊場として、鎌倉でも人気を争う寺であるが、最近は骨肉の争いで有名になっている。
拝観料と賽銭だけで年間三億五千万円。
兄弟喧嘩の種にはなりそうだけど、御仏に使える身でもお金には目がくらむものなのかな。
境内からは遠く逗子方面まで見渡せる。
長谷観音堂
人ごみの長谷寺から由比ガ浜大通へ。
骨董品屋や鎌倉彫りの店が目立つ通りだ。
戦災を受けていないから古い民家も目立つ。
しばらく行くと辻に六体の地蔵がある。
六地蔵である。
六地蔵
このあたりは刑場があったということだ。
ここまで来ると鎌倉駅も近い。
小学校の遠足や家族で訪れてから何度も足を運んでいるが、一年半前の真冬の訪問までは、ほとんど観光名所の寺や神社しか行ったことがなかった。
前回、参拝した報国寺の竹の見事さ、建長寺半僧坊までの道のりの深閑とした様に、深く感銘を受けた。
今回も、妙本寺のたたずまいにすっかり虜になってしまった。
鎌倉の奥深さをますます思い知らされた。