笄町の名前の起こりは遠く平安時代にさかのぼります。
承平8年(938)2月、源氏の祖といわれる源経基は、当時武蔵介(武蔵の国の副知事)でした。経基は武蔵権守(実質の知事)の興世王とともに職権と称して、武蔵の国足立郡内へ強行入部したことから足立郡司(足立郡の長官・現在のさいたま市西区)の武蔵武芝と紛争が勃発し、対立関係に発展しました。その対立に介入してきたのが下総の国の平将門なのです。
興世王は武芝・将門と講和するが、経基はこれを疑い、都に逃げ帰り、天慶2年(939)3月3日、将門の謀反と報告をしました。
これが天慶の乱(平将門の乱)の始まりです。
この経基の都への道筋でこの物語は起きます。
当時、今の外苑西通り一本西側の通りは龍川という川だったそうです。この川はその頃は大きな川で、今でもわかるように谷間になっているところから、将門の一派が「龍が関」という関所を設けていたようです。
経基は、自分は将門の一派で、相模の国に軍勢を集めに行くと偽り、太刀に付属している笄を身分の証しに置いた行ったそうです。そして無事に京都に着いたということなのです。
その後、11世紀半ば、経基のひ孫である源頼義が陸奥守として下向する際に通りかかり、先祖の名前が橋の名前になっていることをはばかり、その伝説に基づいて、笄橋と改称したそうです。
その後、川の名前も笄川と呼ばれるようになり、橋も川も明治頃まで存在していたようです。
笄橋は現在西麻布交差点から広尾方向に向かって一つ目の信号を右折した一つ目の小さな交差点のところにあったようです。この外苑西通と平行する道が笄川のあとです。現在の地下鉄広尾駅の上の交差点を「広尾橋」というのも笄川に架かっていた橋の名前の名残です。
またgontaの前には「たぬき橋」という橋があったそうです。建て替える前の家の庭には橋の橋脚の石がありました。(現在はありません。)
承平8年(938)2月、源氏の祖といわれる源経基は、当時武蔵介(武蔵の国の副知事)でした。経基は武蔵権守(実質の知事)の興世王とともに職権と称して、武蔵の国足立郡内へ強行入部したことから足立郡司(足立郡の長官・現在のさいたま市西区)の武蔵武芝と紛争が勃発し、対立関係に発展しました。その対立に介入してきたのが下総の国の平将門なのです。
興世王は武芝・将門と講和するが、経基はこれを疑い、都に逃げ帰り、天慶2年(939)3月3日、将門の謀反と報告をしました。
これが天慶の乱(平将門の乱)の始まりです。
この経基の都への道筋でこの物語は起きます。
当時、今の外苑西通り一本西側の通りは龍川という川だったそうです。この川はその頃は大きな川で、今でもわかるように谷間になっているところから、将門の一派が「龍が関」という関所を設けていたようです。
経基は、自分は将門の一派で、相模の国に軍勢を集めに行くと偽り、太刀に付属している笄を身分の証しに置いた行ったそうです。そして無事に京都に着いたということなのです。
その後、11世紀半ば、経基のひ孫である源頼義が陸奥守として下向する際に通りかかり、先祖の名前が橋の名前になっていることをはばかり、その伝説に基づいて、笄橋と改称したそうです。
その後、川の名前も笄川と呼ばれるようになり、橋も川も明治頃まで存在していたようです。
笄橋は現在西麻布交差点から広尾方向に向かって一つ目の信号を右折した一つ目の小さな交差点のところにあったようです。この外苑西通と平行する道が笄川のあとです。現在の地下鉄広尾駅の上の交差点を「広尾橋」というのも笄川に架かっていた橋の名前の名残です。
またgontaの前には「たぬき橋」という橋があったそうです。建て替える前の家の庭には橋の橋脚の石がありました。(現在はありません。)