釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

京都散歩(その8・四条通と錦市場)

2006年08月16日 04時57分46秒 | 旅日記
八坂神社の石段を降りるとそこが四条通の突き当たりになる。
四条通を西の山鉾町へ向かう。
途中、四条大橋までが祇園の商店街で、もうひとつの祇園の顔である。
くずきりで有名な「鍵善良房」やあぶらとり紙の「よーじや」など京都らしい店やみやげ物を売る店が軒を連ねている。

鍵善


また、祇園のランドマーク的な「一力〈亭)」も通り沿いだ。



四条大橋を渡った右手、北側の小路が先斗町。
細い路地に飲食店がひしめきあっている。



道の右側の店は背後が鴨川になる。その鴨川に川床を出している。
左側には無数の路地(ろーじ)がある。以前はその路地もひとつひとつに、「抜けられまへん。」「抜けられます。」と表示してあった。その路地が木屋町に抜けられるか、抜けられないかという意味で、看板についていたチドリの絵とともに懐かしいものだった。すこし歩いてもその看板は見当たらなかったけど、とうとう見つけて、その「抜けられます。」を通って木屋町に出た。

木屋町は夜ともなれば、スナックやバー、それに呼び込みなど華やかな町だけれども、昼間は高瀬川の流れる京都らしい顔をしている。高瀬川はあくまでも清らかに流れていた。

高瀬川


高瀬川を渡り、河原町通へ、そこから蛸薬師通へ入りさらに西へ。
蛸薬師通もお寺に商店が混じる静かな店だったけど、今はゲームセンターやコーヒーショップが並ぶ繁華街になっていた。でもうれしかったのは、昔からある焼いも屋さんが健在だったことだ。昔、東京では珍しい壷焼きの焼いもを買った。

焼いも屋さん・常設の店舗で焼きいもを売っています。


そこから、新京極、寺町京極を横切って、錦通へ。
ご存知京都の台所「錦市場」だ。
ここから市場が西へ高倉通まで六ブロックも続く。



狭い道の両側にびっしりいろいろな店が並ぶ、八百屋、魚屋をから、乾物、豆、惣菜・・・・。
東京ではあまり馴染みのない鱧などの魚や、賀茂茄子、伏見甘唐辛子、万願寺唐辛子、鹿ケ谷南瓜・・・・・・・・・。
人出がすごいのて、ただ左右を見るだけで通過した。本当はじっくり野菜や魚を見たかったのに。

錦市場を出て少し進むと烏丸通に出る。そこにはもう山鉾が見えている。






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京都散歩(その7・蘇民将来とちまき)

2006年08月11日 07時58分45秒 | 旅日記
なぜ「粽(ちまき)」が厄除け〈厄難消除)のお守りなんだろう。

「ちまき」は古くは「茅巻き」と書いたようで、古来より人々は茅に特別な力を感じていたようで、その力により災難から逃れようとしたものだ。

以前、「夏越大祓」で書いた「茅の輪くぐり」もこの「茅〈茅がや)」の力を借りたものだ。

祇園祭は、山鉾の巡行に代表されるが、実際は七月一日から七月三十一日までの非常に長い祭りである。
その最終日の七月三十一日に行われる「疫神社夏越祓」は、八坂神社の摂社である疫神社に茅の輪を設けてそれをくぐり厄を祓う行事で、まさしく茅の輪くぐりなのだ。
その時に「蘇民将来之子孫也」〈茅之輪守といわれる〉と書かれた護符をいただき、粟餅もいただくということだ。

祇園祭の粽にも「蘇民将来之子孫也」と書かれていたが、さて「蘇民将来」とはなんであろう。

備後国風土記にある逸話で、武塔天神(最初に天神堂に祀られた天神〉が諸国を旅している途中に、巨旦将来という裕福な者の家に一夜の宿を請うたところ断られ、蘇民将来という貧しい者の家に一夜の宿を請うた。蘇民将来は、貧しいながらも粟で作った食事で厚くもてなした。
蘇民将来のもてなしに、自分が武塔天神であるとあかし、茅の守りを持つものは、今後疫病や災難から逃れられると約束して、その場を立ち去った。
その後の疫病で、巨旦将来の子孫は死に絶えたが、蘇民将来の子孫は末永く繁栄した。
この逸話の武塔天神が、神の習合に合わせて、いつしか牛頭天王になり、スサノオノミコトになっていったのだ。
各地にある蘇民祭といわれる祭りは多くはこの逸話に基づいたものである。

このように、茅、粟餅、そしてさらに念押しとして「蘇民将来之子孫也」とはっきり告げて、災難や厄病から守ろうということである。
祇園祭の最終日に夏越祓を行う「疫神社」こそ、蘇民将来を祀った神社なのである。
これにより、祇園祭自体が大掛かりな「夏越大祓」であることがよくわかるのである。

そろそろ、八坂神社から山鉾町に戻ろう。
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京都散歩(その6・祇園そして八坂神社)

2006年08月04日 04時55分50秒 | 旅日記
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
『平家物語』の有名な冒頭である。
この祇園精舎と京都の祇園は何か関係があるのだろうか。

祇園祭は八坂神社の祭りだが、なぜ八坂祭じゃなくて祇園祭なんだろう?
まぁ、いろいろギオンは・・・・・ギモンはありますが。

八坂神社は明治になってから、八坂神社と呼ばれるようになった。
それまでは、「感神院」とか「祇園社」と呼ばれていて、明治の神仏分離で「八坂神社」と改称されて、神社となった。
それまでは日本の宗教の縮図のような神仏習合の社だった。

八坂神社の前身は「天神堂」という観慶寺(祇園寺)の中にあったお堂で、天神〈現在の天神・菅原道真ではない。)・婆利女・八王子という神を祀っていた。
その後、釈迦の生誕地である祇園精舎の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)があわせて祀られたようである。
この時点で、天神と牛頭天王が混同されて、観慶寺が祇園寺と呼ばれるようになる。
牛頭天王は、道教の泰山府君や泰山王〈閻魔〉と同一視される。
神仏習合の本地垂迹の考え方から泰山王の本地である薬師如来とスサノオノミコトの本地である薬師如来が同一であったために、牛頭天王とスサノオノミコトの習合がおこる。
天神(牛頭天王)=夫・婆利女=妻・八王子=八人の子供の構図はそのまま、現在の八坂神社の祭神である、スサノオノミコト(素戔嗚尊)=夫・クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)=妻・ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)=八人の子供に合致する。

その後、観慶寺は廃れて、天神堂だけが残り、それが「祇園社」または「観心院」と呼ばれるようになり、明治以降に八坂神社に改称されたわけだ。

鴨川の東に広がる花街の「祇園」は、祇園社との門前町であることからその名を得た。
「祇園祭」、正式には「祇園御霊会」といわれ、平安時代の869年に疫病が流行したことから、疫病退散の目的で、強力な神であった牛頭天王=スサノオノミコトを祀ったことがはじめといわれる。

日本各地の「祇園祭」や「天王祭」といわれるものはほとんどがスサノオノミコトを祭神としたものだ。そのくらい、スサノオノミコト=祇園・天王というイメージが広がっているということだ。

もともと天神や牛頭天王を祀ったのは、奈良時代に帰化した「八坂造〈ヤサカノミヤツコ)」の一族であったといわれている。
八坂神社の名称はこの八坂氏に因んだものである。

鴨川を渡って、四条通の北側の小道を東に八坂神社に向かった。
途中の花見小路までが「祇園甲部」といわれる花街で、そこから東、四条通の北側が「祇園東」の花街である。四条通の南側はすべて「祇園甲部」となる。
四条通の北側は、お茶屋さんのほかに、スナックやクラブがひしめきあっている。


祇園

そして、八坂神社に到着。〈最初の画像が八坂神社の石段)
拝殿に向かう。



お参りして、厄除けの粽を購入した。



粽には「蘇民将来之子孫也」と書かれている。蘇民将来の話は次回。


*八坂神社については八坂神社のサイトが詳しいので見てください。参考になります。
八坂神社のサイト
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京都散歩(その5・三条から四条)

2006年08月03日 05時00分08秒 | 旅日記
三条堺町の「イノダコーヒ」から東へ向かう。
新京極を過ぎて、三条河原町、そして三条大橋へ。
ご存知ここは東海道の終点だ。もちろん起点はお江戸日本橋。最近どこかのテレビ局で東海道五十三次を歩いた元サッカー選手がいたが、本当に頭が下がる。でもそのうち歩いて見たい気持ちもある。〈冗談ですから。)
[その番組→街道てくてく旅]

三条大橋の脇から河原の中洲に下りる。


三条大橋

先斗町を川側から臨むように南へ下がる。先斗町歌舞練場の背面や店から鴨川に張り出した納涼床を背後から望む形になる。



怪しい雲行きだけど、本格的な雨にはならなかった。遠くの山も霞んでいる。
川の中には鷺の姿や水に戯れる犬、土手には楽器を演奏する人や語らう人など大都会と自然が同居した風景だ。
南に向かうと四条大橋だ。左手に懐かしい南座も見えてきた。


四条大橋と南座


四条大橋より鴨川の上流を望む

四条大橋に上がり、鴨川を渡る。以前は渡りきったところに京阪電車の踏切と京阪四条駅があった。今は電車は地下にもぐり、広い通りになっている。川端通である。
橋のたもとは四条河原。そう阿国歌舞伎の発祥の地である。私の恩師の小笠原恭子先生が先年なくなった野村万之丞さんと阿国歌舞伎を復元し、『復元・阿国歌舞伎』として2003年に上演した。今は阿国の像が建っている。
(上演時の模様は祇園のホームページに掲載されていた。『復元・阿国歌舞伎』の公演当日の模様
上の四条大橋からの鴨川の画像の場所で行われた。


出雲の阿国像

ここから東が祇園。
次回は祇園のお話である。
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京都散歩(その4・イノダコーヒ〉

2006年08月02日 05時02分29秒 | 旅日記
おなかがすいて目指したのは「イノダコーヒ」。
ご存知のように関西弁では「コーヒー」と語尾を伸ばさないのだ。

シンガーソングライターの故・高田渡さんが唄った「コーヒーブルース」の中で、『三条に行かなくちゃ 三条堺町のイノダっていうコーヒー屋へね』と歌われた店だ。(なぜか曲名はコーヒーなのだ。)
これは1971年の曲だから、自分が京都に憧れていたころの曲だ。
でも実際にそのときには訪れていない。
そのころ、ユースホステルを根城に、そこで知り合ったチョッと年上のお兄さんたちの尻尾について行ったのが、出町にある「ほんやら洞」だった。その当時のヒッピー的なにおいのプンプンする場所で、一日うだうだしていた覚えがある。
そんな喫茶店よりずっと高級で、近寄りがたいイメージが「イノダコーヒ」にはあった。
それに、そんな歌に歌われた場所になんかに行くかっていう反抗的な気分もあったが・・・。

仕事で京都に行くようになって、コーヒー好きの舞台監督の大先輩が毎朝、旅館から「イノダコーヒ」に寄ってから劇場にやってくるという話を聞いた。
行ったこともない「イノダコーヒ」の名前が懐かしかったが、朝寝坊で、その上仕事で体力を使い果たしていた自分はまたも訪れる機会を逸してしまった。

そして数十年、今回初めて「イノダコーヒ」の扉を開けた。
外の喧騒をよそに、客席に空きがあったので、すぐに座れた。落ちつた店内、教育の行き届いた従業員、やっぱり高級店だ。
今は亡くなった大先輩が「イノダ」で何を飲んでいたかは今となってはわからない。でも、名物らしい『アラビアの真珠』と腹の足しにサンドウィッチを注文した。ミルクと砂糖の入った独特の濃いコーヒは、飲んだこともないのに懐かしかった。

少し休んで元気が出たので、祇園祭を行っている八坂神社に向かうことにした。
店を出ようとしたときには、空席待ちの長い列ができていた。


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八朔(ハッサク)

2006年08月01日 07時23分14秒 | 季節
八月一日は「八朔」である。
八朔といっても果物ではなく、八月朔日の略称である。
この日は徳川家康が、江戸に入城した日で、江戸時代では正月に次ぐ紋日(祝日)となっていた。

八朔(旧暦の八月一日)は夏から秋へと季節が移る時期である。珍しい苗字に「八月一日」と書いて「ほづみ」と読むものがある。この日は稲穂をはじめて摘む日として今でも八朔祭というものが日本各地に残っている。豊年や大漁をあらかじめ祝う行事だ。また、親類や主家にはじめて摘んだ稲穂を送る行事があったようだ。
この行事は道教の「中元」(旧暦の七月十五日で盂蘭盆会〈お盆〉の起源)と結びついて贈答の風習になったのではないだろうか。だから中元は立秋までに済ませるのではないだろうか。

1580年のこの農業的に大切な日に江戸城に入城したのは、家康の農業地帯の新領地へのデモンストレーションだったのではいか。
八朔は「江戸お討入りの日」として、諸大名・旗本は、白帷子を着用して登城、将軍に祝詞をのべる習わしがあった。
吉原でも紋日として、遊女たちは白小袖を着て馴染みの客を待った。

果物の「八朔」の由来についてはこちらをどうぞ。→八朔
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