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【中学歴史教科書8社を比べる】561 29 日米関係 -126- ⅹ 大東亜(太平洋)戦争-34- ⑷ アジア諸国①:東南アジアとインド 6/n<ビルマ(現ミャンマー)>

2018年07月27日 | 社会・文化・文明

29 日米関係 -126-

ⅹ 大東亜(太平洋)戦争 1941-1945 -34-

■まとめと考察 ⑷ アジア諸国①:東南アジアとインド  6/n ~ビルマ(現ミャンマー)(まとめ表再掲)




 

1 「ビルマ(現ミャンマー)と、泰緬鉄道」の描き方

※ここ数年、ミャンマーとの絆はますます強くなっている。主に日本の企業が進出していることによる。

■参考資料1 <ウィキペディア:「ミャンマー」より>

・「ミャンマー連邦共和国は、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦。ASEAN加盟国、通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ビルマ族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い。」

・「アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し(ビルマ戦役の始まり)、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。
 しかし1944年の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。 1944年のインパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚とみるや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、Thakin Soe率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍、ウー・ヌ率いるthe People's Revolutionary Party (PRP)が三派合同した。1945年3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。
 日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。1946年2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、タキン・タントゥン(英語版)の率いるビルマ共産党(CPB)から、タキン・ソー(英語版)の率いる赤旗共産党(英語版)が分裂した。

 独立 1947年7月19日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。」

 

<ウィキペディア:「泰緬鉄道」より>

・「泰緬鉄道(たいめんてつどう)は、大東亜戦争中にタイとミャンマーを結んでいた鉄道。旧日本陸軍によって建設・運行されたが、戦後英国軍が日本軍捕虜に命じて部分的に撤去され、現在はナムトックサイヨークノイ停車場で途切れている。日本軍の公式名称は泰緬連接鉄道。英語名称は「Thai-Burma Railway(またはBurma Railway)」だが、大量の死者を出した過酷な建設労働から英語圏ではむしろ「死の鉄道(Death Railway)」の名で知られる。存置部分は、タイ国有鉄道南本線ナムトック支線として運行されている。深い自然の中を通っているため風光明媚であり、「チョンカイの切り通し」や「タム・クラセー桟道橋(アルヒル桟道橋)」など見所も多いため、観光客に人気の路線となっている。」

・「この鉄道の建設は20世紀初頭の英領ビルマ時代にイギリスが検討していたが、地形が複雑で建設を断念した。戦時中の1942年、旧日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するために建設を開始した。(中略)
 建設は迅速さを要求されたためビルマ側・タイ側両方から開始した。ビルマ・タイにはすでに多少の鉄道が建設されており、タイ側は1942年7月5日に南本線のノーンプラードゥック駅から、ビルマ側からは1942年6月28日にタンビュザヤより建設を開始した。
 建設の作業員には日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人(うちイギリス人6904人、オーストラリア人2802人、オランダ人2782人、アメリカ人133人の合計1万2621人が死亡)のほか、募集や強制連行による「ロウムシャ」と呼ばれた労働者 ➖ タイ人数万(正確な数は不明)、ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、インドネシア人(華僑含む)4万5000人が使役された。建設現場の環境は劣悪でいわゆるタコ部屋労働であり、特に工事の後半の1943年には翌年のインパール作戦に向けての準備に加え敵潜水艦によって海上輸送が困難になったため雨季にもかかわらずさらなる迅速さが要求され、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上り、戦後に問題となった。犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いが出るが、総数の約半分と言われる。特に、巨大な一枚岩を掘り下げるなどしたヘルファイアー・パス(英語版)と呼ばれる箇所や、断崖絶壁に沿わせるように木橋を建設したアルヒル桟道橋など未開発の地帯では、工作機械不足と突貫工事による人海戦術のため死者が多かったという。また現場の作業を監督した鉄道隊には国際法を理解したものが少なかったためしばしば私的制裁が横行した。こうした労働者の多大な犠牲のもと、当初5年は掛かると言われた建設が1943年10月に完成した。

 完成後、1943年11月6日の大東亜会議共同宣言に続き、1944年3月に開始されたインド国民軍と日本軍協同のインパール作戦に重要な役割を担った。

 戦時中、完成後は連合軍の爆撃機により空爆が行われ、橋は破壊されては復旧されることを繰り返していた。それにも関わらず、連合軍は鉄道の輸送を完全に止めさせることができなかった。これは「枕木一本、死者一人。」と言われる一因となる。捕虜収容所は橋から近かったため、連合軍の爆撃で外れた爆弾が多々落ちてきて、多数の死者が出た。
 
当初の予定では一日の輸送量3,000tの予定であったが工期短縮のため1,000tになったが雨期の豪雨や空襲によりそれさえ達成できなくなった。突貫工事による欠陥により脱線事故が多発し沿線のあちこちに機関車や貨車の残骸が放置されていたという。(後略)」

 

■評価

●ビルマの「当初の対日協力」と、「泰緬鉄道の状況」についてどちらも書いている。 → 〇 育鵬社。

●上記のどちらも書いていない。 →  6社。自由社、東京書籍、帝国書院、教育出版、日本文教、清水書院。

※ミャンマー(ビルマ)と日本の関係史は、もはや政治・経済の世界では必須知識なのだから、基本知識は国民に教えなければならない。

●「泰緬鉄道の状況」については詳述しているが、「当初の対日協力」については書いていない。 → △ 学び舎。

 

泰緬鉄道について、日本(人)は、きっちりと総括・反省しておく必要があると思う。中華圏で横行している、《過去の失敗や悪行を無視したり改ざんする文化》は、決して”輸入”すべきでない。「正直」や「いさぎよさ」は、これからの世界に(慎重に)広めるべき、日本の良質の伝統文化のひとつだと思う。それが、当初は〝弱さ”に見えるとしても…

 

 ~次回、7/n ベトナム

全リンク⇒1へ <29 日米関係  ⅹ 大東亜(太平洋)戦争  ■まとめと考察 ⑷アジア諸国556557558559560561

《著者:松永正紀  教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》

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