■「日清戦争のころ」のまとめと考察
1 「ロシア・英国の動きと日本の状況」の描き方
上表の備考にあげているように、我が国の安全保障は「危機的状況」にあった。
その大状況を抜きにしては、《朝鮮を清から独立させ、日本の力で、ロ・英による朝鮮半島の植民地化を防ぐ》という当時の我が国の大戦略が理解できないだろう。
この状況を解説しているのは育鵬社だけ。
※現在からみた善悪や良否の価値判断は別にして、歴史学では、その当時の事実・状況は当時の”文脈・環境”に即して客観的に理解させなければいけない。
《日本は朝鮮を侵略し植民地にしたかっただけだ》と主張する人もいるが、そんな単純な状況でないことは少し調べればすぐ分かる。
2 「甲午農民戦争」の描き方
蜂起(反乱、暴動)・・・第一次(日清戦争前)と第2次(途中-後)では、目的も対象もかなり違っているようだ。
したがって、複雑な状況をあえて書いていない育鵬社を除いて、各社ともそれなりの”不正確さ”をもっているようだ。
<ウィキペデア:甲午農民戦争>より
・第1次蜂起
・「1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。
閔氏政権の重税政策、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、そして1876年の日朝修好条規(江華島条約)をはじめとした閔氏政権の開国政策により外国資本が進出してくる等、当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。」
・「朝鮮の改革を巡っては、壬午事変や甲申政変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手で改革を行うことができずにいた。
このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。
そのような中、1894年に全羅道古阜郡で、群守の趙秉甲(韓国語版)が水税の横領を起こし、その横領に対して全羅道觀察使に哀願を行った農民が逆に逮捕される事件が起きた。
この事件により、同年春に、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起し、甲午農民戦争に発展した。
・第2次蜂起
・「・・・蜂起したのは10月に入ってからであった。今度は朝鮮の新政権と日本軍を相手にする反乱であった。
全琫準らが第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢を決していた。11月末に忠清道公州で農民軍と日本軍が衝突するが、近代的な訓練を受けた日本軍に農民軍はあえなく敗退する。
農民軍は全羅道に逃げ帰り、全琫準らは淳昌で再起の機会をうかがっていたが、1895年初頭に捕えられ、漢城(ソウル)で処刑された。
井上馨日本公使は全琫準の人格に共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、朝鮮政府は井上が帰国している間に、処刑を執行した。」
・「なお、大院君は閔氏政権によって投獄されていた東学の巨魁2名を釈放し、1人を内務衙門主事に1人を議政府主事に採用し、忠清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた。
・・・呼びかけにより10、11月に相次いで蜂起する。
そして大院君は、東学には数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。
これらの事実が、日本の平壌攻略によって得た多数の書類から発見された。(東学党事件ニ付会審ノ顛末具報明治28年9月20日の別紙第二号)
その後も大院君と李埈鎔の扇動教唆の手紙を発見し、また後に逮捕された部下たちの供述によって発覚し、日本公使の追及によって、国王、大院君、李埈鎔が謝罪して認めた(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」p23)。
このように第二次蜂起は、純粋な反乱ではなく日本を放逐せんとする大院君の思惑も働いている可能性がある。」
3 「日本出兵の理由」の描き方
出兵の正式な(=当時の国際法に照らして公式な)理由は、天津条約によりはっきりしている。
したがって、そのような”我が国の名誉にかかわる”重要な事実を、意図的に無視している教育出版、清水書院、学び舎は、×
この「意図的な無視(=無記)」の意図は、中学生に、《日本の侵略性》を印象付けるための情報操作としか思えないのですが、あなたはどう思いますか?
もしかしたら、大韓民国(と北朝鮮=在日:朝鮮総連)の歴史認識を採用???
~次回から「日露戦争・日韓併合のころ」のまとめと考察~
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