■「征韓論・日朝修好条規のころ」のまとめと考察 2/2
~まとめ表再掲~
1「日朝修好条規」締結後の朝鮮の状況の描き方
もっとも重要な政治的事象は、朝鮮国内の政治的対立。
国策を大きく左右する親清派(事大党・守旧派・保守派)と親日派(独立党・開化派)の対立を描かないと、その後の歴史的なりゆきを正確に理解することはできない。
・国内の対立についてまったく書いていない。 → × 東京書籍、日本文教、学び舎。
2 当時の日本の状況の描き方
福沢諭吉の「脱亜論」について、特集記事でくわしく紹介しているのが自由社、論文名のみの紹介が教育出版。
ただし、ウィキペデアによると、この当時は脱亜論はさほど注目されていなかったようだ。
<ウィキペデア:甲申政変>より
・「3月16日付『時事新報』には「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし(中略)、亜細亜東方の悪友を謝絶する」という有名な脱亜論を発表した。
これは、ヨーロッパを「文明」、アジアを「未開野蛮」とみて、日本はアジア諸国との連帯を考慮せずに西欧近代文明を積極果敢に摂取し、以後、西洋列強と同様の道を歩むべきだとする主張であり、従来の日・清・朝がともに文明化して欧米列強の侵略を阻止しようという考えから大きく変化した。
さらに、8月13日には社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」を掲載し、朝鮮がこのまま王室による専制国家であるよりは、むしろイギリスやロシアなどの「文明国」に支配された方が朝鮮人民にとって幸福であるという意見を表明するに至った。
これは、いわば極論というべきものであったが、のちの日本の対外思想に少なからず影響をあたえたとされる。
ただし、第二次世界大戦後、福澤の朝鮮論の代名詞として扱われがちな「脱亜論」は、当時にあっては取り立てて注目されるほどの論説ではなかったのであり、政変後の日清協調の時節にあっては「赤心を被て東洋将来の利害を談じ、両国一致して朝鮮を助け(以下略)」との社説も発表している。」
■他国の状況についてどの程度書くべきか?
比較検討しているのは、我が国の中学歴史(日本史)教科書なので、他国の状況についてどの程度書くべきかの判断はけっこう難しいと思う。
そこで、次回は脱線して、日朝関係の描き方を例として、そのことについて考えたい。
(自国の歴史事象についてどの程度書くべきか、についてはシリーズの最後の《総合評価》の項で考える。)
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