ドレイファスは、インターネットの可能性をある程度認めながらも、たとえば他者と他者とをあたかも何も媒介していないかのように結びつけ、現実世界の遠近感を反転させるメディアとしての性質を見極めようとはしていない。このようなインターネットのメディアとしての側面への考察が充分になされていないことがインターネットを論じる上での限界となっていると感じられる。
以下、ドレイファスのインターネット批判の骨子を簡単に整理してみる。
ドレイファスは、脱身体化というキーワードを切り口にインターネットを批判している。冒頭でその四つの論点が提示され、それらが続く四つの章で順を追って吟味され、最後に総括されるという構成になっている。
その四つの論点は、
1 階層的に体系化されていない情報の検索しづらさに対する批判
ドレイファスは、さらに『コンピュータに何ができないか』以来の、情報を情報として認知するためのフレームの必要性という観点から、ネットにおける身体性の欠如と情報をツリー状に分類していないハイパーリンク構造が関連性の能力、つまり世界を理解する能力の喪失をもたらすのではないかと警告する。
2 当事者性が欠落した遠隔学習への批判
ドレイファスはこれを教える-学ぶという関係において、関わりあいや模倣を可能とする両者の現前を重視する立場から論じている。
3 人や事物に対するリアリティを喪失させるヴァーチャルな世界への批判
リアリティの感覚の源泉として身体を重視する観点からなされている。
4 匿名のリスクなきコミットメントが人を無関心・無差異の支配するニヒリズムに導くという批判
ドレイファスは現実的なリスクを伴う真正なコミットメントにこそ人生の意味があるとし、キルケゴールの「傍観的な観察者」やハイデガーの「世人(das Man)」への批判を援用した議論になっている。
新しいものをめぐる言説は、多くの場合、安易な楽観主義に基づく無批判な讃美か、郷愁に支配された道徳的な論難のどちらかに陥りやすいものだが、本書もその例外ではない。しかも、ドレイファスのインターネット批判は、むしろインターネットをめぐる誇大宣伝や楽観的に過ぎる言説に対する批判と呼ぶべきものだろう(特に最初の二点)。ハイパーリンク構造の情報を検索する不便さなどは、ドレイファスに指摘されるまでもなく周知のものだ。問題は、ドレイファスが指摘するような、ハイパーリンク構造がもたらす関連性の能力の喪失ではなく、雑多で玉石混交の情報を関連性の能力によっていかに整除し、どのような形の知として構成していくか、という点にあるのではないか。
またドレイファスは現実世界とヴァーチャルな世界の断絶を強調し、前者を上位に置くヒエラルキーを前提に、身体から切り離された精神がその存在の足場をヴァーチャルな世界に移すことの危険性を指摘する。しかし、そもそも私たちの精神が身体から切り離され、ヴァーチャルな世界のみをその存在の棲家とすることなどありえるのだろうか。
このように疑問に思う箇所はいくつもある。しかも、それらの疑問は直ちに幾つもの新たな問いを生む。たとえば、ヴァーチャルな空間を媒介としてリンクされた複数の現実世界のリアリティはどのような変容を被るのか、そのようなリアリティの変容がわれわれにどのような影響をもたらすのか、さらに膨大な情報とインタラクティヴな性質によって知が再編成されるとして、それがどのように編成されるべきなのか、といった問いだ。これらの問いはドレイファスの問いの傍らに位置するものであり、本書を媒介とすることで得られた収穫だともいえる。
2002/12/23
ヒューバート・L・ドレイファス『インターネットについて 哲学的考察(Thinking in action)』
(石原孝二訳、2002.2、産業図書)
以下、ドレイファスのインターネット批判の骨子を簡単に整理してみる。
ドレイファスは、脱身体化というキーワードを切り口にインターネットを批判している。冒頭でその四つの論点が提示され、それらが続く四つの章で順を追って吟味され、最後に総括されるという構成になっている。
その四つの論点は、
1 階層的に体系化されていない情報の検索しづらさに対する批判
ドレイファスは、さらに『コンピュータに何ができないか』以来の、情報を情報として認知するためのフレームの必要性という観点から、ネットにおける身体性の欠如と情報をツリー状に分類していないハイパーリンク構造が関連性の能力、つまり世界を理解する能力の喪失をもたらすのではないかと警告する。
2 当事者性が欠落した遠隔学習への批判
ドレイファスはこれを教える-学ぶという関係において、関わりあいや模倣を可能とする両者の現前を重視する立場から論じている。
3 人や事物に対するリアリティを喪失させるヴァーチャルな世界への批判
リアリティの感覚の源泉として身体を重視する観点からなされている。
4 匿名のリスクなきコミットメントが人を無関心・無差異の支配するニヒリズムに導くという批判
ドレイファスは現実的なリスクを伴う真正なコミットメントにこそ人生の意味があるとし、キルケゴールの「傍観的な観察者」やハイデガーの「世人(das Man)」への批判を援用した議論になっている。
新しいものをめぐる言説は、多くの場合、安易な楽観主義に基づく無批判な讃美か、郷愁に支配された道徳的な論難のどちらかに陥りやすいものだが、本書もその例外ではない。しかも、ドレイファスのインターネット批判は、むしろインターネットをめぐる誇大宣伝や楽観的に過ぎる言説に対する批判と呼ぶべきものだろう(特に最初の二点)。ハイパーリンク構造の情報を検索する不便さなどは、ドレイファスに指摘されるまでもなく周知のものだ。問題は、ドレイファスが指摘するような、ハイパーリンク構造がもたらす関連性の能力の喪失ではなく、雑多で玉石混交の情報を関連性の能力によっていかに整除し、どのような形の知として構成していくか、という点にあるのではないか。
またドレイファスは現実世界とヴァーチャルな世界の断絶を強調し、前者を上位に置くヒエラルキーを前提に、身体から切り離された精神がその存在の足場をヴァーチャルな世界に移すことの危険性を指摘する。しかし、そもそも私たちの精神が身体から切り離され、ヴァーチャルな世界のみをその存在の棲家とすることなどありえるのだろうか。
このように疑問に思う箇所はいくつもある。しかも、それらの疑問は直ちに幾つもの新たな問いを生む。たとえば、ヴァーチャルな空間を媒介としてリンクされた複数の現実世界のリアリティはどのような変容を被るのか、そのようなリアリティの変容がわれわれにどのような影響をもたらすのか、さらに膨大な情報とインタラクティヴな性質によって知が再編成されるとして、それがどのように編成されるべきなのか、といった問いだ。これらの問いはドレイファスの問いの傍らに位置するものであり、本書を媒介とすることで得られた収穫だともいえる。
2002/12/23
ヒューバート・L・ドレイファス『インターネットについて 哲学的考察(Thinking in action)』
(石原孝二訳、2002.2、産業図書)
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