人は日々自分らしく生きようと願いながら、与えられた条件の中で幾多の妥協を重ねながら、そうあるべきものと思っているものとは異なる生を生きていく。それは他者との関わりにおいて生きていく以上、致し方のないところでもある。実現可能な選択肢の中から、まったく意に沿わぬものを選ばずに済ませることができれば、十分に自分らしく幸福な生を生きたといえるのではなかろうか。ただし、それすらも稀なことで、望んでいたものとは異なる生を演じなければならないと感じつつ生きていく人もあるだろう。
『ある人生の音楽』に描かれているのは、自分らしくあることを自らに禁じ、他人として生きていくことを選んだ男の数奇な人生だ。しかし、あるいは、それゆえにこの全編を覆う重苦しく暗い詩情に充ちた作品は、その穏やかな、それでいて、その底に静かで深い悲哀を感じさせる語り口で打ち砕かれた人生の心惑わせる単純さを語りつつ、人が自らの人生を生きていくことがどういうことなのか、という問いを読者に静かに投げかける。
物語はウラルの一都市の駅の待合室からはじまる。いつ到着するとも知れぬモスクワ行きの列車を待っている話者は、真夜中というのにどこからか響いてくるピアノの調べに導かれて一人の老人に出会う。翌朝、話者はこの老人とともにモスクワに向かう列車に乗り込む。やがて老人が静かに自らの過去を物語り始める。
老人はアレクセイ・ベルクといい、かつて、ピアニストになることを夢見つつモスクワで少年時代を過ごしたという。だがデビュー・コンサートを間近に控えたある日、両親が再教育のために国家保安局によって逮捕され、彼自身も自分が「ひとつの世界」から追放されたことを知り、疑惑と恐怖の中で彼は今までまったく付き合いのなかったウクライナの親戚を頼って逃亡する。しかし、国家保安局の手はそこにも伸びてくる。
折りしもドイツ軍がその小さな村にも侵攻してきた。ベルクは戦場でソ連兵の死体から軍服を剥ぎ取り、自分ではない者となることによって生き延びることを決意する。自らの過去とピアニストになる夢を封印し、個性のない誰でもない者として生きていこうとするのだ。こうして死から逃れるために兵士セルゲイ・マルツェフとして、「もっとずっと確実な死に晒され」ながら戦場から戦場へと転戦する。
しかし、無個性に徹しようとした「私」は、その意思とは裏腹に人々の記憶に刻み込まれ、封印していたはずの過去がわずかなほころびを見せはじめる。
ベルクはある日、戦争前に投獄された者たちへの特赦の可能性を耳にしたことで、それについて考えることを「みずからに禁じつつ、しかしそのことばかり考え」ていた両親のことを思う。手の中の死んだばかりのリスの温もりとしなやかさと両親への思いがベルクを忘れていたはずの人生に連れ戻し、「日々の戦闘を通じて鍛えてきた無関心とがさつさの鎧の下に隠れた、驚くほど感じやすい誰か」が表にあらわれる。マルツェフに掛けられた言葉についベルクとして返事をしたことから、ある将軍の運転手となり、その命を助けたことで戦後もその運転手を務める。だが、物静かな運転手マルツェフであるはずの青年に将軍の娘はちょっとした気まぐれから、あろうことかピアノのレッスンをはじめ、やがて自分の婚礼の宴に際し、余興として招待客の前でピアノを演奏するよう命じる。このときベルク青年がどのような生を選び、それが彼にどのような運命をもたらすのか、何より意外な結末については、これからこの作品を読む人のために語らずにおこう。
作者のアンドレイ・マキーヌはソ連出身のフランスの作家。ソ連時代は文献学の教授を務めていたが、1987年に渡仏し、フランス語で執筆しているという。
2003/01/27
アンドレイ・マキーヌ『ある人生の音楽』 (星埜守之訳、水声社:2003.1)
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