多木浩二の文章との出会いは、『現代思想』に連載されていた『眼の隠喩』だった。人間を、あるいは都市(文化)を視覚的表現として縦横に論じていくその議論は大いに刺激的であったし、それまで耽読していた澁澤・種村的な世界から、よりアカデミックな知の世界へと関心がシフトしていく契機になったと今にして思う。一度でいいから、その講義を聴いてみたいと思っていた人の一人だったけれど、それももう叶わない。氏は4月中旬に亡くなった。
震災から3ヶ月という時間が過ぎた。東北地方太平洋岸を襲った津波により一瞬にして家を失った人々、あるいはそれに続く福島原子力発電所の事故により、いったいいつになれば再び家に帰ることができるのか見通しが立たないまま避難生活を余儀なくされている人々、そのような人々のことを思うとき、多木浩二の『生きられた家』を思い出す。多木浩二によれば、家は「外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な基準となるべきものにいたるまでが記入された書物」、「人間によって生きられた空間と時間の性質があらわれた記号群」であり、同書に引用された『場所の現象学』のレルフの言葉を借りれば、人もまた「土地の一部」であるようなそのような空間を多くの人々が喪失したことに思い至らされる。
家にはそこに生きた人々がアイデンティティを模索した痕跡が刻まれており、それらの総和である集落にはその土地に生きた人々の記憶が刻印されていることだろう。それゆえ、被災地の光景を見ると、その失われたものの豊かさゆえに痛みを覚える。一方で、復興に向けての計画が動きつつある。やがて復興は加速をつけながら進んでいくことだろう。仮に高台に津波の恐れのない安全な家が建てられたとしても、それがそこに住まうことになる人々が喪失したものを回復するということを意味しない。そして「家が住み手の私の経験に同化し、私がそれに合わせて変化し、この相互作用に家は息をつきはじめ、まるで存在の一部のようになりはじめる」までには多くの時間を要することだろう。
以下は、以前書いた記事。
多木浩二『生きられた家-経験と象徴』
多木浩二『「もの」の詩学』 1
多木浩二『都市の政治学』
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