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ノスタルジックな向学心?

2011-05-29 23:40:24 | その他

 一昨年あたりから懐かしい国語の参考書がいくつか文庫で復刊されている。高田瑞穂の『新釈 現代文』(ちくま学芸文庫)、小西甚一の『古文の読解』(ちくま学芸文庫)、そして二畳庵主人(加地伸行)の『漢文法基礎』 (講談社学術文庫)の三冊で現代文、古文、漢文の三分野が出揃った。古典については、同じ著者の『古文研究法』を使っていたが、『古文の解釈』を使っていた者も多かったと記憶する。それらを、懐かしさもあって、つい買ってしまった。

 こうしたブームについて、石原千秋氏は朝日新聞にインタビューに答えて、「迷ったり、岐路に立たされたりしている」中間管理職世代が「『ノスタルジックな向学心』を抱いているからだ」とし、「原点に戻って自分の実力を再確認したい、という癒やし効果もあるのでしょう。もし、それが幻想だとしても」と分析しているのを読んだことがあるが、今のところ人生に迷いを感じていない自分に当てはまらない。単なるノスタルジーなのだろう。ただ、こうしたものを読むと、つい力試しをしたくなるのが人情というもの。新聞に掲載されていた今年度のセンター試験や有名大学の入試問題に挑戦してしまった。

 そして、今度はちくま学芸文庫から『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』が刊行された。そのタイトルが示す通り、魯迅の「藤野先生」、柳田国男の「清光館哀史」、清岡卓行の「失われた両腕」、坂口安吾の「ラムネ氏のこと」など高校時代に現代国語の授業で読んだ懐かしい文章がいくつも載せられている。そして、この文庫のセールス・ポイントは、当時の教師用の指導書が載せられている点にあり、併せて読んでいくと、かつて教室で過ごした時間がまざまざと思い出される。

 指導書の内容は、語釈に加えて、すぐれた研究者によるちょっとした作品論、作家論の体をなしている。たとえば「藤野先生」の解説では、大室幹雄で、竹内好の読解への批判的視点を提示しており、「清光館哀史」の解説には、柳田の同行者であった松本信弘の回想が加えられている。さらに清岡卓行、谷川俊太郎、吉野弘らの自作解説までもある。総じてなかなか読みごたえがある内容だった。ところが、巻末の安藤宏氏の解説によると今ではこうしたスタイルの指導書では採用されづらいとのことだった。

 筑摩の指導書は難解すぎて授業の役に立たない、という苦情がしだいに寄せられるようになっていった。採択に直結する問題でもあるので、むろん、現在では語釈を大幅に増強し、授業の展開のヒント、発問例など、実践的な要素が増やされている。しかし、他社の指導書には授業の「板書例」が示されているのに筑摩にはないのはなぜなのか、といった問い合わせが寄せられるに至って、指導書の性格は根本的に変容しつつあるように思う。何しろ定期テストの問題例が指導書の付録にされる時代である。

 一言でいえば、教科書の教師用指導書も「これさえあれば誰でも授業ができます、というマニュアル化」が進行しているということらしい。それゆえ、こうした形でかつての教科書が復活したことには単なるノスタルジーではなく、現代の(国語)教育に対する皮肉も込められているのかも知れない。もっとも、指導書のマニュアル化を、この程度の指導書の内容すら咀嚼できない昨今の教師の力量不足と片づけてしまえば、それなりに一般受けしそうな話となるのだろうが、むしろ高等教育の大衆化、あるいは教養というものに対する価値観や(国語)教育の目的そのものの変化といったこともその根底にあるのではないかとも感じられる。

 掲載された指導書を読んでいると、ややもすると国語という教科が言語に関する教育を行うというより、文学に関する教育を行う教科に感じられるし、事実、高校時代の現代国語の授業は、文学鑑賞に傾いていたように感じるからだ。生半可な文学鑑賞の授業ほど益体もないものもなかったが、教師によっては、ある種の教養主義の香りのようなものも感じられた。しかし、授業がその背後に深遠な思想を秘めた知識・教養を授ける場から、必要な情報を伝達する場となったのであれば、伝達は効率的であればあるほどよいだろう。ただし、知識や教養はたとえ古くなっても価値が減ずることがないのに対して、古くなった情報に価値はない。受験が終われば用のないものとなる。

 教師用指導書のマニュアル化の背景には、受け手のこうした価値観の変化(あるいは、そのように変化したという認識)もあるのかも知れない。そのとき教師に必要な資質は何より(大学受験に)必要な情報をいかに効率よく確実に伝えるかということになる。今もそういった「無益な」知識を面白がる学生も少数ながらいるとは思うが、大半の学生にとっては文学的教養などもはやノイズに過ぎないのかも知れない。

 同様のことは最初に挙げた三冊の参考書を読んでいたときも感じた。

 たとえば高田瑞穂の『新釈 現代文』は、「たった一つのこと」、すなわち書かれていることを主観を交えず丁寧に読み解いていくことの重要性を説いているが、最初の二章でじっくりとページを割いて、「何等かの意味において現代の必要に答えた表現」という現代文の定義が示され、ついで読解の前提となる人間主義、合理主義、人格主義というヨーロッパ近代精神に関する知識(著者の言い方によれば「問題意識」)と論理的な読解の姿勢(著者の言葉によれば「内面的運動感覚」)の重要性が語られ、冒頭で予告されていた「たった一つのこと」が何か説明されるのは第三章に入ってからだ。その説明もどちらかといえば、文章に向き合うための心構えが繰り返し説かれ、その方法は、著者の解説を丁寧に読めばわかる仕組みになっているが、分かりやすく整理して示されているわけではない。掲載された問題を考え、著者の解説を丁寧に読めば、具体的な方法論も理解できるようになっているが、こうした叙述のスタイルは人によっては迂遠なものに感じるだろう。そして取り上げられた例題の文章も人間論、学問論が多く、大学に入ってからの生き方を考えさせる内容となっている。今日では、それは実用書というより、教養書と呼ぶ方がふさわしい。

 同様のことは、名著『日本文藝史』の著者でもある小西甚一の『古文の読解』にもあてはまる。古典文法を英文との比較で明快に説明していくところなど比較文学者の面目躍如だが、この本のポイントは何より王朝時代の人々の生活文化から説きはじめる点にあるだろう。単語や文法知識があれば、それなりに古語を現代語に置き換えることはできる。しかし、それだけでは理解したことにはならない。今と昔の人間のものの見方、感じ方、ふるまいといったものまで含む文化の違いが理解を困難にする懸隔として横たわっている。この本はまさにそこを埋めるための解説からはじまっているのだった。もう少し実用的に作られている二畳庵主人の『漢文法基礎』でも、助字をはじめ漢文法から読み取りうる日本語と中国語の違いを丁寧に説いていて、それらを通じて中国の文章の根底にある思考法、発想法の癖のようなものを知らしめるというスタイルとなっている。

 これら三冊を読むうちに気になったので書店の学習参考書コーナーを覗いてみると、今では大手予備校等が出版した参考書、問題集が幅を利かせている。それらの多くは、受験において重要な項目を分かりやすく整理していたり、図表化していたりして、その部分だけ拾い読みしても必要な「情報」は手に入れられる仕組みになっている。(それだけで分からないときは本文を読むことになるのだろう。)小西甚一の『古文の読解』の最初に解説されていた、王朝人の生活・文化に関する内容も簡潔にまとめられた古文常識集のようなものが出ている。

 そうしたものと比較すると、こうした参考書は間怠っこしいこと、この上ないものとなるだろう。実際にamazon などのレビューでも、そうした観点からの批判も寄せられている。なかには『古文の読解』について、文法説明が現代では通用しないものだから、絶対に学生に勧めてよい本ではないなどとヒステリックに批判する予備校か塾の講師のblogも読んだこともある。

 古文の謙譲表現は一般に対象尊敬(動作を受ける人物への敬意を表すもの)と考えると分かりやすいのだが、『古文の読解』では「謙り」というところから説明をはじめていて、その点についての批判だった。ただし、同書の敬語の説明を最後まで読めば、「謙譲というと、いかにもペコペコするような感じがするかも知れないけれど、敬語法でいう謙譲は、要するにトピックの人に敬意を表すための言い方のひとつ」であると明確に説明されており、動作を受ける人物への敬意を表す表現であることは理解できるようになっている。決して謙譲表現を「謙り」でのみ説明しているわけではない。また古文にも謙譲の「給ふ」などのように、現代語同様、自らの行為に用いて謙ることによって聞き手に敬意を表すタイプの謙譲表現もある。

 このようにプロが読んでも早とちりするほどだから、要領よく要点だけをまとめほしいと思う受験生には向いていないのかも知れない。ただし、時間をかけてじっくりと身につけていった知識というものは簡単に忘れることもない。当座の必要に迫られて、早わかり方式で仕入れた「情報」であったなら、そうはいかない。

 『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』の教師用の指導書を読んだり、往年の名参考書を読んだりし、またそれらに対する批判を目にすると、かつて知識や教養と呼ばれていたものが今や「情報」というものに一元化されつつあるように感じる。これらが、今になって復活してきたのは単なるノスタルジーではなく、効率優先の時代における教養主義の黄昏に対する批判も込められているのではないかと思う次第だ。

 最後に、『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』収録の指導書を読んで思い出した、当時教室で感じたある違和感についても書いておく。

 一例として「羅生門」を取り上げてみる。かつて高校時代に受けた授業の中で、「極限状態」という言葉が繰り返されていた。余談のひとつとしてカルネアデスの舟板の話も出てきたと記憶する。けれども、既に「野火」や「海神丸」も読んでいたせいか、「極限状況下でのエゴイズム」の問題と言われても今一つ納得しづらいものがあった。確かに冒頭の洛中の荒廃についての叙述を踏まえて、主人から暇を出された下人の心理を推し量ると、確かに明日のことも「どうにもならないこと」と感受される面もあるが、頬ににきびのある下人は若々しさも感じられ、空腹とはいえ、体力も十分にあるようだ。いずれ餓死する可能性があるにせよ、生きるために手段を選ばず、悪事を働くか否かという問いをひとまず棚上げして一夜の寝ぐらを探そうとする下人にどうしようもない切迫感を感じることはなく、「極限状況」という言葉にはどうしても違和感が残ったのだった。

 けれども、今回、教師用の指導書を読んで、当時、授業でどういう方向へ誘導されようとしていたのか、腑に落ちたのだった。何といえばいいのだろう、これは昔見た舞台の、舞台裏を描いたドキュメンタリーをずっと後になって見るという感覚に近い。いずれにせよ、他の作品の読解に関しても、学校の教室という空間における、ある種のバイアスとでもいったものを何度も感じた。そういう意味で、この文庫はある時代にある場所でなされていた言説空間の分析のための資料ともなるだろう。


 高田瑞穂『新釈 現代文』(ちくま学芸文庫、2009.6)
 小西甚一『古文の読解』(ちくま学芸文庫、2010.2)
 二畳庵主人(加地伸行)『漢文法基礎』 (講談社学術文庫、2010.10)
 『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』(ちくま学芸文庫、2011.5)


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