ここ1週間ほどの間に二つの雑誌の休刊が発表された。
『マリ・クレール』については、中央公論社から出ていた頃の、ふんだんにファッション写真が載った「文芸誌」のイメージが強い。何しろ浅田彰がジュゼッペ・シノーポリにバイロイトで行ったインタビューが巻頭を飾っていたのだから。当時のイメージが強いというよりは、むしろ版元を変えながら今まで続いていたことすら知らなかったというほうが正確か。
それにしても浅田彰の音楽時評、蓮實重彦や金井美恵子の映画評に加え、錚々たる執筆者による連載を売り物としていた『マリ・クレール』だが、なかでも専門書までもが当たり前のように取り上げられていた書評が読み物だったと記憶する。しかし、ベスト**といった企画が目立つようになって失速した感は否めなかった。編集者のネタが尽きたということだろう。
連載の中でもっとも印象的だったのは、当時、知る人ぞ知るといった存在だった鷲田清一の『モードの迷宮』ということになるだろうか。あのころの鷲田清一の文体は今よりもはるかに硬質だった。
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『STUDIO VOICE』は、あのエディトリアル・デザインが苦手で、どちらかというと喫茶店などで置いてあるものを手にとって、インタビュー記事と突拍子もなく遊び心あふれた写真をぱらぱらと眺めながら時代の空気の一端を意識するための雑誌だったし、最近は特集のタイトルを眺める程度だった。
新聞報道などでは「サブ・カルチャー誌」となっていたが、ハイ・カルチャーとサブ・カルチャーの境界が曖昧となり、『ユリイカ』などがサブ・カルチャーを大きく扱うようになった今では、『STUDIO VOICE』が今までどおりカッティング・エッジな存在でありつづけることは困難になってしまったのかも知れないし、今の学生にとっては随分とハイ・ブロウで啓蒙的な雑誌と映っていたのかも知れない。しかし、インターネットや携帯電話を通じてあらかじめ自己に関心のある領域の情報だけに濾過された話題を楽しむ今どきの学生たちは啓蒙されることなど望んではいなかったということだろう。
試みに過去二年ほどの特集タイトルには、ひとつの時代やあるムーヴメントを回顧し、総括するものが多かったと記憶する。また同じ特集が繰り返されることも多かった。それはこの雑誌がもはや、『STUDIO VOICE』が好きだった人によって、いわば「『STUDIO VOICE』文化」といったものを守るために続けられているような印象を与えた。ともあれ現代のカルチャー・シーンを切り取るのではなく、過去を懐かしみつつ過去形で語るようになったとき、すでにこの雑誌の使命は終わっていたのかも知れない。ちょうど一年前の「本は消えない! インターネット以降の本当に面白い雑誌/本の作り方」という特集号が事実上の最終号だったのだと今にして思う。
したがって、このたびの休刊はひとつの時代の、あるいはひとつの文化の終わりなどではないはずだ。
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