海辺にある清涼飲料水の工場で働いていた「私」は作業中の事故で薬指の先端を失う。指先を失ったことが深い喪失感と強迫観念のようなものを「私」に植えつける。仕事を辞めた「私」は街をさまよううちにある標本室にたどり着く。弟子丸と名乗る標本技術者が一人で運営するその標本室では、顧客たちの何らかの思い出を封じ込めたいという要求に応えてさまざまな「標本」を作成する。たとえば火事で両親と弟を失った少女は焼け跡に寄り添うように生えていた三本のキノコを標本にし、孤独な靴磨きの老人は長い間、その人生の傍らにいた文鳥の骨を標本にする。死んだ恋人が自分のために書いた曲の標本を依頼する娘もいる。弟子丸氏には標本にできないものはないかのようだ。弟子丸氏は次のように言う。
この標本室だって、看板を出しているわけでもなければ、電話帳に広告を載せているわけでもありません。本当に標本を必要とする人たちは、目をつぶっていてもここへたどり着けるのです。標本室の存在とは、そういうしのびやかなものでなければならないんです。
のちに弟子丸氏が「私」に語るところによれば、「本当は誰でも、標本を求めている」にもかかわらず、「この標本室と出会える人間は限られている」。だからこのひっそりとした標本室にたどりついてしまった「私」は潜在的に顧客であったといえるのかも知れない。
古いアパートを利用したその標本室では、標本を作製するほかに、使われていない部屋を利用して顧客の標本を管理し、保存している。依頼者たちはその気になれば、標本を見ることができるが、実際に見に来る者はいない。またその建物は昔から住んでいた老婦人が二人今も暮らしているが、全体としては静かな空間となっている。
「私」はそのような標本室で働くことになる。仕事の主な内容は事務所を訪れた客への対応であり、依頼者たちの言葉に彼女は耳を傾け、標本作成に必要な手続きを行う。そうして一年ほど働いたある日、「私」は弟子丸氏にそれまで足を踏み入れたことのなかった大浴場に案内される。どんな小さな声でも反響するので、顔を寄せ合って小声でささやかなくてはならないかつての浴室で、弟子丸氏は彼女に靴を贈る。それまで履いていた靴を握りつぶし、うち捨てた弟子丸氏は、どのような時でもこのプレゼントした靴を履くことを求める。「私」はその要求を受け入れる。こうして「私」と弟子丸氏との関係は、雇用主と被雇用者以上の関係となり、次第に、その靴に、そして弟子丸氏自身に自分が拘束されていくように感じる。事実、文鳥の骨の標本を依頼した靴磨きの老人はその靴を一目見るなり、その靴が「私」自身を侵食していくことを危惧し、履き続けてはいけないと忠告する。
そうするうち、キノコの標本を依頼した少女が標本室を再訪する。少女はできあがった標本を見に来たのではない。火事のときについた頬の火傷の痕を標本にするために訪れたのだった。弟子丸氏は標本を作るために、地下の標本技術室に少女を連れていく。その部屋は「私」がまだ一度も立ち入りを許されていない部屋だった。そして、その部屋に入った少女の姿を「私」はふたたび見ることはなく、出来上がった標本も然るべき場所に見当たらない。「私」は少女の行方と標本の所在を気にするが、弟子丸氏は標本は地下の標本技術室で保管しているとだけ答え、そこに「私」が入ることを許さない。(「私」がそこに入るには、少女の場合がそうであったように、「自分とは切り離せない何か」の標本を依頼しなくてはならない。)
さて、弟子丸氏が製作する標本に人々は何を求めるのか。標本化の目的は、弟子丸氏によれば、「封じ込めること、分離すること、完結させること」であって、「繰り返し思い出し、懐かしむため」ではない。依頼者たちに共通しているのは、何らかの喪失の記憶とその喪失に伴う痛みや悲しみの感情だ。依頼者たちはそのような記憶や感情に関わるものを標本として封じ込める。標本化とは、封じ込めることによって、自らをそこから切り離すという儀式なのだろう。だから依頼者たちは出来上がった標本を見に来ることはない。
しかしまた標本化することで分離し、対象化しようとも、喪失の記憶とその喪失に伴う痛みや悲しみは依頼者たちの(切り離しえない)一部である。場合によっては、その痛みや悲しみこそがその人の本質であるといってよい場合もあるだろう。たとえば、家族を喪失した記憶を呼び起こすもの(キノコ)の標本化だけでは、痛みを切り離しえなかった少女は、今度は自らの身体から切り離しえないものを標本化することにする。物語の終盤、静けさを求めて「私」もついに標本の依頼者となり、自らを依頼品として地下の標本技術室に運んでいく。自らを保存液の中に封じ込めることによってしか喪失の痛みと悲しみは消えないということなのだろう。
その契機は、少女の消失であり、さらに223号室の老婆から聞かされた、地下の標本技術室に向かったまま消えてしまった「私」の前任者の靴音のイメージであることは言うまでもないが、それを促したものは、弟子丸氏の、プレゼントした靴による支配にほかならない。靴がプレゼントされた少しあと、「私」が部屋中に散らばった小さな無数の和文タイプライターの活字を、命令者である弟子丸氏が見下ろす中、一晩中その足下に跪いてひとつひとつ拾い集めていく場面はそうした二人の関係を如実に表している。
標本技術室に向かう前に、「私」は標本室から抜け出し、靴を磨きたがっていた文鳥の骨の標本の依頼人のところにゆく。靴の贈り主に「絡めとられている」という「私」の靴を磨きながら、老人は最後の警告をする。だが「私」は「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」と答える。
「私」を拘束する靴は、徐々に「私」の身体の「自由」を奪うばかりか、主体をも「侵食」していく。そして「私」と靴とは、靴磨きの老人が警告した通り、一体のオブジェとなっていく。モノとなった「私」の意識は、自ら弟子丸氏の視線の対象となることによって静謐が得られると考える。それはまた失った主体と失われた対象との反転、つまり<私>にとっての何かが失われたのではなく、今ここにいるこの<私>こそが失われたものそのものだったのではないかという意識の反転をも含んでいるのだろう。
小川 洋子『薬指の標本』(新潮社、1994.10)
この標本室だって、看板を出しているわけでもなければ、電話帳に広告を載せているわけでもありません。本当に標本を必要とする人たちは、目をつぶっていてもここへたどり着けるのです。標本室の存在とは、そういうしのびやかなものでなければならないんです。
のちに弟子丸氏が「私」に語るところによれば、「本当は誰でも、標本を求めている」にもかかわらず、「この標本室と出会える人間は限られている」。だからこのひっそりとした標本室にたどりついてしまった「私」は潜在的に顧客であったといえるのかも知れない。
古いアパートを利用したその標本室では、標本を作製するほかに、使われていない部屋を利用して顧客の標本を管理し、保存している。依頼者たちはその気になれば、標本を見ることができるが、実際に見に来る者はいない。またその建物は昔から住んでいた老婦人が二人今も暮らしているが、全体としては静かな空間となっている。
「私」はそのような標本室で働くことになる。仕事の主な内容は事務所を訪れた客への対応であり、依頼者たちの言葉に彼女は耳を傾け、標本作成に必要な手続きを行う。そうして一年ほど働いたある日、「私」は弟子丸氏にそれまで足を踏み入れたことのなかった大浴場に案内される。どんな小さな声でも反響するので、顔を寄せ合って小声でささやかなくてはならないかつての浴室で、弟子丸氏は彼女に靴を贈る。それまで履いていた靴を握りつぶし、うち捨てた弟子丸氏は、どのような時でもこのプレゼントした靴を履くことを求める。「私」はその要求を受け入れる。こうして「私」と弟子丸氏との関係は、雇用主と被雇用者以上の関係となり、次第に、その靴に、そして弟子丸氏自身に自分が拘束されていくように感じる。事実、文鳥の骨の標本を依頼した靴磨きの老人はその靴を一目見るなり、その靴が「私」自身を侵食していくことを危惧し、履き続けてはいけないと忠告する。
そうするうち、キノコの標本を依頼した少女が標本室を再訪する。少女はできあがった標本を見に来たのではない。火事のときについた頬の火傷の痕を標本にするために訪れたのだった。弟子丸氏は標本を作るために、地下の標本技術室に少女を連れていく。その部屋は「私」がまだ一度も立ち入りを許されていない部屋だった。そして、その部屋に入った少女の姿を「私」はふたたび見ることはなく、出来上がった標本も然るべき場所に見当たらない。「私」は少女の行方と標本の所在を気にするが、弟子丸氏は標本は地下の標本技術室で保管しているとだけ答え、そこに「私」が入ることを許さない。(「私」がそこに入るには、少女の場合がそうであったように、「自分とは切り離せない何か」の標本を依頼しなくてはならない。)
さて、弟子丸氏が製作する標本に人々は何を求めるのか。標本化の目的は、弟子丸氏によれば、「封じ込めること、分離すること、完結させること」であって、「繰り返し思い出し、懐かしむため」ではない。依頼者たちに共通しているのは、何らかの喪失の記憶とその喪失に伴う痛みや悲しみの感情だ。依頼者たちはそのような記憶や感情に関わるものを標本として封じ込める。標本化とは、封じ込めることによって、自らをそこから切り離すという儀式なのだろう。だから依頼者たちは出来上がった標本を見に来ることはない。
しかしまた標本化することで分離し、対象化しようとも、喪失の記憶とその喪失に伴う痛みや悲しみは依頼者たちの(切り離しえない)一部である。場合によっては、その痛みや悲しみこそがその人の本質であるといってよい場合もあるだろう。たとえば、家族を喪失した記憶を呼び起こすもの(キノコ)の標本化だけでは、痛みを切り離しえなかった少女は、今度は自らの身体から切り離しえないものを標本化することにする。物語の終盤、静けさを求めて「私」もついに標本の依頼者となり、自らを依頼品として地下の標本技術室に運んでいく。自らを保存液の中に封じ込めることによってしか喪失の痛みと悲しみは消えないということなのだろう。
その契機は、少女の消失であり、さらに223号室の老婆から聞かされた、地下の標本技術室に向かったまま消えてしまった「私」の前任者の靴音のイメージであることは言うまでもないが、それを促したものは、弟子丸氏の、プレゼントした靴による支配にほかならない。靴がプレゼントされた少しあと、「私」が部屋中に散らばった小さな無数の和文タイプライターの活字を、命令者である弟子丸氏が見下ろす中、一晩中その足下に跪いてひとつひとつ拾い集めていく場面はそうした二人の関係を如実に表している。
標本技術室に向かう前に、「私」は標本室から抜け出し、靴を磨きたがっていた文鳥の骨の標本の依頼人のところにゆく。靴の贈り主に「絡めとられている」という「私」の靴を磨きながら、老人は最後の警告をする。だが「私」は「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」と答える。
「私」を拘束する靴は、徐々に「私」の身体の「自由」を奪うばかりか、主体をも「侵食」していく。そして「私」と靴とは、靴磨きの老人が警告した通り、一体のオブジェとなっていく。モノとなった「私」の意識は、自ら弟子丸氏の視線の対象となることによって静謐が得られると考える。それはまた失った主体と失われた対象との反転、つまり<私>にとっての何かが失われたのではなく、今ここにいるこの<私>こそが失われたものそのものだったのではないかという意識の反転をも含んでいるのだろう。
小川 洋子『薬指の標本』(新潮社、1994.10)
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