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栞 旅人について 1 (今福龍太『遠い挿話』)

2007-03-18 23:41:55 | 読書
 今福龍太の『遠い挿話』を読んでいたら、旅人を「探検家」「トラヴェラー」「ツーリスト」の三つのタイプに分類した英国のポール・フュッセルという批評家の言葉(『海外へ』)を紹介していた。

 フュッセルによれば、「探検家」とは未知の探求者であり、「彼らは死の危険をすら冒して未知を彼らの世界の側に奪取する文化英雄たろうとする」者で、他方、現代の「ツーリスト」は商業資本によってあらかじめ発見された大衆的価値を求める。その好奇心は「受動的な好奇心」であり、「すでに確認された紋切り型の「知識」を安全性の保証のもとに追認するにすぎない」とされる。

 そして「トラヴェラー」はこの二つの中間に位置づけられる。「あらゆる予期せぬ経験を旅の長所として留保」しつつ、一方で「西欧的アイデンティティが揺らぎだす手前で巧妙に旅のから身を引き離す。彼らは自分がいまどこにいるのかを熟知しつつ、世界放浪のロマンティックな動機に過渡的に身をまかせることのできる旅人」であるとされる。

 ただし今福龍太は次のように指摘することも忘れない。

 だがここで重要なのは、探検家であろうとトラヴェラーであろうとツーリストであろうと、およそフュッセルの描きだす旅のトポグラフィにはつねに特定の起点と終点があらかじめ想定されているという事実の方である。(「光学の旅人」)

 つまり旅人にとっての終点とは旅の起点となった場所であり、帰還した彼らは旅のディスクールを紡ぎだす点で共通する。探検家は冒険談を語り、トラヴェラーは「詩的なヴァガボンドの物語」を語る。そしてツーリストは帰還することを前提に土産を買い、「エキゾティックな土地の一時的占有を示す」絵はがきを旅先から郷里の友人に送る。

 今福龍太は続けて、定住することを前提とした文化が「ボーダーを越え、ディアスポラの地に向かおうとする集合的な文化の力」にとってかわられようとし、その結果、定住よりも旅が人間の生存を規定する本質的原理になろうとしている現代においては、家の喪失という事態によってもはや旅の起点と終点は容易に同定しがたくなっており、帰還のディスクールもその根底から揺るがせられ、旅について語ること自体が変容しつつある、と述べる。(そして、そこから旅と写真についてペンを進める。)

 この文章を読みながら、ただちにポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』の冒頭近くの一節を思い出す。


 自分は観光客(ツーリスト)ではなく旅行者(トラヴェラー)に属する、と彼は思いこんでいたが、彼の説明によると、この両者は一つには時間の点で相違している。観光客(ツーリスト)というものは、おおむね数週間ないし数カ月ののちには家へ戻るのに対して、旅行者(トラヴェラー)は、いずれの土地にも属さず、何年もかけて、地球上のある場所から他の場所へとゆっくりと移動する。・・・・観光客(ツーリスト)と旅行者(トラヴェラー)とのいま一つの重要な相違は、観光客(ツーリスト)が彼自身の属する文明を疑問なしに受け入れるのに対して、旅行者(トラヴェラー)は必ずしもそうではない点にあるからである。旅行者(トラヴェラー)は、おのれの文明を他の文明と比較し、それらのなかから、おのれの好みに合わぬとみとめた要素を拒否する。そして戦争は彼が忘れてしまいたいと望んでいる機械化された時代の一様相にほかならなかった。

 『シェルタリング・スカイ』の主人公の場合、どこにも帰属する場所を持たないという感覚に捉われている。そしてフュッセルの「トラヴェラー」と異なり、起点も終点も持たないかのように語る。しかし、「旅行者は、おのれの文明を他の文明と比較し、それらのなかから、おのれの好みに合わぬとみとめた要素を拒否する」とあるように全面的に受け容れているわけではないにせよ、すくなくとも一つの文明には属している。この中途半端さが主人公たちの辿る結末の鍵であるように思えるし、彼らもまた「詩的なヴァガボンドの物語」の語り手であるともいえる。

 と、あまり考えもまとまらぬままにつらつらと文章を書いているうちに中沢新一の旅に関する文章まで思い出してしまった。


 今福龍太『遠い挿話』(1994.6、青弓社)
 ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』(大久保康雄訳、新潮文庫、1991.1)



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