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ジャック・デリダ『たった一つの、私のものではない言葉  他者の単一言語使用』

2006-12-31 12:46:05 | 読書

 アルジェリアでの少年の時代やフランスでの学生時代の記憶を召喚しながらデリダは、「私は一つしか言語を持っていない。ところが、それは私のものではない」という自身のパラドクシカルな言語的条件をめぐって考察をはじめる。ここで「たった一つの、私のものではない言葉」とデリダによって名指されているのは、フランス語のこと。フランス植民地のアルジェリアのユダヤ人家庭に生まれたデリダは、一方でアラビア語・ベルベル語の文化からもユダヤ文化からも隔てられて、フランス語を唯一の言語として育つ。ところが少年時代に、第二次大戦中、フランス政府よってフランス市民権を剥奪され、2年後一方的に回復するという経験をする。この「他者から強制された単一言語使用」(p.73)、言語的=文化的同一性を確立し得ない言語的状況を指して、デリダは「私は一つしか言語を持っていない。ところが、それは私のものではない」と語る。
 こうした言語的条件がデリダの著作で既に馴染み深い様々な概念や方法と切り結ばれる。

 一例として、「私のたった一つの言語の身体」であるエクリチュールついて語るデリダ。

  真実、疎外、固有化、住むこと、「我が家」、自己性、主体の場所、法、等々、これらの語のすべては、私の見るところ、問題含みのままにとどまる。例外なしに。これらの語には、まさしく、あの他者の言語、あの他者の単一言語使用を通してみずからを押しつけてきた、あの形而上学の印璽が記されているのである。したがって、単一言語使用とのこの格闘は、脱構築的エクリチュール以外の何ものでもなかったということになるだろう。(p.113)

 あるいは、翻訳とそのアポリアについて語るデリダ。

  この[自分から奪われた一つの言語を話している]単一言語使用者は、いわば失語症であるがゆえに(おそらく失語症であるからこそ彼はものを書くのだ)、彼は絶対的な翻訳の中に、準拠の極なき、起源の言語なき、出発の言語なき翻訳の中に投げ出されているのである。彼にとって存在するのはただ、到来の諸言語だけ、だがそれも(中略)自らのもとに辿り着くことには成功しない、そんな諸言語だけなのだ。(p.116)

 このように、自己の言語的条件が自己の思考の条件となってきたことが「根源的な一つのgrief=悲嘆」の色調の中で語られるのだが、『たった一つの、私のものではない言葉』は、こうした言語的「同一性障害」をめぐる自伝的アナムネーシスにとどまらない。

 「諸言語の中には、穏やかな、慎ましい、あるいは歴然たる恐怖政治が」(p.43)あるとし、「この地球上では今日、或る人々は、いくつかの支配的言語からなる均質的-ヘゲモニーに屈しなければならず、支配者たちと資本と様々な機械の用いている言語を学ばなければならない。彼らは、生き延びるため、あるいはより良く生きるために、みずからの特有言語を失わねばならないのである」(p.57)と語るデリダは、それを次のように捉え直す。

  あらゆる文化はもともと植民地的なものである。(中略)あらゆる文化は、言語に関する何らかの「政治」の一方的な強制によって確立される。支配とは、人も知るように、名づけることの、すなわちさまざまな呼び名を強制し正当化することへの権力から始まるのである。・・・(他者から強制された単一言語使用が)植民地的本質をそなえており、抑制できかつ抑制できないような仕方で様々な言語を<一>に還元することを、つまりは均質なヘゲモニーに還元することを目指す・・・・。 (p.74-76)

 それはたとえば、『他の岬』の中の「責任」について語る

  ヨーロッパの文化的同一性を気遣うものにとって、ここでもまた他所と同じく命令は二重であり、矛盾している。すなわち中央集権的覇権(首都)が再構成されないように警戒しなければならないとしても、だからといって、諸境界つまり辺境や周縁を増殖させてはならないのである。少数派の諸差異、翻訳不可能な諸方言、民族=国民の対立、固有言語の排外主義を、それ自体として養わないようにしなければならないのである。責任=応答可能性は、今日、これら二つの矛盾した命法のどちらをも放棄しないことにあるとわたしには思われる。 (p.34)  

という記述と反響し合う。
 つまりデリダの言語や形而上学についての思考と政治についての思考とを一つに結び合わせる結び目となるのが、「私は一つしか言語を持っていない。ところが、それは私のものではない」というデリダ自身の言語的条件ということになる。

 だからといって、ここで語られていることが、個人的な、普遍性を持たない議論であるということを意味するわけでない。アレントの言語観とハイデガーのそれとの類縁性を「母語」を切り口に指摘する注釈の一節などそのいつもながらの分析の切れ味といい、とりわけ読みごたえがある。何よりデリダの<grief(=悲嘆/苦情)>は、「他者の単一言語使用」者であることを強制してきたあらゆる言語へと振り向けられる。それゆえこの本を読むことにはなにがしかの傷みを伴うことになる。

2002.8.10

 ジャック・デリダ『たった一つの、私のものではない言葉  他者の単一言語使用』
  (守中高明訳・岩波書店・2001.5)


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