家は、そこに人が住まうことで家である(人が住まぬ家はやがて廃墟となる)、ということは、しかしそれが余りにも自明のことであったせいか、しばしば見落とされてきた。そこで多木浩二は本書の表題を『生きられた家』という日常的な語感からすれば、ともすれば違和を覚える語句とすることで、このことを読者にあらためて印象付ける。
家とは「外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な基準となるべきものにいたるまでが記入された書物」であり、(より簡潔にまとめるならば)「人間によって生きられた空間と時間の性質があらわれた記号群」であると考える多木浩二にとって、家というテキストを読解することは人間を理解することに通じる。つまりこの『生きられた家』という書物は、単なる建築論・住宅論として書かれているわけではなく、家とそこに住まうことの意味を問うことで人間とその文化を問い直すための試みということになる。
もう少し違うまとめ方をしてみよう。
空間と時間とを創造したことは、道具を手にしたこと以上に、人間にとって決定的な意味を持っていた。この空間と時間を分節化、あるいは統合することで人間的な時空間として創造するのは、言語として構成される欲望や知覚や無意識であり、しぐさや身振りといった文化的に構成された身体であり、つまり一言でいえば、文化であるということになる。文化的コードの差異は空間の表象の仕方や操作の仕方の差異となってあらわれる。たとえば(西洋のように)遠近法的な奥行きをもつ空間を表象する文化もあれば、(日本のように)「おもて/うら」という心理的な奥行きをもつ空間を表象する文化もあるといった具合に。
この出来事(行為)として表出される言語能力や身体能力と一体化した空間化能力によって表象され、操作される家を読むことを通じて、私たちは言語や身体に刻み込まれた文化の特質を理解し、場合によっては、ある個人がアイデンティティを模索した痕跡を辿ることが可能となる。それが家を読むことは人間を理解することになるという意味だ。
多木浩二の他の本と同様、本書もまた具体的で読みごたえもある事例に事欠かない。そうした具体的例の分析を読むだけでも愉しい本なのだが、ここで筆者が人間を読み解くツールとして現象学的な観点から発想し、記号論的な分析を通じて提示した「家」という概念そのものも、様々な着想をもたらす。
2007.2.4 修正
多木浩二『生きられた家 - 経験と象徴』(岩波現代文庫・2001-1984)
家とは「外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な基準となるべきものにいたるまでが記入された書物」であり、(より簡潔にまとめるならば)「人間によって生きられた空間と時間の性質があらわれた記号群」であると考える多木浩二にとって、家というテキストを読解することは人間を理解することに通じる。つまりこの『生きられた家』という書物は、単なる建築論・住宅論として書かれているわけではなく、家とそこに住まうことの意味を問うことで人間とその文化を問い直すための試みということになる。
もう少し違うまとめ方をしてみよう。
空間と時間とを創造したことは、道具を手にしたこと以上に、人間にとって決定的な意味を持っていた。この空間と時間を分節化、あるいは統合することで人間的な時空間として創造するのは、言語として構成される欲望や知覚や無意識であり、しぐさや身振りといった文化的に構成された身体であり、つまり一言でいえば、文化であるということになる。文化的コードの差異は空間の表象の仕方や操作の仕方の差異となってあらわれる。たとえば(西洋のように)遠近法的な奥行きをもつ空間を表象する文化もあれば、(日本のように)「おもて/うら」という心理的な奥行きをもつ空間を表象する文化もあるといった具合に。
この出来事(行為)として表出される言語能力や身体能力と一体化した空間化能力によって表象され、操作される家を読むことを通じて、私たちは言語や身体に刻み込まれた文化の特質を理解し、場合によっては、ある個人がアイデンティティを模索した痕跡を辿ることが可能となる。それが家を読むことは人間を理解することになるという意味だ。
多木浩二の他の本と同様、本書もまた具体的で読みごたえもある事例に事欠かない。そうした具体的例の分析を読むだけでも愉しい本なのだが、ここで筆者が人間を読み解くツールとして現象学的な観点から発想し、記号論的な分析を通じて提示した「家」という概念そのものも、様々な着想をもたらす。
2007.2.4 修正
多木浩二『生きられた家 - 経験と象徴』(岩波現代文庫・2001-1984)
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