書家・石川九楊は「書く」行為と「話す」こととを隔てるのは、表出されるものが音声か書字かの違いにあるのではなく、ペン先が紙と接触し、摩擦し、そこか ら離脱する際の「触」と紙に残された痕跡としての「蝕」の有無にあるという。この「触」と「蝕」の過程である「筆蝕」が書き手に常に自省を促し、不定形な 思考の流れにかたちを与えていきながら、言葉を形成していくものとされている。
その意味で石川九楊の言説は「書く」ことがスタイル(文体)を生むといったアランやヴァレリーに近い。ただしアランらと異なり、「書く」ことは身体のふるまいに還元されるわけではないという。ならば、「書く」ことをスタイル(尖筆)のふるまいと見なしたデリダと近しいのか。しかし「書く」ことが尖筆の尖端と紙との接触と摩擦と離脱の劇が言葉を生む構造をデリダは見逃していると石川九楊はいう。
こうした書家としての実践に基づくユニークな視点から、さらに次のように指摘する。ペンの尖端が紙に触れた瞬間に書き手は世界と接点を持ち、思考は外部に開かれることとなる。それゆえ「書く」という行為は本質的に書き手ひとりに還元できない部分を孕むことになる、と。
「書く」という行為に関する論点のアウトラインをまとめると以上のようなところになるのだが、こうした観点に立って次に石川九楊は、ワープロやパソコンの普及が「書き言葉」の終焉をもたらすと警告する。
確かにパソコンの普及は夥しい量の文書を流通させた。けれども石川九楊によれば、それは書く人が増えたのではなく、話し言葉が書き言葉の領域を侵蝕し、書き言葉を装った野放図なおしゃべりが氾濫しているに過ぎないということになる。
なぜか。キーを「打つ」という営みには「書く」という営みに本質的なものとしてあった「筆蝕」が存在しない。パソコンによる作文の普及が今後「話し言 葉」の、例えば口述筆記がそのまま書き言葉としても通用するといった意味での洗練と厳密化を促す可能性も確かに否定はできないにしても、「筆蝕」の不在は 「書く」ということに伴う自省の深まりや思考の広がりを誘発することもないからだと言う。
最初に断っておくと、ここで石川九楊が「パソコン作文」と呼んでいるものの是非を問うつもりはない。そうした文体の広がりはある種の必然であるとも思う。
ただし、石川九楊のこうした主張はにわかに理解しづらい。その理由は二つある。
仮名の発生について、日本の書が中国の「刻る書」と異なる「掃く書」として生まれたことと深く関係し、毛筆の掃く運動が漢字(真名)を崩した仮名を生み出したと石川九楊は推測している。(この部分に関してはなるほどと思う。)
公文書が漢文で書かれていた王朝時代の、仮名による文学は、今日でも会話文では 普通に行われているように、しばしば語句の省略がなされ、待遇表現(敬語表現)が多用される。そこに正史や公事の記録に用いられた漢文体と比較して著しい違いを認めることができる。こうした仮名書きの和文体は、石川九楊の表現を借りれば、話し言葉が書き言葉に侵入した文学とは言えまいか。(橋本治の現代語訳の、一見奇を衒った文体の理由もこの点にあるだろう。)
確かにパソコンの普及と、筆者が「パソコン作文」と呼ぶものの広がりの間には相関関係は認められるだろう。しかし、前者が後者の要因となっているとは容易には認めがたい。むしろそこにはパソコンの普及だけでなく、漢文的教養の衰退やマスメディアの影響など様々な因子が絡まりあった複合的な要因を考えるべきだろうと思う。
そもそも仮名文字以前の万葉仮名で書かれた『古事記』にしても稗田阿礼の口述を筆記したものとされるが、それゆえかつて石川淳は『古事記』の小説化である『新釈古事記』において、会話文以外の敬語表現を取り除いている。そうすることでパロールからエクリチュールへの変換を試みたのだろう。つまり日本語には、話し言葉が書き言葉を侵食する素地がはじめから備わっていたと考えた方が自然だろう。
さらにもう一点。石川九楊は前言語的領域である「筆蝕」こそが「書き言葉」を生むとしている。そして、この「筆蝕」を欠いているがゆえに「パソコン作文」は「書き言葉を装った野放図なおしゃべり」であるという。
一方、話し言葉においても、書き言葉における「筆蝕」のような前言語的領域は存在するとも述べている。それは声や表情である。「パソコン作文」は、 (音声読み上げソフトや絵文字・顔文字という不十分な代替物があるとはいえ、)声や表情も欠いている。それゆえ石川の論点に従うならば、「パソコン作文」は確かに「書き言葉」ではないかも知れぬが、「話し言葉」でもない、ということになる。どうなのだろう?
「筆蝕」の有無が「書き言葉」とそうでないものを隔てるという前提を受け入れてみよう。この「筆蝕」を構成する「触」と「蝕」の経験は常に一回的なものであり、それゆえ音声言語が一回的であるように「書き言葉」もまた一回的なものとであるといえるのではないだろうか。
これに対してパソコンのディスプレイ上の文字は打鍵の強弱とは無関係に、またキーをうつ間の違いを反映することもなく、まして感情の揺れを映すこともない。つねに同一の文字として表示され、またアウトプットされる。こうした言葉を発する際の一回的な経験の喪失がパソコンによる表現と、従来からの音声や書字による表現とを隔てるものではないかと思う。それゆえパソコンによる文章表現は書字とも発声とも異なる第三の言語表現と考えるのが妥当かと思うのだが、どうなのだろうか?
このあたりのパソコンに絡む議論となると、いつものことながら石川九楊の議論は異様に独断と飛躍が多くなり、理解しづらくなる。これらの批判が仮に漢文か、漢文訓読体で書かれていたら、印象が違っていたのかもしれない。もっともそうなればそうなったで、眼に触れる機会は皆無に等しいだろう。いずれにせよ、新漢字・現代仮名遣いによる口語体の印刷物として読まれるほかはなかった。著者もそうした矛盾は十分に自覚しているとは思うのだけれど。
日本語の文体は、明治以降の言文一致によって書き言葉を話し言葉に近づけていった。しかしヨーロッパ言語のように文字よりも、音声言語を優位に置くことはなかった。だから思ったとおり書け、と言われてきたが、話すように書けと教えられることはなかった。
パソコンによる話すように書く文体の拡大は、もしかしたら言文一致以降の文体を洗練させ、厳密化することで、ヨーロッパ言語のような意味での言文一致を完成させるかもしれない。ただし、それは石川九楊が言うような完全な音声入力によってもたらされるものか、どうかは分からない。ただ、ひとつだけいえることは、もしそうなったとき日本語は大きく変質しているだろうと思う。
石川九楊『筆蝕の構造』(ちくま学芸文庫・2003-1992)
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