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安部公房「赤い繭」

2007-01-13 22:59:34 | 読書
 ヘーゲルは『法の哲学』の中で所有することが同時に所有されることでもあるという奇妙な現象について次のように述べている。
 
  所有において私の意志が一つの外面的な物件のなかへおのれを置き入れるということのうちには、私の意思はその物件のうちに反映されるとちょうど同じほど、その物件において捉えられ、必然性のもとに置かれるということが含まれている。
  
 所有者が、自己の一部をなす所有物によって占められるという反転現象は確かに一見奇妙に思えるのだけれど、例えば"possession"という英単語が<所有>とともに<憑依>を表わしている(フランス語でも同様)ことを思えば、西欧において存外あたりまえのこととして捉えられていたのかも知れない。あるいはまた、<所有>という観念は、自分の意のままにしうることと等値であるならば、それは自分が対象によって意のままにされることでもあるという逆説。
 
 安部公房の初期の短編小説「赤い繭」は、まさにこうした<所有>という行為の逆説についての寓話として(私には)読める。
 
 「帰るべき家がない」"おれ"はどこかに「自分のための家」があるはずだと思い込み、来る日も来る日も夕暮れの街を彷徨いつづける。その彷徨の果てに、彼の身体は糸となってほつれていき、やがて肉体が消滅すると同時に一個の赤い繭と化す。それは確かに「おれの家」であり、"おれ"はついに「帰るべき家」を手に入れるが、それは「家」によって憑依されることでもあった、という具合に。

 さらに作品はもうひとつ別のレベルで、この<所有>という行為の逆説をなぞってみせる。

 途中、「家」、すなわち帰るべき場所を持たない" おれ"は一軒の家の前に足を止め、その家の女に向かって、奇怪な論理を振りかざしながら、そこが"おれ"の家でもある可能性を主張する。"おれ"の論理は女の日常の論理によってはねつけられる。"おれ"は日常の論理を持たないがゆえに、日常性-社会から拒絶され、締め出された存在であり、この社会という制度の中に<場所>を持つことができない。

 あらゆるものが"おれ"のものではなく、誰かのものであることを嘆く"おれ"は、そこで誰のものでもないはずの公園のベンチを「家」にしようとする。ところがそこも"おれ"の「家」とはならない。なぜなら"棍棒を持った彼"が、
「さあ、とっとと歩くんだ。それがいやなら法律の門から地下室に来てもらおう。それ以外の所で足を止めれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯したことになるのだ」と言って、"おれ"を追い立てるからだ。

 "おれ"が<場所>を所有したとき、何らかの咎を受けなければならないと主張する"棍棒を持った彼"の言葉は、裏を返せば、帰るべき場所を持たない限りは罪には問われない、ということでもある。<場所>を<所有>しない限りにおいて、訴追免除=非-場所されるという同語反復。

 そうして小説の終わりに"おれ"はついに帰るべき場所を手に入れるのと引き換えに、"おれ"=赤い繭を拾って行った"彼"の息子の所有物としておもちゃ箱の中に移される。こうして"おれ"は日常性-社会の中に<場所>を得ると同時に日常性-社会(の構成員)によって<所有>されるというアイロニー。

 "おれ"にとって帰るべき家を<所有>がすることが<所有=憑依>されることであり、自己を喪失することであったように、<所有>という行為は<所有>の対象との密着がもたらす対象と自己との同一視によって自己喪失の状態へ反転する。私にとって「赤い繭」という作品は、こうした<所有>という行為をめぐる逆説の寓話としてある。



  安部公房「赤い繭」(新潮文庫『壁』所収)
  ヘーゲル 『法の哲学』(藤野渉・森澤正敏訳・中央公論社)




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