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ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

フェルメールの女たちに会ってきた

2008年09月13日 | 絵画
 東京都美術館で開催の「フェルメール展」を見てきた。平日の夕方近く、それでも入場に10分待ちの表示。実際には待つことなく入れたのだが、あらためてその人気ぶりに驚く。

 フェルメールそのものは、全39点のうち7点。これだけの点数を一挙公開は初めてということだが、サブタイトルの「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」が、フェルメール展と名乗る言い訳のようでもある。ピーテル・デ・ホーホをはじめデルフト派の画家たちとフェルメールとを分かつものは、光と影のとらえ方、透視図法という技法に溺れるかどうかではないかと思えた。デルフト派の画家たちが、技法を描くのに対し、フェルメールは市民の日常を縦の構図の中に描く。意外だったのは、「ワイングラスを持つ娘」「リュートを調弦する女」などは、全体がかすみがかったような淡い色彩だったことで、「ワイングラス~」の女性のドレスのオレンジがやけに鮮やかに強調されていることだった。しかも主人公の女たちはみんな真珠の耳飾をしていた。奥行きのある縦の構図は、小津や溝口やウエルズのあるシーンを思わせ、フェルメールは17世紀のすばらしい映像作家だと思ったしだい。残念なのは、「私はフェルメール」と豪語したメーヘレンの作品が展示されなかったことだ。いかに似ているのか、その違いを見たかった。

悲しみのロシア・アヴァンギャルド

2008年08月06日 | 絵画
 渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「青春のロシア・アヴァンギャルド シャガールからマレーヴィチまで」展を見る。モスクワ市近代美術館所蔵のロシア・アヴァンギャルドといわれる20世紀初頭の芸術運動を担った画家たち、シャガール、カンデンスキー、マレーヴィチ、さらにピロスマニなどの70作品が展示されている。

 モスクワ市近代美術館は1999年に開館した美術館とのことだが、僕が仕事で度々モスクワへ行ったのは、ソ連崩壊前後の1990年から1994年あたりのことで、もちろんこの美術館はまだなかった。プーシキン広場前にマック1号店がオープン(1990年)したのが話題になっていた頃で、ロシア・アヴァンギャルドの絵画を直接見ることができたのはプーシキン美術館かサンクトペテルブルクのロシア美術館であったような気がする。そのときマレーヴィチという画家を初めて知り、生マレーヴィチとはそれ以来、16、7年ぶりの再会になった。「白のコンポジション」のようにスプレマチズムという抽象化の一つの到達点を示す一方、どこかユーモラスな民衆絵画的な雰囲気を残した非具象人物画は、顔がないにもかかわらず、楽しげでもあり悲しげでもあるから不思議だ。鉄の男、赤いツァーリ、スターリンこと、グルジア人、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリの粛清によってロシア・アヴァンギャルドは終焉するが、粛清にあった人、それを逃れた人、それぞれに深い傷を残したことは、スターリン時代を測量士として生き延びたマレーヴィチが、晩年に描いた具象的な自画像の怒りを押し殺したような顔に現れている。鮮やかな色彩を特徴としていたロシア・アヴァンギャルドの画家たちの絵から、革命が経過するにしたがって色彩がなくなっていくのも象徴的だ。それにしても、こうした絵画が粛清時代に抹殺されることなく生き延びたことがすばらしい。

 とりわけ、今回のロシア・アヴァンギャルド展では、画風はアヴァンギャルドとは異なるが、同時代を生きた画家ということでグルジアの画家ニコ・ピロスマニの作品が多く展示されていたのもうれしかった。「百万本のバラ」のモデルといわれる貧困画家の絵は、キャンバスではなく、多くがボール紙に描かれたものだったが、温かく力強く、そしてどこか悲しい。ピロスマニは革命直後の1918年には亡くなっており、もしスターリン時代を生きていたら、同じグルジア人としてどのような運命が待っていたのだろうか。

 我が家には、1920年代後半のロシア・アヴァンギャルド風の版画が2枚ある。1992年だったと思うがモスクワのアルバート通りの骨董屋でロシア・アヴァンギャルド時代の版画が二束三文で売られていたので、多分1枚500円くらいで買った。何しろ1万円をルーブルに換金したら、10センチはあろう札束が5つくらいになり、コートや上着などポケットというポケットに札束を突っ込んで買い物をしたことを思い出す。それでも、この時代の絵画は人気があり海外流出を防ぐため、一応国外持ち出し禁止になっているとのことだったが、厚紙にはさんで衣類の中に忍ばせて持ち帰ることができたのだった。政治の前衛と芸術の前衛が、革命の名のもとに共鳴しあった稀有な時代。その時代のアートの断片が我が家にたどり着くまでには、100年近い時が刻まれ、さらに言えば、実に多くの血が流されたのだった。今日は、広島に原爆が落とされた日だ。黙祷。

晴れた日にバスに乗って「南蛮の夢」を観にいく。

2008年05月15日 | 絵画
 連休中に、府中市美術館で「南蛮の夢、紅毛のまぼろし」展を観た。天気のよい気持ちのいい午後。バスに揺られて府中の森公園へ。市の美術館としてはこざっぱりとして、なかなかよい美術館だ。テーマは、明治、大正期の人々が描いた南蛮幻想というところか。

 鎖国があけて明治維新以降、西洋の文化が流入する中で、人々は、鎖国前に日本がポルトガルやスペインなどと貿易があり、さまざまな文化交流があったこと、それらが南蛮屏風などに残されていること、あるいはキリシタン禁教令のあとも、キリシタン信仰があり、信徒の虐殺があったことなどを知るようになる。脱亜入欧の気風の中で、同じように海外に眼を向けていた日本人がいたことへの共感、紅毛や南蛮の人が闊歩する日本の風景への憧憬、これらを南蛮への憧れという視点で、明治、大正の画家たちが描いた南蛮・紅毛の表象を再編集してみせた企画。

 副題に「安土桃山の名品から夢二まで」とあるように、六曲一双の「南蛮人来朝之図」屏風から慶長遣欧使節の支倉常長の肖像や持ち帰った十字架とメダイ(国宝)、竹久夢二の「邪宗渡来」まで多彩な展示で楽しめた。とくに日本画家たちが、南蛮のテーマを扱っていることが興味深く、踏み絵に向かう芸妓の緊張と戸惑いの姿を描いた鏑木清方「ためさるる日」、松本華羊「伴天連お春」、天正少年使節を大胆な構図で描いた守屋多々士「キオストロの少年使節」(これは唯一最近の作品)など、こういう切り口でなくては、なかなか見られない作品に出会えたことに満足、の一日であった。

 さて、南蛮といえば、一般的にはポルトガルとか南欧をイメージする。時代劇でおなじみ、不良旗本と悪徳商人が南蛮渡来の毒薬とか媚薬を悪用する場面とか、カピタン風の鼻の大きい外人、ギヤマン、時計、地球儀、ぶどう酒などが定番。だが、蕎麦屋になぜ、鴨南蛮があるのか不思議だった。鴨南蛮といえば、鴨肉にねぎのそば。南蛮漬けというと唐揚げを甘辛いタレでからめたもの。大阪の難波がネギの産地だったことから、もともと鴨難波だったものが南蛮になったとか。分かったようで分からない説だが、以前は、鴨南蛮と称して鶏肉を使っていて、偽装が問題となって最近は本当に鴨肉を使う店が多いようだ。

 僕の中で南蛮は、安土桃山の南蛮屏風の豪奢であると同時にキリシタン迫害や望郷のイメージが重なって「悲しさ」がつきまとう。この企画で展示されていた絵画も、皆悲しさが主調音のように思われたのだった。

京都で狩野永徳、虹と鯖寿司

2007年10月29日 | 絵画
 京都国立博物館で開催されている『狩野永徳』展を観に、京都まで日帰りで行ってきた。東京開催なし、これだけの永徳の作品を鑑賞できる機会は、死ぬまでにはないだろうとでかけたのだった。

 秋の京都、一年で一番賑わう季節に開かれたとあって、観光コースに「永徳展」が入っていると思われる団体ツアー客などもいて、予想を上回る混雑ぶり。昼前に京都に着き、駅のインフォメーションで前売り券を購入(ちなみに京都駅の観光案内所は、さすが日本一の観光地のインフォメーションだけあって親切、てきぱき、的確です)。飯も食わず一目散に会場に向かう。すでに入口には30分待ちの表示があり、入ってみれば小雨ぱらつく中に長蛇の列、結局40分待っての入館となったが、待つ人の列は時間が経てば経つほど長くなっていたのだった。さらに、館内では、「洛中洛外図屏風(上杉本)」を一番前で鑑賞するためには、また並ばねばならない。30分ほど待ったが、実際には右から左へと、止まらずに進んでくださいと係員が追い立てる。その金箔屏風のすばらしさは分かっても、折角の細部を鑑賞するまでには至らず、仕方ないかと諦めるほかはなかったが、もっと他に方法はなかったのか。

 ただ新発見の永徳作品、本邦初公開の「洛外名所遊楽図屏風」は人気がなく、こちらをゆっくり観て気持ちを落ち着かせよう。永徳以外の狩野派の作品も含め約70点の展示、いずれも屏風や襖など障壁画の大画なので、「洛中洛外図屏風」以外は、そう殺気立たなくとも観ることができた。こうした風俗画における人物の鑑賞には、単眼鏡が威力を発揮する。まるで、安土桃山の世界を遠くから眺めているような気分になり、描かれた人々が実際に動いているかにさえ見えるのだった。

 フランク・ロイド・ライト財団の「老松図屏風」、大徳寺聚光院の「花鳥図」などは、以前鑑賞する機会があった。とりわけ、数年前の2月、小雪舞う静寂の聚光院で「花鳥図」を観た感動は忘れがたいものがある。バロック的な造形の奇怪さで大木が画面をのた打ち回る「檜図屏風」もすばらしい。だが、今回改めて実物の迫力に圧倒されたのは、「唐獅子図屏風」だ。永徳のファンになったのもこの絵からだったのだが、2メートルを越える実際の大きさより、いま、僕の頭の中では、さらに巨大化してイメージが残っている。それほどにダイナミックでリズミカル、大胆で繊細、しかもその保存状態のよさに感動してしまうのだ。

 安土桃山の時代、織田信長、豊臣秀吉に仕えた天才画家の画業のほとんどは、安土城、聚楽第をはじめとする建築物の消滅と共に消えてしまったわけだが、こうして生き残った数少ない作品群が500年の時を超えて目の前にあることに、京都まで来た甲斐があったと感謝したのだった。

 さらに常設展示をざっと見て、ここにも狩野元信の作品が数点あるので必見なのだが、ついでに、目の前の三十三間堂で千手観音を拝んで帰ってきたのだが、この頃には京の空に虹がかかっていたのにうれしくなっていると、新幹線を待つ間レストランで生ビールしていたら寺島しのぶが店内に入ろうか入るまいかと思案しているのに出会ったのはおまけか。帰りの新幹線では「いづう」の鯖寿司をつまみながらビールをすすり、古都の余韻にひたりつつ、2,500円の図録を開いて「洛中洛外図屏風」の細部を再確認したのだった。それにしても京都土産はやけに「黒」が目に付いた。「黒おたべ」はなかなかいけるし、丹波の黒豆を干した「黒大寿」も美味でありました。

ミッドタウンの喧騒とBIOMBO

2007年09月19日 | 絵画
 暑い夏の締めくくりが、大学時代の先輩が亡くなり、甲府までお通夜に行くことになろうとは。自分自身、もういつ何があってもおかしくない年齢だが、まだ死なないぞ、という思いを強くした次第。私は、まだ死にたくない。

 先週、六本木のサントリー美術館に「BIOMBO 屏風-日本の美」に行った。東京ミッドタウンは、どれだけショッピングしているのか分からないが、新名所見物のおばはんたちで大した賑わいだったが、美術館のほうは比較的落ち着いて観られた。

 屏風は、近世の画家、画工たちにとって自らの腕を振るう格好の空間であり、襖絵と並んで日本画の最高の技術が結集されている。できるなら、盗みたい。それくらい好きな表現形態なのだ。折りたためて持ち運べ、どこにでも広げられる。こんな美術品、欧米人が見逃すはずないよね。

 だいたいが、六曲一双の左右の画面に、春夏秋冬が描かれることが多いけれど、これだけ屏風が並ぶと、屏風絵の多様性に触れることができたのは収穫だった。とりわけ、室町時代に描かれた重要文化財「日月山水図屏風」(六曲一双)は、まるで俵屋宗達ではあるまいかと思うフォルムにすっかり魅せられた。重要文化財「レパント戦闘図・世界地図屏風」(六曲一双)、 同じく「泰西王侯騎馬図屏風」(四曲一双)などの西洋絵画との奇妙な融合は、安土桃山の時代の独特の国際性が表出されていて、琳派に代表される、閉ざされながら開花する江戸の洗練とは異なった美を堪能することができた。

 屏風の展示に絞って無駄がないのは好感がもてたが、残念なのは、屏風絵は展示スペースを必要とし、一度に数を展示できないので、展示替えが必要となり、予定されている全ての作品を観るには、3~4回足を運ばなくてはならないことだった。

日展100年展と黒川の建築

2007年08月22日 | 絵画
 六本木の国立新美術館で開催されている「日展100年展」に行ってきた。最近ますますセレブなトリックスターと化している黒川紀章設計の美術館の建物は、写真で見るより小ぶりに見えるが、バブル時代を髣髴させる壮大な無駄施設という印象だ。美術館というよりイベント施設、体育館の佇まいだが、内部から見ると、平面の連なりが曲面を形成するということが実感できる建物ではある。それと、1階のカフェは生ビールが飲めるのはうれしいが、700円、サンドイッチも650円とちょっとお高い。田舎モン丸出しで言わせてもらえば、国立の施設ならもっと安くしろよ、といいたい。

 展示は、文展、帝展を経て日展に至る日本の美術の100年が概観できるという点では楽しめるものだった。とりわけ明治期の画家たちが驚くべきスピードで西洋絵画を吸収しながら独自性を発揮したこと、洋画の影響受けながら100年で変化してきた日本画の変貌ぶりが堪能できておもしろい。鏑木清方「三遊亭円朝像」のオーラ、無を描く日本画の空間表現はあらためてすごいと思う。瓦だけを描いた福田平八郎「雨」、電信柱と空に凶暴な夏を感じる山崎覚太郎「漆器 空 小屏風」など、はじめて見る作品だが、日本画の多様性に触れることができた。

 ちなみに、和田三造の代表作「南風」は、四人の漁師を描いたといわれるが、画面右側に麦藁帽を被り弱弱しく座っている人物は、ある画家らしい。その方の孫から聞いた話として知人が教えてくれた。確かに、他の三人に比べると佇まいが違うのだった。

谷中で円朝の幽霊画コレクションを観る

2007年08月20日 | 絵画
 お盆のさなか谷中の全生庵へ三遊亭円朝の幽霊画コレクションの展示を観にいってきた。行きは地下鉄「千駄木」駅から、帰りは谷中銀座を抜けて「日暮里」駅に出た。ゆうやけだんだんから振り返ってみる谷中商店街の風景は東京には少なくなった景観だ。お盆休みなのか店は閉まっていたが、ジャズ喫茶「シャルマン」の看板がなつかしかった。

 さて、この展示は円朝のコレクション50幅が虫干しを兼ねて、本堂横の展示室で公開されるもので、すべて幽霊画というのはなかなか圧巻だ。全生庵は臨済宗の寺で、明治16年に山岡鉄舟によって創建された。円朝は鉄舟と交流があった縁で全生庵に墓所があり、またその幽霊画コレクションも、この寺に引き取られたということのようだ。ほとんどは女性の幽霊で、思いを遂げられず死んだり、非業の死に至ったのは女性のほうが多いということか。それとも、どうせ化けて出るなら女のほうがいいということなのか。応挙の幽霊など、クールな美人だもの。

 作者も円山応挙を筆頭に、飯島光峨、伊藤春雨、月岡芳年、高橋由一、川端玉章など有名無名を問わずバラエティがあっておもしろい。怨めしい顔の怖さでは、応岱の「夫婦幽霊」、伊藤春雨の「怪談乳房榎図」が双璧かもしれない。柳の下に幽霊は定番だが、行灯や蚊帳の陰、香炉の煙にまぎれて立ち上るなど、登場の仕方にもさまざま、幽霊はどんなところからも出てくるものなんですね。暗いところでは振り返ってはいけません。

アートで候。神風吹かば思い起こせよ9.11

2007年06月05日 | 絵画
「アートで候 会田誠・山口晃展」を上野の森美術館で観る。現代アートの人気者の二人展とあって会場は若者がほとんど。おそらく、その日上野で最も若者が多い美術展だろう。もっぱら、じいさん、ばあさん、おばはん、おじさんばっかりの展覧会が多かったので、「アートで候」は、そればっかりではもちろんないが、とても楽しい催しだった。

 二人とも分かりやすいくらい絵がうまい。日本画と洋画の伝統的な技法を踏まえながら、卓越した画力とアイデアで独自の世界を築く二人。伝統から少し位相をずらすことで、放物線の重なるところでは、伝統が顔を出し、それでいて絵画性を解体した現実とは似て非なる独自の世界が現出している。

 山口の作品は、描かれたどこか懐かしい風景に騙されそうになるが、時間と歴史を同一空間に暴力的に平面化し、アナーキーな逆ユートピアを描く。会田の作品には、思いつきやおふざけもここまで高度なテクニックで表象化されればアートになることをみせつけながら、時代の空気の中に漂う目に見えないグロテスクを、徹底的に表に晒している。両者とも遠近法など科学的な手法で現実を写し取る西洋画的手法より、むしろ時間や空間が平面化される日本画的な手法を導入することで、現代の混沌そのものが描かれているように思えるのだ。

 とりわけミケランジェロ、狩野永徳からフジタ、東山、赤瀬川まで、古今東西の先達の作品を引用しながらグロカワイイ世界を描く会田の作品は大いに楽しめた。その傑作「紐育空爆之図」は、地獄絵図とか「北野天満宮縁起絵巻」だとかを下敷きに、炎燃え盛るマンハッタン上空を銀色の胴体を光らせて八の字に旋回する無数のゼロ戦を描いた屏風絵だ。ゼロ戦は、もしや道真の怨霊ならぬジャップの悪霊か。「東風吹かばにおいおこせよ梅の花」というよりも「神風吹かば思い起こせよ9.11」なのだ。もちろんこの絵は、戦争賛美でも日本人の呪いでも、反戦でもLOVE&PEACEでもないのだが、あの9.11のとき、貿易センタービルに突っ込んだゲリラに、反米愛国を唱える人間でなくても、密かに喝采をおくってしまう気分と似たものがこの絵にはある。その時代のグロテスクを実にうまく描いて感動してしまうのだった。

江戸とアラーキーの誘惑

2006年11月27日 | 絵画
 江戸東京博物館で「ボストン美術館蔵・肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」」を観てきた。常設館では、荒木経惟「東京人生」も開催中で、肉筆浮世絵という字づらとアラーキーの名前が妙にエロな雰囲気を醸し出しているのだが、実際はぜんぜん、どちらも公序良俗を乱すようなものではなく、浮世絵にしても、アラーキーにしても、それはその多面性ではあるのだけれど、春画の絵巻(春巻?)でも、もっとも春画らしからぬ部分が展示してあったりすると、ちっとも脱がないストリップを見ているようなもんで、展示ケースに向かって「出し惜しみすんな、こら!」なんて品のないイチモツならぬ一声を浴びせたくなるマンフラなのだった。

 いずれも保存状態がよく絢爛たる色彩は見ごたえ十分だが、このブログの常連のりへい氏ご推薦の鳥山石燕の妖怪絵巻が異彩をはなっていたし、北斎はやはり天才だと思わずにはいられない。しかし、北斎にしても若冲にしても傑作がこうも海外流出しているのはいかにも惜しいと思うのだった。

雨の日に並んで「風神雷神図屏風」を観にいく

2006年10月02日 | 絵画
 国宝『「風神雷神図屏風」宗達・光琳・抱一琳派芸術の継承と創造』展を最終日夕方にいそいそ観に行った。やたら長いタイトルだが、宗達・光琳・抱一の「風神雷神図屏風」が一堂に展示されるという、今後しばらくはないだろう展示とあって日曜日は雨にもかかわらず出光美術館は長蛇の列、入場制限されるほどだった。この3作品の同時展示は東京では昭和4年以来、宗達の屏風は京都建仁寺所蔵だから関東ではなかなかお目にかかれないだけに、まあ出光美術館も驚きの人出ではなかったろうか。

 それでも中に入れば、宗達の国宝以外は比較的人垣は少ない。この3点以外は出光美術館所蔵の抱一の「紅白梅図屏風」や「燕子花図屏風」、伝尾形光琳「紅白梅図屏風」などが揃い琳派好きにはうれしい展示ではあったが、それらは本来なら、例えば光琳ならMOA美術館所蔵の「紅白梅図屏風」、抱一なら「秋草図屏風」があって、タイトルにあるような「琳派の継承と創造」が完結されるはずなのだ。だが今回は、この屏風3点揃い踏みでよしとしておこう。

 なんといっても白眉は宗達だ。光琳は宗達を、抱一は光琳を模写したといわれ、抱一は宗達の屏風の存在は知らなかったという。宗達オリジナルの迫力が勝るのは、描写力もさることながら、その画面の切り取り方、空間の処理の仕方だろう。安土桃山の豪気とひょうげものというような前衛的な造形力を残した宗達の屏風、その宗達への光琳なりの本当の回答はあの国宝「紅白梅図屏風」によってだったのだと思うとこの展示会におけるその不在がなんとも惜しまれるのだった。