日暮らし通信


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「母の日」 に想う

2015年05月10日 14時56分03秒 | 日暮らし通信
日暮らし通信

■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

ゼニアオイ

空堀川沿いにて



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今日は 「母の日」 。でもこのように呼ばれる日はいつ頃から始まったのでしょうか?

だがこの日が来ると必ず我が母を想い出す

昭和18年3月、父若くして逝く。その後三人の男子を抱えて母の苦労が始まった

子供心に母を自慢できることは山ほどあるが、その中でも ”オフクロは凄い” と感心したことがあった

それは50歳を越えてから自転車乗りに挑戦したことだった

当時母は家から歩いて15分ほどにある大手企業が経営管理する療養所で働いていたが、その15分を短縮することを母は考えたのであろう

でも自転車は高価なものだったが、当時はいろいろな人の善意が有難く母を包んでいた

知りあいの自転車屋のご主人さんは ”お金はいつでもいいよ。ある時払いの月賦でいいから” と新車を用意してくれたそうだ

それは新型デザインのハイカラな婦人用自転車だったが、当時、そのような自転車に乗っている女性はいなかった

さて、それから母の自転車乗りの練習が自力で始まった

いつもの練習コースは田圃(たんぼ)に沿った家近くの道路だが、その田圃は道路から1メートル下に一面に広がっていた

私も心配になってなるべく見るようにしていたが、50歳越えの母には難しい道具だった自転車なので何回も倒れてひっくり返った

時には倒れて道路斜面を転がって田圃の中に。 「ああ~ 危ない!! もう自転車は諦めたらあ~」 と絶句したこともあった

でもだんだん慣れて、やがて自転車と友達になって便利な道具になってしまったが、50歳を越えて自転車乗りに挑戦した人は少ないだろう

颯爽と自転車に乗る母は正しく 「どんな壁にも挑戦する明治生まれの逞しく優しい母」 の姿だった

その母も平成18年4月に逝ってしまった

今はあの世で運転免許証でも取得して、スポーツカーで父と一緒にドライブしているかもしれない

たいした親孝行もできなかったことが、今でも悔やまれてならないが、父亡き後、戦後混乱期を通して我ら三人の男の子を育ててくれた母はやはり 「世界一の良き母」 だった