ちょっと前にベンジャミンバトン数奇な人生というのを観たんですが、この夫婦に2月はお金を使ったなぁ…。 さて、ベンジャミンの方は淡々としていて、オイラにはもうひとつだったのですが、今日観たチェンジリングは、上映時間は長いものの、結構見応えあって、おもしろいという表現が適切かどうかはわかりませんが、観て良かったと思えた作品でした。作品タイトルになったチェンジリングとは「取り替えられた子供」という意味だそうで、映画観る前の待ち時間で見た看板では、妖精がどうたらこうたらという解説もありましたが、忘れてしまっちゃった。おおまかなストーリーは、
1928年ロサンゼルス。市長の専制的な政治基盤に牛耳られており、腐敗した警官たちが機関銃を手に問答無用の殺戮を繰り返していた時代。電話会社に勤めながら、9歳になるひとり息子ウォルター(ガトリン・グリフィス)を育てるシングルマザーのクリスティーン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)。ある日、クリスティーンは休日を返上して仕事に向かうが、帰ってくるとウォルターの姿が家から消えていた。すぐさま警察に連絡するが、『捜索は24時間経ってからでないと行えない』と無下に断られる。その後もクリスティーンは各地の失踪者センターへ頻繁に連絡を取り、独自に息子を捜し出そうとしていた。それから5ケ月後。青少年課のJ・J・ジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)から『ウォルターが見つかった』という連絡があり、喜ぶクリスティーン。多くの報道陣に囲まれて対面の場に向かうが、そこに現れたのはウォルターとはまったく違う別の少年(デヴォン・コンティ)だった。クリスティーンはジョーンズ警部に別人であることを告げるが、警察の功績をマスコミにアピールすることしか頭にないジョーンズ警部は非を認めようとはせず、『あなたはショックで混乱しているだけ。子供の容姿は5ケ月もあれば大きく変わる』と主張し、強行的に少年をクリスティーンに押し付けてしまう。その後クリスティーンは何度もジョーンズ警部の元を訪れ、少年がウォルターより身長が低いこと、性器が割礼されていることを挙げ、本当の息子の捜索を依頼するが、もう事件は解決したこと…と話を取り合おうとしない。孤立無援になってしまったクリスティーンを助けようと立ち上がったのが、ラジオで警察の腐敗を市民に訴え続けるグスタヴ・ブリーグレグ牧師(ジョン・マルコヴィッチ)だった。そんな彼女を疎ましく思うジョーンズ警部は、有無を言わさずクリスティーンを精神病院に放り込んでしまう…。
…という感じ。でも、ここまでででも物語としては半分ぐらいですね。オイラ自身はこの元になった事件を知らずに観たのですが、元の事件をウィキペディアで調べたら、劇中の名、と被害者というか主人公も実名のようですね。お話は前述に書いたストーリー通りですが、後の展開では裁判もあります。陪審員なんかも出てきますので、日本の裁判員制度の参考に…なるほどのものではありませんでしたが、死の描写とかスプラッターな描写ではないものの、生々しい想像を抱かせる描写が用いられていて、そこまで必要なのかな? と、ちょっぴり感じつつも、真実の事件を扱うからこそ、生半可なことをしないという意思の表れなのかも? とも思えました。ま、PG-12作品ですからね。話が横道に逸れますが、あの同じマンションの女性を奴隷にしたくて連れ込んで殺して、結局極刑にならなかった事件の裁判が最近日本で話題を集めましたが、あのとき傍聴席から嗚咽が漏れたと言われてますが、掲出された証拠の写真などは、この映画の比では無いのだろうなぁ…と思いつつ観たりしておりました。まっ、この映画も映画ゆえの脚色はあるでしょうから、実際の公聴会や裁判はもっと悲劇が生々しかったのでしょうね。
最初の警察とのやりとり、組織の腐敗の描写。精神病院でのやりとり、殺伐とした院内、まともな感情や発言を拒絶される閉ざされた空間の描写。誰が言ったか忘れたけど、「女は弱い、されど、母は強し」という台詞がありましたが、まさにそんな女性でしたね。真実の事件を比較的忠実に(?)再現しているので、望んでいたハッピーエンドでは無かったのですが、それでも、モヤモヤ感はなく観終えることのできた作品です。
アンジェリーナ=ジョリー様といえば、オイラが初めて意識して知ったのはトゥームレイダーで、あとはブラピ様と競演した夫婦で殺し屋の映画といい、なんかアクション女優というか戦う女のイメージが強かったのですが、今回は戦う女ではないものの、闘う女を好演なされていました。アクション物とは雰囲気が違うものの、アンジー様っは強い女性役が似合ってしまう女優様ですね。
参考までに、この元ネタとなった事件のウェキペディアの記事のURLを載せておきます。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6&oldid=24549331
1928年ロサンゼルス。市長の専制的な政治基盤に牛耳られており、腐敗した警官たちが機関銃を手に問答無用の殺戮を繰り返していた時代。電話会社に勤めながら、9歳になるひとり息子ウォルター(ガトリン・グリフィス)を育てるシングルマザーのクリスティーン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)。ある日、クリスティーンは休日を返上して仕事に向かうが、帰ってくるとウォルターの姿が家から消えていた。すぐさま警察に連絡するが、『捜索は24時間経ってからでないと行えない』と無下に断られる。その後もクリスティーンは各地の失踪者センターへ頻繁に連絡を取り、独自に息子を捜し出そうとしていた。それから5ケ月後。青少年課のJ・J・ジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)から『ウォルターが見つかった』という連絡があり、喜ぶクリスティーン。多くの報道陣に囲まれて対面の場に向かうが、そこに現れたのはウォルターとはまったく違う別の少年(デヴォン・コンティ)だった。クリスティーンはジョーンズ警部に別人であることを告げるが、警察の功績をマスコミにアピールすることしか頭にないジョーンズ警部は非を認めようとはせず、『あなたはショックで混乱しているだけ。子供の容姿は5ケ月もあれば大きく変わる』と主張し、強行的に少年をクリスティーンに押し付けてしまう。その後クリスティーンは何度もジョーンズ警部の元を訪れ、少年がウォルターより身長が低いこと、性器が割礼されていることを挙げ、本当の息子の捜索を依頼するが、もう事件は解決したこと…と話を取り合おうとしない。孤立無援になってしまったクリスティーンを助けようと立ち上がったのが、ラジオで警察の腐敗を市民に訴え続けるグスタヴ・ブリーグレグ牧師(ジョン・マルコヴィッチ)だった。そんな彼女を疎ましく思うジョーンズ警部は、有無を言わさずクリスティーンを精神病院に放り込んでしまう…。
…という感じ。でも、ここまでででも物語としては半分ぐらいですね。オイラ自身はこの元になった事件を知らずに観たのですが、元の事件をウィキペディアで調べたら、劇中の名、と被害者というか主人公も実名のようですね。お話は前述に書いたストーリー通りですが、後の展開では裁判もあります。陪審員なんかも出てきますので、日本の裁判員制度の参考に…なるほどのものではありませんでしたが、死の描写とかスプラッターな描写ではないものの、生々しい想像を抱かせる描写が用いられていて、そこまで必要なのかな? と、ちょっぴり感じつつも、真実の事件を扱うからこそ、生半可なことをしないという意思の表れなのかも? とも思えました。ま、PG-12作品ですからね。話が横道に逸れますが、あの同じマンションの女性を奴隷にしたくて連れ込んで殺して、結局極刑にならなかった事件の裁判が最近日本で話題を集めましたが、あのとき傍聴席から嗚咽が漏れたと言われてますが、掲出された証拠の写真などは、この映画の比では無いのだろうなぁ…と思いつつ観たりしておりました。まっ、この映画も映画ゆえの脚色はあるでしょうから、実際の公聴会や裁判はもっと悲劇が生々しかったのでしょうね。
最初の警察とのやりとり、組織の腐敗の描写。精神病院でのやりとり、殺伐とした院内、まともな感情や発言を拒絶される閉ざされた空間の描写。誰が言ったか忘れたけど、「女は弱い、されど、母は強し」という台詞がありましたが、まさにそんな女性でしたね。真実の事件を比較的忠実に(?)再現しているので、望んでいたハッピーエンドでは無かったのですが、それでも、モヤモヤ感はなく観終えることのできた作品です。
アンジェリーナ=ジョリー様といえば、オイラが初めて意識して知ったのはトゥームレイダーで、あとはブラピ様と競演した夫婦で殺し屋の映画といい、なんかアクション女優というか戦う女のイメージが強かったのですが、今回は戦う女ではないものの、闘う女を好演なされていました。アクション物とは雰囲気が違うものの、アンジー様っは強い女性役が似合ってしまう女優様ですね。
参考までに、この元ネタとなった事件のウェキペディアの記事のURLを載せておきます。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6&oldid=24549331