為末大選手を応援しちゃおう

2006年05月02日 | Weblog
以下の発言の主は誰でしょう。(タイトルが答えなんだけど・・・)

資本が資本を生む循環機能の事を資本主義と言うのなら、それを第一の基盤としている世の中では昨今のように、欲望が際限なく膨らんでいくのは仕方のないことなのかもしれない。
欲というのはその欲しがる対象によって名前が変わる。お金や権力になれば欲望と呼ばれ頂点を目指すスポーツや文化になれば夢と呼ばれ、賢くなりたいという子供たちの前では向上心になる。ここ数百年でお金というものが世の中に現れてから、そしてそれを市場が保障するようになってから、お金はいつの間にかたくさんの欲と交換できるようになった。本来欲望というものは一つ一つが別々のもので、なかにはつながっているものもあるだろうが、原則としては一つずつ満たしていくほかなかった。・・略・・けれども貨幣はあくまで幸せと交換する為の媒体に過ぎない。貨幣は何かに換算したときに初めて幸せになれるもので決してそれ自体が目的となるべきものではない。・・・しかし資本主義が、勝って稼ぐことがすべてで、収益のないものをいらないようにしていくとしたら、とても虚しい世の中になってしまうように思う。・・・日本に根付く、他人を敬い、弱きものを助ける・・・
(月刊現代4月号の為末大の発言より)

いい発言だなあ。

ライブドアショックだとか、倫理の崩壊だとか、金で全てが買えるのかとか・・。最近、改めてお金の事についての報道を目にしますので、少し思ったことを書きます。先の話を持ってくれば、お金が何かを買うための媒体だとすれば、それはいわば物を買うための手段です。その際に目的となるのはお金を使って「何かを得ようとする」、「買おうとする」、という部分が目的になります。
ですから、「何が買いたいのか。」、「何に使いたいのか」。これをはっきりと意識する、もしくは教育してからでないと、陸上で言えば何も考えず試合にも出ずマシンみたいに走っているようになってしまいます。少し寂しい感じになってしまうような気がするのです。いろんなインタビューや専門家の方の意見を聞いていて、拝金主義への批判や考察はよくありましたが、散財主義への言及はあまり耳にしませんでした。稼いだお金を(方法は考えに入れないものとして)使わないのと、使うのでは日本経済には大きな違いがあると思うのです。やっぱり淀みなく流れるほうが心地よいのではないでしょうか。とまあ、私がとんでもないお金持ちだったらもっとリアルに話せると思うのですが、そこはどうしようもないので具体性に欠けるかもしれません。ちょっとだけそう思ったという話でした。
しかし、それよりもヤマハ自動機や建築偽造問題のニュースのほうが衣食住、外交に関わるので大きな問題では無いでしょうか。個人的にはこっちのニュースをやってくれないかなぁと思ってます。(為末大HPより)

いいなあ、為末大。普段の飄々とした態度もわりと好きだ。私も少年時代、少しだけ陸上競技をかじったことがある。400メートル(ハードルではない)で県大会に出場したことがある。陸上の経験のある人ならわかると思うが、短距離でこれほどきつい競技はない。だからと言うわけでもないが、なんだか彼を応援したくなる。同じスポーツ選手でも大仁田厚などより絶対頭がいい。為末大は陸上競技で世界中を転戦している。その過程で各国の選手などが、政治的な発言でもはっきり主張する姿をみて日本との違いを痛感し、政治や経済についても自分なりに勉強し、発言するようになったそうだ。国内にいて安全地帯から、威勢のいいことだけを言う似非愛国者と違い、日日、陸上競技という競争に晒されながらもこういう発言のできる人が本当のグローバリストじゃないのかなあと思う。

教育の一番の問題点は、そのタイムラグでしょう。今、現在の日本のリーダー層である50~60歳の方が学生だったのは30~40年前。果たしてその時代の教育がどうだったかなんて検討もつきません。その頃の教育が現在に影響しているということは、30~40年先にまで通用するようでなければ教育とは言えません。ここがすごく難しい点ではないでしょうか。(同HPより)

教育基本法についての発言もなかなか鋭い。
私は応援しちゃおう。