亡くなった父について、今でも母がたまに口にする言葉がある。「お父さんと結婚した当時は、ズボンを1本しか持っていなかったのよ。」
亡父と亡くなった祖母は戦前、旧満州に住んでいた。保険会社に勤務する祖父のもと、植民地(実質的な意味)で中流家庭の生活を営んでいた。が、祖父が病没し戦火が激しくなり、日本の敗戦により生活は一変する。命からがら、中国からの引き上げ船に乗り、知り合いのつてで日本の某県に住んだ。それから、祖母と父の極貧との戦いが始まる。19歳だった父には学齢期の二人の弟がいた。未亡人の祖母は生きて行く為に何でもやった。日雇いの労働、住み込みの賄い婦、初老と言われる年齢になるまで、殆ど休みなく、働いた。私が記憶している祖母はしつけにきびしくて、友達もいない、趣味も無いさびしい老人だったが、そのことを父に少し問うと、趣味なんて持てるような生活をしてきた人じゃないから・・・とポツンと言ったことがある。父は何としても、弟二人を高校まで進学させようと思い、高い労賃に引かれ、日本各地の炭鉱で働いていたこともある。弟二人は無事に高校を卒業し、この国の高度成長のとば口に都会の比較的有名企業に就職することが出来、それぞれの土地でつつがなく暮らしている。
今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した梯久美子氏の『散るぞ悲しき』を読んだ。硫黄島で亡くなった旧日本軍の陸軍中将、栗林忠道氏とその家族、そしてもちろん硫黄島での米軍との激闘も描いた作品である。栗林氏が戦死したとき、妻の義井(よしゐ)さんは40歳だった。
その後は保険の外交員をし、やがて世田谷にあった紡績会社で住み込み寮母の職を得る。たか子(栗林氏が戦死したとき9歳だった次女)は高校を出るまで、母と一緒にこの会社の寮で暮らした。その後は台所もトイレも共同の一間のアパートに住んだ。・・(略)・・「母はお嬢さん育ちで、結婚してからはずっと父に守られてきました。それまでただの一度も働いたことがなかったのに、終戦直後の大変な時期には露天で物売りまでやって、私たちを育ててくれた。・・(略)」(本文より)
陸軍中将だった栗林は、硫黄島守備の功績によって大将に叙せられた。“大将の妻”としての誇りを義井は胸に秘めて生きたはずだ。しかしそれは、家名を守り夫の武功を子々孫々に伝える、というようなものではなかった。・・(略)・・信念をもって自分らしく生きよ。きびしい現実に立ち向かい、子供たちとともに強くあれ ― それが、もう自分が家族を守ってやることはできないと覚悟した栗林が妻に求めたことであった。それに応えて、義井は見栄や外聞とは無縁の強さをもって生きてきたのだった。(同本文より)
亡父には兄もいた。秀才の誉れ高く、旧満州にあった国立大学に在学中、学徒出陣で戦争末期、南方戦線に送られる。終戦後、数年経って戦友から、一通の手紙が届いた。 ―「○○君は栄養失調から脚気になり、□□□を部隊で行軍中、もう一歩も動けない、後から行くからお前は先に行ってくれと言いました。○○、一緒に行こうよと私は必死に励ましましたが、彼は動けませんでした。後に後続の部隊に○○君の姿を見なかったかと聞いてまわりましたが、見た人間はいませんでした。私が○○君の姿を見たのはそれが最後でした。」― 手紙にはそう認められていた。
父はその手紙を読み、結婚以来、最初で最後の母の前での号泣を見せた。
伯父の遺骨はもちろんない。靖国神社に祀られてもいない。
ヨハネ○○○雄。伯父はクリスチャンだった。
汝の隣人を愛せよ。
中国人ともアメリカ人とも戦いたくなどなかったはずだ。
庶民はそうして死に、そうして戦後を生きてきた。
庶民はそうして歯を食いしばって戦後を生きてきた。
戦中の指導層や官僚が恥ずかしげもなく、戦後要職につき、その孫が『美しい日本へ』などという噴飯ものの著作を出す、この国で庶民はそうして生きてきた。
亡父と亡くなった祖母は戦前、旧満州に住んでいた。保険会社に勤務する祖父のもと、植民地(実質的な意味)で中流家庭の生活を営んでいた。が、祖父が病没し戦火が激しくなり、日本の敗戦により生活は一変する。命からがら、中国からの引き上げ船に乗り、知り合いのつてで日本の某県に住んだ。それから、祖母と父の極貧との戦いが始まる。19歳だった父には学齢期の二人の弟がいた。未亡人の祖母は生きて行く為に何でもやった。日雇いの労働、住み込みの賄い婦、初老と言われる年齢になるまで、殆ど休みなく、働いた。私が記憶している祖母はしつけにきびしくて、友達もいない、趣味も無いさびしい老人だったが、そのことを父に少し問うと、趣味なんて持てるような生活をしてきた人じゃないから・・・とポツンと言ったことがある。父は何としても、弟二人を高校まで進学させようと思い、高い労賃に引かれ、日本各地の炭鉱で働いていたこともある。弟二人は無事に高校を卒業し、この国の高度成長のとば口に都会の比較的有名企業に就職することが出来、それぞれの土地でつつがなく暮らしている。
今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した梯久美子氏の『散るぞ悲しき』を読んだ。硫黄島で亡くなった旧日本軍の陸軍中将、栗林忠道氏とその家族、そしてもちろん硫黄島での米軍との激闘も描いた作品である。栗林氏が戦死したとき、妻の義井(よしゐ)さんは40歳だった。
その後は保険の外交員をし、やがて世田谷にあった紡績会社で住み込み寮母の職を得る。たか子(栗林氏が戦死したとき9歳だった次女)は高校を出るまで、母と一緒にこの会社の寮で暮らした。その後は台所もトイレも共同の一間のアパートに住んだ。・・(略)・・「母はお嬢さん育ちで、結婚してからはずっと父に守られてきました。それまでただの一度も働いたことがなかったのに、終戦直後の大変な時期には露天で物売りまでやって、私たちを育ててくれた。・・(略)」(本文より)
陸軍中将だった栗林は、硫黄島守備の功績によって大将に叙せられた。“大将の妻”としての誇りを義井は胸に秘めて生きたはずだ。しかしそれは、家名を守り夫の武功を子々孫々に伝える、というようなものではなかった。・・(略)・・信念をもって自分らしく生きよ。きびしい現実に立ち向かい、子供たちとともに強くあれ ― それが、もう自分が家族を守ってやることはできないと覚悟した栗林が妻に求めたことであった。それに応えて、義井は見栄や外聞とは無縁の強さをもって生きてきたのだった。(同本文より)
亡父には兄もいた。秀才の誉れ高く、旧満州にあった国立大学に在学中、学徒出陣で戦争末期、南方戦線に送られる。終戦後、数年経って戦友から、一通の手紙が届いた。 ―「○○君は栄養失調から脚気になり、□□□を部隊で行軍中、もう一歩も動けない、後から行くからお前は先に行ってくれと言いました。○○、一緒に行こうよと私は必死に励ましましたが、彼は動けませんでした。後に後続の部隊に○○君の姿を見なかったかと聞いてまわりましたが、見た人間はいませんでした。私が○○君の姿を見たのはそれが最後でした。」― 手紙にはそう認められていた。
父はその手紙を読み、結婚以来、最初で最後の母の前での号泣を見せた。
伯父の遺骨はもちろんない。靖国神社に祀られてもいない。
ヨハネ○○○雄。伯父はクリスチャンだった。
汝の隣人を愛せよ。
中国人ともアメリカ人とも戦いたくなどなかったはずだ。
庶民はそうして死に、そうして戦後を生きてきた。
庶民はそうして歯を食いしばって戦後を生きてきた。
戦中の指導層や官僚が恥ずかしげもなく、戦後要職につき、その孫が『美しい日本へ』などという噴飯ものの著作を出す、この国で庶民はそうして生きてきた。
以前、自分の父のことを書いたことがありました。恥ずかしいので(そんなら書くなって? あはは……汗)読んでもらえると嬉しいなと思うブロガー数人にひそかにTBしただけなんですが、nizanさんにも発作的にTBしました(ひょっとしたら既にしていたかな?)。お暇なときに斜め読みしていただけるとハッピイです。
かなり前から「美しい季節とは誰にも言わせまい・・・・」のまるでそれだけで名作の映画や本の題名のようなブログ名が気になっていたのですが、どういうわけか立ち寄る機会が無く、今回初めてじっくり読ませていただきました。
ブログ名に違わぬ格調高い内容で、ちょっと気後れしてしまいお恥ずかしいのですが、図々しくTBもさせていただきました。
”汝の隣人を愛せよ”、あらためていい言葉だと思います。すべてはこれからですよね。
<以前、自分の父のことを書いたことがありました>既に読んでました。これからもよろしく。
pantaさん、コメントありがとうございます。そして、はじめまして。
<ブログ名に違わぬ格調高い内容>にゃははは。お恥ずかしいです。ほんとは、ち○ぽ○とか○字とかが好きなんですよ。これからもよろしく。