少子化日本と言われるようになって随分と日が経つ。1.2台にまで落ちた日本の出生率が劇的に改善する兆しはみえない。それはそうだろうと思う。現代の新自由主義の一番悪辣なところは人間を商品化しすぎたところにあると思う。資本が人間を商品と見做す行為は昔からあったと言えば、あった。例えば、株式会社リクルートは人身売買企業ではないかという意見も私が若い頃から一部ではあった。ただ、最近のそれ(新自由主義)はあからさまに資本の論理を振りかざして恥を知らなくなった。人を商品として売買する偽装請負や派遣業がこれだけ跋扈する世の中では生まれた新しい命が、将来、一体全体、「人間になるのか」「商品になるのか」わからない。自覚であれ、無自覚であれ、そういう環境が常態化した現代の日本では、若い人が結婚し、子供を作り、安心して子育て出来るとはなかなか思えないだろう。
皇室に男児が生まれた。今の日本で、生まれて来たことをこれほど喜んでもらえた赤ん坊は悠仁ちゃんをおいて他にはいないだろう。生まれてきてよかったね。私は天皇制についても、皇位継承の問題についても詳しい知識がないし、あまり関心がない。ただ、この国で今、生まれて来た一人の新生児がまずは「人間として」健やかに育って欲しいとは、心の底から思う。
蛇足ながら、退任する小泉氏や竹中氏を支持してきた保守派の人間に聞いてみたいことがある。彼らほど、人間を商品化した政治家はいないと思う。皇室に生まれようが、一般の家庭に生まれようが、人間を人間としてまっとうに扱わない新自由主義者が、本当の意味で皇室に敬意など抱いていたとは思えない。
人間が一個の存在として、肉体的にも精神的にも成長するには、愛情に包まれて、それなりに適切な過程を経なければならないと思う。それを教育と呼ぶのかもしれない。成長し自我に目覚め、自立し、社会の中で、あるいは大切な誰かにとって自分が必要とされる人間になる。ある人は、サラリーマンになり、ある人はスポーツ選手になり、ある人は国民の象徴になり、そうなるのだろう。
自分が「人間になり」、ひょっとしたら、誰かに必要とされるのではないかと一度信じながら、死んでいったあの男 ― 永山則夫はどうだったのだろう。
永山の生い立ちは極めて不遇だった。永山は49年、北海道網走市の貧しい家庭に生まれる。賭博に明け暮れた父は後に失踪。5歳の時、母親は永山を含む4人の仔を置き去りにして出奔。翌年、栄養失調状態のところを福祉事務所に救出される。永山は小・中学校を通じて新聞配達をしてきた。学校は長期欠席状態で家出を何度も試みた。16歳で中学を認定卒業すると、集団就職で上京する。しかし、就職先でも同僚と馴染めず、職を転々とする。この間、2度の密航を企てるが失敗。自殺未遂も繰り返し、絶望的な彷徨の果てに、68年10月から11月、米軍横須賀基地から、盗んだ小型ピストルを使って、連続射殺魔事件を起こす。わずか1ヶ月足らずの間に、東京、京都、函館、名古屋でガードマン、タクシー運転手ら4人の命を奪った。犯行当時19歳だった。
逮捕後、永山は被害者に慰謝しながら、自身の犯罪の根拠に貧困と無知があったとの結論にいたる。71年、獄中ノート『無知の涙』を出版し、ベストセラーとなる。79年7月、永山は東京地裁で死刑判決を受けるが、81年東京高裁で無期懲役に減刑される。(船田判決)
船田判決は永山が精神的に未成熟であったことを理由に、死刑を回避したのである。さらに、死刑の適用についても見解を示し、「死刑を選択するのは、いかなる裁判所であっても死刑を言い渡すであろう事件に限る」と述べたのだった。
船田判決の前年、永山は文通相手の女性と獄中結婚している。永山が高裁の判決を受け、自ら生きる意志を固めたことは想像に難くない。
だが、高裁判決から、ほどなくして、検察は量刑不当を理由に上告。83年7月、最高裁第二小法廷は無期懲役を破棄、高裁に差し戻す。事実上、死刑にするためにあらためて審理のやり直しを命じたのである。
最高裁判決の後、弁護団の一人、大谷恭子弁護士は永山と接見した。
「生きたいと思わせてから殺すのが、お前らのやり方か」
「なぜ『生きろ』と言った」
永山は静かな口調で詰った。
船田判決は『原審が死刑判決を選択したことは首肯できないわけではない』とも述べており、無期は審理を尽くした上での総合的な判断だった。永山を再び死刑にしたのは、死刑制度を維持する為としか思えなかった。 (月刊現代10月号より)
それでもまだ、永山則夫の時代には世間に憐憫があった。自分が同じ立場になるかもしれないと言う感情が世間のどこかにまだあった。彼が死刑になる事に世間全体に葛藤があった。
ここ数年でそれが消えようとしている。それは、この国に新自由主義の嵐が吹き荒れ、自己責任という言葉が席巻した過程と軌を一にしている。
新自由主義と犯罪に対する厳罰化はリンクしている。一部の自称勝ち組はそれで治安が守れると誤解している。
皇室に生まれた男児のみが慈しまれるのではなく、全ての命が「商品になる」のではなく「人間になる」世の中の方がずっといいはずだ。
皇室に男児が生まれた。今の日本で、生まれて来たことをこれほど喜んでもらえた赤ん坊は悠仁ちゃんをおいて他にはいないだろう。生まれてきてよかったね。私は天皇制についても、皇位継承の問題についても詳しい知識がないし、あまり関心がない。ただ、この国で今、生まれて来た一人の新生児がまずは「人間として」健やかに育って欲しいとは、心の底から思う。
蛇足ながら、退任する小泉氏や竹中氏を支持してきた保守派の人間に聞いてみたいことがある。彼らほど、人間を商品化した政治家はいないと思う。皇室に生まれようが、一般の家庭に生まれようが、人間を人間としてまっとうに扱わない新自由主義者が、本当の意味で皇室に敬意など抱いていたとは思えない。
人間が一個の存在として、肉体的にも精神的にも成長するには、愛情に包まれて、それなりに適切な過程を経なければならないと思う。それを教育と呼ぶのかもしれない。成長し自我に目覚め、自立し、社会の中で、あるいは大切な誰かにとって自分が必要とされる人間になる。ある人は、サラリーマンになり、ある人はスポーツ選手になり、ある人は国民の象徴になり、そうなるのだろう。
自分が「人間になり」、ひょっとしたら、誰かに必要とされるのではないかと一度信じながら、死んでいったあの男 ― 永山則夫はどうだったのだろう。
永山の生い立ちは極めて不遇だった。永山は49年、北海道網走市の貧しい家庭に生まれる。賭博に明け暮れた父は後に失踪。5歳の時、母親は永山を含む4人の仔を置き去りにして出奔。翌年、栄養失調状態のところを福祉事務所に救出される。永山は小・中学校を通じて新聞配達をしてきた。学校は長期欠席状態で家出を何度も試みた。16歳で中学を認定卒業すると、集団就職で上京する。しかし、就職先でも同僚と馴染めず、職を転々とする。この間、2度の密航を企てるが失敗。自殺未遂も繰り返し、絶望的な彷徨の果てに、68年10月から11月、米軍横須賀基地から、盗んだ小型ピストルを使って、連続射殺魔事件を起こす。わずか1ヶ月足らずの間に、東京、京都、函館、名古屋でガードマン、タクシー運転手ら4人の命を奪った。犯行当時19歳だった。
逮捕後、永山は被害者に慰謝しながら、自身の犯罪の根拠に貧困と無知があったとの結論にいたる。71年、獄中ノート『無知の涙』を出版し、ベストセラーとなる。79年7月、永山は東京地裁で死刑判決を受けるが、81年東京高裁で無期懲役に減刑される。(船田判決)
船田判決は永山が精神的に未成熟であったことを理由に、死刑を回避したのである。さらに、死刑の適用についても見解を示し、「死刑を選択するのは、いかなる裁判所であっても死刑を言い渡すであろう事件に限る」と述べたのだった。
船田判決の前年、永山は文通相手の女性と獄中結婚している。永山が高裁の判決を受け、自ら生きる意志を固めたことは想像に難くない。
だが、高裁判決から、ほどなくして、検察は量刑不当を理由に上告。83年7月、最高裁第二小法廷は無期懲役を破棄、高裁に差し戻す。事実上、死刑にするためにあらためて審理のやり直しを命じたのである。
最高裁判決の後、弁護団の一人、大谷恭子弁護士は永山と接見した。
「生きたいと思わせてから殺すのが、お前らのやり方か」
「なぜ『生きろ』と言った」
永山は静かな口調で詰った。
船田判決は『原審が死刑判決を選択したことは首肯できないわけではない』とも述べており、無期は審理を尽くした上での総合的な判断だった。永山を再び死刑にしたのは、死刑制度を維持する為としか思えなかった。 (月刊現代10月号より)
それでもまだ、永山則夫の時代には世間に憐憫があった。自分が同じ立場になるかもしれないと言う感情が世間のどこかにまだあった。彼が死刑になる事に世間全体に葛藤があった。
ここ数年でそれが消えようとしている。それは、この国に新自由主義の嵐が吹き荒れ、自己責任という言葉が席巻した過程と軌を一にしている。
新自由主義と犯罪に対する厳罰化はリンクしている。一部の自称勝ち組はそれで治安が守れると誤解している。
皇室に生まれた男児のみが慈しまれるのではなく、全ての命が「商品になる」のではなく「人間になる」世の中の方がずっといいはずだ。