桜の花の満開の下

2006年04月11日 | Weblog
サハリンには桜が咲く
旧樺太に日本人がいつから住んでいたかは、諸説あるらしい。明治8(1875)年の樺太・千島交換条約により、樺太はすべてロシア領、千島列島はすべてが日本領となった。明治38(1905)年の日露戦争の勝利の結果、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された。南樺太の面積は四国の約2倍にあたり、終戦時の人口は、約40万人であった。
先の大戦の末期、日本の敗戦の混乱の中、旧ソ連軍の南樺太への本格的な侵攻は8月10日前後から始まった。国境近くの小集落を攻撃し始め、ここでは旧日本陸軍2個小隊と国境警察隊の約100名の兵力が防戦し、大半が戦死し、民間人も多数が死亡した。
国境を越えた後、旧ソ連軍は国境から10キロほどの日本軍の主防御地帯への攻撃を開始した。ポツダム宣言受諾に伴い、旧日本軍の樺太にいた部隊にも8月18日にようやく戦闘停止の命令が伝達された。しかし、スターリンの命を受けた旧ソ連軍は、敗走する旧日本軍や民間人を8月15日以降も攻撃し、多数の死者が残った。それまでの戦闘による被害は日本側軍人死者約600名、ソ連側軍人死者約千名と伝えられている。それに前後して、旧ソ連軍は、樺太南西岸の真岡へも迫った。真岡では、16日夕から日本本土への引き揚げが開始され、19日夕刻までに約6千人が出航していたが、乗船を待つ避難民がまだ約1万5千人いた。真岡への攻撃は20日早朝に始まった。数隻の大型軍艦が町中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけた。引き揚げ船へ向かう女性や子供たちや老人の上にも、容赦なく砲弾が降り注いだ。厚生労働省の資料では、この時の民間人犠牲者は約千名としている。この時の悲話の一つとして伝えられているのが、真岡電話局に残って、通信維持の使命に殉じた9人の女性たちである。9人は引き揚げの指示を断って、旧ソ連軍の攻撃開始後、一時間以上に渡って、市街の惨状を報告し続けた。今も詩吟「氷雪の門」で伝えられる最後の放送は次のようであったと言う。

  内地の皆さん、只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。これが樺太か
  ら日本に送る最後の通話となるでありましょう。私たち9人は最後まで、この交換
  台を守りました。そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。ソ連軍が近
  づいております。足音が近づいております。稚内の皆さん、さようなら、これが最
  後です。内地の皆さん、さようなら、さようなら、さようなら・・・

9人は、青酸カリを飲んで自決した。昭和43年、稚内市内に、彼女たちを慰霊する為に「乙女の碑」が建立された。

北でも、南でも軍隊だけでは人を守れない。

サハリンの桜の花の満開の下。髑髏が泣いている。
桜の花の満開の下。故郷に帰りたいと泣いている人々が、今もいる
そう簡単に、戦後は終わらない。


3 コメント

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明るくなったのに・・・ (とくら)
2006-04-12 08:43:00
おはようございます。

こちらも模様替えされたんですね。お伺いした途端、桜が舞うので、明るくなったんだ、と思って読ませていただくと、悲しいお話だったので、昨日の夜はつらくなって、そのまま帰りました。

樺太にはまだ残留邦人がおられるのですか?知らなかったのですが。これまで何も知らないで平和に暮らしてきた私は恥ずかしくなります。
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心に (luxemburg)
2006-04-15 16:31:17
いい、というか忘れてはいけない話ですね。心に刻んでおきたいと思います。ありがとうございました
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管理人 (nizan)
2006-04-16 14:27:12
とくらさん、コメントありがとう。

せっかく若いボーイフレンドが出来て(笑)楽しい気分だったのを、悲しませてすみません。



luxemburgさん、コメントありがとう。

忘れてはいけない、無名の人々の話が実はたくさんあるのだと思います。
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