名も無き者

2007年02月11日 | Weblog
チェ・ゲバラの若き日を描いた映画『モーターサイクルダイアリーズ』の白眉はハンセン病患者が隔離された孤島にチェが溺れかかりながらも泳ぎ着き、患者達と抱擁するシーンである。

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このところ、柳澤厚労相の一連の発言や、経済財政諮問会議のメンバーのザ・アール奥谷社長の労働基準監督署すら必要ないという発言が物議を醸しているが、日本の厚生労働行政の過去の瑕疵にハンセン病患者の徹底隔離政策がある。
現在、ハンセン病療養所に暮らす人のほとんどは、完全に回復しており後遺症による身体障害を残しているにすぎない。戦後、すぐに国際的には、プロミン薬登場以後、早期発見・早期治療と人権の尊重を主眼とする政策が次々とすすめられたにもかかわらず、我が国では、「らい予防法」のもとで、ハンセン病患者に対する強制隔離政策が1996年まで継続された。彼らはついこの間まで、社会の中で無き者として扱われた。
そもそもは、1931年に「民族浄化」「無癩日本」のかけ声のもと、全ての患者を強制収容・隔離して、新たな患者発生を絶滅させようという政策が押し進めらたことが切欠だった。それは日本が戦争へとひた走るファシズムの時代と軌を一にしていた。当事、各県の衛生当局と警察は「無らい県運動」と称し、しらみつぶしに患者を探し出し、強制的に療養所に送りこんだ。また、患者の家は見せしめのように徹底的に消毒された。これによって地域の人々の病気に対する恐怖心があおられ、患者とその家族に対する差別が強まった。社会から無き者として抹殺とも言える排除を受けた。そして、その政策を転換する事を厚生労働省は1996年まで先延ばしにした。人権意識の欠如した怠慢と言われても仕方ないだろう。

何か似ていないだろうか。大阪長居公園に暮らすホームレスたちを徹底的に排除したやり方と。大阪の場合は一つの象徴に過ぎない。イシハラごときが都知事を務める東京都下で、もし、オリンピックが開催されれば、代々木公園などのホームレスは徹底的に排除され、社会から無き者と偽装されるだろう。また、現在、日本の失業率は4%台であると発表されているが、これはハローワークに登録して初めて、失業者とカウントされる。ホームレスや就職をあきらめた者たちは無き者として統計の数字からも排除されている。過労死の問題も職場における労災もセクシャルハラスメントも、しかるべき手続きを経なければ、無いものとして不可視化される運命にある。

1930年代から、この国の厚生行政は本質的に進歩したと言えるのだろうか。そこに問題があるにもかかわらず、それを巧妙に排除しようとする。それが柳沢発言や奥谷発言にも繋がっていると考えるのは穿ち過ぎだろうか。

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戦前、北条民雄という作家がいた。彼は19歳でハンセン病に罹患し、郷里を離れ、東京多摩にある全済病院に入所する。旺盛な創作力を持ち、その才能を川端康成に認められ、代表作『いのちの初夜』を残す。しかし、北条民雄という筆名しか名乗る事を許されなかった。本名を名乗れば、親、兄弟さえも差別の対象となるからである。郷里からは無き者として扱われ、23歳という若さで夭折する。

 「人間ではありませんよ。命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。・
  ・(略)・・ただ命だけが、びくびくと生きているのです。なんという根強さで
  しょう。誰でもライになった刹那に、その人の人間は滅びるのです。・・(略)
  ・・けれどぼくらは不死鳥です。、新しい思想、新しい目を持つ時、全然ライ
  者の生活を獲得する時、再び人間として生き返るのです。復活、そう復活で
  す。」
                (『いのちの初夜』より)

チェは、名も無き民衆のために立ち上がり、後にボリビアの山中で銃殺された。
北条民雄は本名を抹消され、その命を燃焼させた果実として一冊の著作を残した以外は社会に無き者とされた。
日本では1998年の不況以来、警察で無縁仏として処理される名も無き遺体が急増している。

名も無き者たちが犠牲になる世の中は、私たちにとっても息苦しいはずだ。