『邪宗門』 - 食う話として

2007年02月07日 | Weblog
人は飢えれば、人をも食う。

大阪長居公園のホームレスたちを大阪市役所が強制代執行により排除した。内外から批判の声もあがっているが、この国の行政は北九州市役所による生活保護受給申請者に対する、窓口規制にも見られるように行き着く所まで行き着いたのだろうか。

私が19歳か20歳の頃読んで涙し、何回か再読した高橋和巳の『邪宗門』の主人公千葉潔は東北の寒村に生まれた。折からの凶作で、父は失踪し、母は餓死した。彼は亡き母の遺言により、近畿地方のとある盆地にあると言う<ひのもと救霊会>を目指し、母の骨壷と共にたどり着く。そこは彼にとって桃源郷であった。作物を耕し、人々は自分の能力に応じて働き、厚い信仰心によって信頼関係が結ばれている。そこに飢えはなく、原始共産制とも言える世界が、少年だった彼を育む。

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 餓死事件
昨年4月以降わずか2ヶ月の間に、北九州市で、母娘(78歳、49歳)、1人暮らしの男性(56歳)、老夫婦(69歳、62歳)の餓死とみられる死体が相次いで発見された。このうち、孤独死した56歳の男性は、2度にわたり区役所を訪れ生活保護の受給を求めたにもかかわらず、親族がいることを理由に拒否された。同市では2005年1月にも要介護の男性(68)が餓死し、大阪府東大阪市でも同年同月、女性(78)と長男(53)、女性の姉(81)が病死(餓死の疑い)している。
世界第2位の国内総生産(GDP)(「国民経済計算年報(平成18年版)」内閣府編)を誇り、豊かといわれる現代の日本において、このような餓死事件が今も後を絶たない。(日弁連HPより)

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物語の中で、戦中は国家神道と対峙し、戦後はその教義が共産主義的であるとして、GHQから弾圧を受け、<ひのもと救霊会>は崩壊し、第三代教主になっていた千葉潔は数人の信者とともに落ち延びる。そこは大阪の貧民街である。現存する長居公園の近くだったろうか。貧民街にある診療所に身重の女が担がれる。窓さえ破れたその診療所の中で彼と信者たちは、女を囲む様に座禅を組み車座になり、出産する姿を外から隠す。そして、自らは食事を拒否し餓死を選択する。千葉は禁忌を犯していた。生きる為に母親の死体を食らった。死は、彼にとって、もう食らわなくて良い安寧だったのか。その引き換えとして新しい命は誕生する。

人は生きる為に食う。
食う為に宗教に救済を求める時もある。
食う為にホームレスにならざるを得ない時もある。
武田泰淳の『ひかりごけ』にも描かれたように、人間は生きる為に、人をも食う可能性がある。餓鬼道にも落ちる。

翻って、生活保護の受給が出来ず、餓死する人間が存在し、ホームレスを排除して、彼らが今夜の食事をどうするのか想像すらできない行政官がいる現代をどう考えればいいのだろう。
食う事は人間にとって必要最低限な事である。飽食と言われる現代で、それすらも保障されない世の中はどこか狂っている。私たちは憲法第25条を持っている。行政は人間の尊厳を回復する手助けをして当たり前だろう。全ての人が健康で文化的な生活を保障されなければならない。それではじめて、私たちは自立的に基本的人権を獲得した事になる。

『邪宗門』の中で、餓死することによって千葉潔は己の尊厳を守った。いや、虚無しかなかったのかもしれない。

   本当は誰も信じていなかった。それは千葉潔自身が一番よく知って
   いる。ただ彼の孤独は無為と寂寞のうちに解消させるには、あまり
   にも深すぎた。・・(略)・・むろん彼の記憶の灰色の幕にも、人の慈
   悲に胸つかれ、なにかの喜びに胸ふくらんだ一齣一齣も映らぬわけ
   ではなかった。・・(略)・・だが彼に報恩すべき地盤がなかった以上
   、それは常に負債にしかなりようはなく、結局は苛立たしい心のしこ
   りとなった。(本文より)

そんな哀しい選択は物語の中だけで十分ではないか。