ちょっと誤解があるかも知れないが・・・

2006年10月19日 | Weblog
とりあえずさんのエントリーからはじまった死刑廃止論だが、私の以前書いたエントリーもリンクして頂いた。他の方のブログの内容に比べるとレベルが低いので、期待して読んだ方には申し訳ないと思っている。

そのエントリーの中でも書いているが、私自身は死刑制度の是非に結論を出しているわけではない。正直に書けば、私自身の中にも、自分の肉親や友人が凶悪事件の犠牲者になれば、その犯人に死刑を望むかも知れないと言う気持ちがある。また、自分自身が復讐を遂げたいと思うだろう。私は、聖人君子でも何でもないので、そういう闇の部分を心の中に抱え込んでいる。

んー上手く書けないのだが、「犯罪により人が人に殺される」という行為はどこまで行っても具象的なもので、その罰としての死刑制度は、その維持を望む者にとっても、廃止すべきだと考えている者にとっても、ある時は具象的なものになり、ある時は抽象的な概念になるのではないか。犯罪被害の当事者や遺族にとっては、犯人を屠ることが、極めて具象的な行為になり、犯罪被害を受けたという具象的なものとそこで等価になる。是非ではなく、そうなる。それは人間の心の狭さかもしれないし、弱さかもしれないが、それは積極的ではなくても理解できる。しかし、犯罪被害の当事者でないものにとっては、死刑制度は抽象的な問題になりがちだと思う。だからこそ、とりあえずさんは一般的にあまり語られる事のない死刑の現場についても書かれたのだろうが・・・

死刑制度を廃止する為には、犯罪被害を受けた側が具象論としての死刑制度ではなく、罪と罰を抽象的な概念として、どれだけ捉えられるかに懸かってくるのではないか。そして、それはかなりしんどい精神的作業だと思う。

死刑制度は国家による殺人である。全くそうだ。しかし、そこに至るまでの思索の道が険しい。

ちなみに、現在、私はかつてのべストセラーで、今秋、何度目かのTVドラマ化が決定している三浦綾子の『氷点』を読書中である。ここ数年、個人的に「犯罪加害者の肉親」の存在を考えさせる社会的問題や事件が多数起こっているような気がするからだ。
そのことは、またの機会に書きたいと思う。