楽園 - 辺見庸の発言(4)

2006年02月01日 | Weblog
   辺見庸氏の発言第四弾。最後です。

【いつかは帰ろう、と心のどこかで念じて生きてきた。過労の果てに脳出血に倒れ、リハビリに励んでいるときも、いつかは戻ろうと願い続けた。どこに?それはわからない。ただ、「人間は帰ることを許されない。実際は人間は帰ることができないからである」という言葉が時折、遠音か幻聴のように聞こえてきた。脳出血で記銘の一部が散らばってしまったので、言葉の主や出典、コンテキストがはっきりしない。それでも、いつかは帰ろうと呟き生きてきたら、ある日、相当進行した癌であると告げられた。悪い癖で、私は大声で笑った。笑うしかなかった。本連載執筆中の出来事である。
私はリハビリをやめ、いつかは帰ろうと念じるのもやめにした。逝くしかないな、と独りごちた。そうしたら、おかしなもので突然、先の言葉についての記憶が少し回復した。楽園を追放された人間はそこに帰ることを許されない、という文章であった。楽園に戻れないなら、どこに行けばいいのか。エーリッヒ・フロムの「革命的人間」によれば、「歴史への道」に出ていくしかないのだという。なるほど。私に限らず誰しも、もはや楽園には帰れず、標ない道を倒れるまで前へ前へと進むほかないのである。
しかし、歩み続けるしかない歴史の道筋は人々の胸にどれほど意識されているのだろうか。とりわけ、重く病んだり熱い恋におちたり大枚を賭けたり死に瀕したりするとき、人は歴史の曲がり角の曲がり具合をしっかり感じることができるものかどうか。病や恋、お金に心のあらかたを奪われて、戦争も遥かな他者たちの死も眼中になくなるのではないか。哀しいかな、それが人間というものではないか。そう訝り、脳出血で倒れたとき、病床でわが身に問うてみた。右手足がひどく麻痺しているが、それでも改憲の動きに関心をもつか否か、と。
私は何より自由に歩けるようになりたかった。右手で箸を使い、字を書けるようになりたかった。正直、思いの大半はそのことに占められ、改憲の動きも自衛隊派兵についても病前ほどには意識しなくなった。「政治の幅は常に生活の幅より狭い」。ある文学者のアフォリズムを思い出し、わが身に引きつけて吟味してみたりした。個人の生活の重みは、病にせよ恋にせよお金にせよ、政治のそれを圧倒する。そのことを確かめ、しかし、さはさりながら・・・と口ごもった。半身の麻痺、無感覚に悩みつつも、やはり、歴史が大きくうねり曲がっているのを感じないではいられなかったからだ。
故岸信介首相はかつて「自衛隊が日本の領域外に出て行動することは一切許せません」と公言している。「海外派兵はいたしません」とも言明した。今、事態はどう変わったか。自衛隊は大挙してイラクに駐留し、憲法九条は、内閣総理大臣を最高指揮権者とする「自衛軍」を保持する、と改定されようとしている。さらに、「国際社会の平和と安全を確保するために」と称し、海外での武力行使も可能にするべく改憲作業が進んでいる。ガラガラと何かが崩れ、政治家の三百代言を指弾する論調は萎むばかりだ。
もっと麻痺を楽にしたい。右手で字を書きたい。箸を持ちたい。私の願いは切実である。だが、「政治の幅は常に生活の幅より狭い」などと嘯いてばかりもいられなくなってきた。もう楽園のような平和憲法の精神にたち戻ることができないかもしれないのだ。苛烈な歴史への道に、いま入りつつある。少し焦ってきた。そうしたら、今度は癌だときた。私は再びわが身に問うている。運命の苛烈さについてではない。病がここに至っても改憲に反対するか、と問い直しているのである。不思議だ。脳出血で死に目に遭ったときよりよほどはっきりと「反対だ!」と私は言いたいのである。
先日、内視鏡の写真を見せられた。赤茶けた腫瘍がいつの間にか全容を捉えきれないほど膨れていた。「長く放置していたからですよ」と医師が語った。恐らく、政治の癌もそうなのだ。生活の幅より狭いはずなのに、政治は生活を脅かしつつある。もう帰れない。どこに行くのか、思案のしどころだ。】

  ※管理人追記 本文中に“本連載執筆中”と出てきますので、どこかに掲載された
           文章を地元新聞社が転載したのだと思われます。辺見氏が進行
           した癌を患っていることは、私もはじめて知りました。複雑な心境です。
           なお、各々のコラムタイトルの一部は私が勝手に(笑)付けました。