『令和の民俗学』汐留一郎

日本のグランドデザインを考える

津軽

2020-01-17 11:31:00 | 東北
「津軽山地」
太宰治「津軽」で外ヶ浜から金木に戻るくだりがある。蟹田の魚港から定期船で青森市に移動し、青森から五所川原へは汽車で移動、川部駅で五能線に乗り換えが必要になる。

奥羽本線


蟹田から金木まで直線距離なら30キロ程度ですが昔の津軽山地は道路が整備されておらず迂回していた。
彼が帰省したのは運動会のシーズンであったが無雪期でもルートは険しかったのだろう。
蟹田から小泊を繫ぐルートは現在「やまなみライン」と名付けられ、バイクで絶好のツーリングコースになっている。

また青森〜五所川原間は川部駅で折り返しせずとも、梵珠山裾に津軽自動車道が延伸しているのであっという間に行ける時代になった。

青森市から陸奥湾、外ヶ浜に向かう街道沿いには軒の高さを競うよう、網元でなくとも瓦屋根の御殿が並ぶ。

津軽人の特性だろうか。遠方より取り寄せた資材を使い住宅の威容を競うのは斜陽館や吉幾三だけではないようだ。

太宰はこのやり過ぎてしまう姿を主に宴席の話しを挙げて記している。オーバードーズと迄は行かないが後日軽い自己嫌悪に陥入るのが津軽人の性情だそうだ。

しかしホタテやホヤがガンガン採れる津軽東岸と県庁青森周辺、津軽山地西側の津軽平野は県民性に違いがある。

弘前はいわずとも、つがる市などは平成の大合併で岩木川ひとつ越えれば五所川原であるにも関わらず、つがる市となり不満なんだそうだ。木造の辺りはどう見ても五所川原文化圏。

「川部駅」
青森から弘前に向かう列車は多いのだが五能線になると半分以下の本数になる。川部駅前、いまだに駅前旅館が2軒ほど残っていた。


旅先で足止め食って泊まる客、中央から一発勝負で稼ぎにくる新聞拡張員、温泉場に子供の玩具を卸す問屋、行商人、的屋、薬売り。
芸者を呼ばなきゃ安価に宿泊できる駅前旅館。

余談ですが東横インは現代の駅前旅館を目指しているそうです。だから支配人は女将、女性が指名される。

また津軽は平野ながら隠れた温泉王国でもある。泉質勝負、現地の人は宣伝して欲しくないのだろうと思う。浴場でトド寝の人もいた。

「生業と農業と」
太宰治の生きた時代の冬は吹雪と粗末な家屋。火源の囲炉裏は周囲の暖を確保するだけで兎角に寒い。
男は出稼ぎ、年寄りと細君は屋内で手作業。
それも身近で調達できる藁や竹を材料に籠やザルを編んでは僅かな現金収入に換えカツカツの生活をしていた。

時代が下っても地吹雪と雲天で10日もお天道様を見ないことはザラ。農作業もできず酒と些細な賭けで憂さを晴らすどん底の毎日。
圧倒的に短い夏、一気に爆発するねぶたを生み出す土壌になった。

「三内丸山遺跡」
青森の誇る偉大な縄文王国、三内丸山遺跡からは「縄文のポシェット」が出土している。
もちろん国宝であり青森が世界に誇れる傑作であると思う。

木製網籠 縄文ポシェット 縄文中期
縄文特別展 1万年の美の鼓動 図録より

どんな女性が身に付けたのだろう。
ドングリや栗の実を入れたり翡翠や黒曜石、もしかしたら夫からの贈り物、または早逝した子供の形見を大事に持ち歩いたかもしれない。

縄文時代は広葉樹の大森林と沼地に覆われた土地であったが岩木山を望む地にはストーンサークルも見られる。
稲作の拡大によって少しずつ見晴らしが良くなり明治以降はりんご畑がこれに加わる。

生活の基盤が変遷しても津軽人の津軽人としての意識を支えたのは美しき山容の岩木山であった。国土の歴史が縄文から弥生、律令体制、中世、近代と変わっても津軽人を支える心の軸は変わらない。農作業の合間、食い詰めた辛い生活の中で見上げればそこにあるのは岩木山であった。

鶴田付近からの岩木山


「東北新幹線はやぶさ」
みちのく弘前に桜と共に花開いた上方文化、弘前は美人が多いとも聞くが以下略。

長らく八戸終点の新幹線であったが、函館北斗まで延伸しアクセスは格段に向上した。
あれっと思う事は旅客は仙台で一回転するのだが、仙台から盛岡、青森、新北斗とそれなりに需要がある。

仙台を過ぎ岩手でも旧伊達藩のあたりからF1並みの320km走行となる。
「早いなあ」と感心しているとあっという間に新青森に到着する。



東京は近くなったと思いきや今でも出稼ぎする親父さんは多いそうだ。オリンピックの建設現場で北東北や札幌ナンバーのダンプカーを見たら出稼ぎの方だろう。

また製造業が海外に移管する以前は東京の手前北関東の工場で期間工という選択肢もそれなりにあった。

津軽人は酒飲みが多い。りんご酒もある。
工場周辺は娯楽も少ないから夜勤明けで酒を目一杯呑み始めるが次の勤務までに抜けている。
もっとも最近の事はしらない。

「津軽原人発見」
道路の整備もままならない時代。狭い国道を走っていると碇ヶ関の関所跡で素っ裸の男に出会ったことがある。人の顔をみて一目散に逃げ出したのですがいま思えば幻の津軽原人であったかもしれない。

津軽出身の女性にこの話しをしたら「そういう人は沢山いると思います!」

「やはり太宰抜きには語れない津軽」
太宰治が幼き日、養母タケに連れられ地獄絵図を見せられた寺院を訪ねた。絵を見た太宰は泣き出したと語っている。
太宰の津軽に対する愛憎、野蛮で狡知に足けながらも善良さを織り交ぜた津軽人、故郷への想い。

漱石は突き抜けたひとであった。芥川は密室で思考するひと。太宰と三島は気配りと配慮のひと。三島は太宰をとことん拒否したが同類の臭いがする。
太宰も三島もあまりにも出来過ぎたひとたち。
高い知性がなければ疑問を持たず平凡に生活できたのにと彼の著作を読むと想う。
それ故に太宰は偉大なる常識人、森鴎外の隣りに墓を建ててくれと願った。

故郷を愛しそして周囲に哀願し自尊心と馬鹿正直とまで言えるストレートさで自身を綴った太宰治。死後すでに70年以上経ても新たなる読者を生み出す。人間関係の苦悩に共鳴し彼のモラトリアムと金銭感覚を無視した生活。

「風土」
津軽半島西岸は鉄道もなく十三湖を始めとする低湿地帯、冷害と一毛作、年貢も取れないいわば打ち捨てられ土地。北前船の寄港地、十三湊が一瞬教科書に出てくる。津軽が鉱山や良港に恵まれれば発展の可能性もあったろうが。

「ツールド津軽」
ひまわり畑の陽光のなかツールドフランスという世界最大の自転車競技がある。
見通しのよい安定した大陸を峻険なアルプスを越え時速60キロの弾丸となって走り抜ける。

外ヶ浜から辺境の丘陵地帯を抜け竜飛岬へ。津軽西北の海岸は穏やかだ。雄大な岩木山とリンゴ畑を背景にいつか夏の陽光を受けて自転車で疾走してみたい。

長い道は悠々と歩くがいい、道草を楽しめれば更にいい
ポッキ温泉カレンダーより

「太宰治とはいったい?」
太宰の娘、津島裕子も一昨年鬼籍に入り純文学を読む人口も著しく減少している。しかしここ津軽にとっては太宰は切り離せない存在であることは確かである。

太宰治を知る為に津軽を訪ねる、津軽を知って太宰を理解する。リンゴ畑、岩木山、竜飛岬。
観光するには物足りない土地だろう。
でも私は一種アンビバレントな意識の変遷を自らの中に見つけることができる。

太宰のとことんまでのお人好しは、やはり典型的な津軽人であったし「別に人様に理解されなくてもいいやね」と沈黙の仮面を被って生きる津軽人の代弁者でもあった。

興味があるなら奥羽本線に乗っていただきたい
列車内、シートが埋まる程の乗客あれど、誰も一言も喋らず深閑としている。
喋っているのは女子高生か観光客くらい。

琉球人ならもっと開放的だし、関西人なら休まず喋り続ける。頭に来ても気に入らなくても文句を言わず列車内でレストランで黙って席を立つ東京人。やはり東京は東北の延長と思う。

津軽人が津軽に生まれ、与えられた条件のなかいまも逞しく生きる。ねぶたの熱狂する姿が津軽人なのか、沈黙のなかに諦観を含有する姿が津軽人なのか。津軽人に尋ねてみても微笑を浮かべるだけである。



墓参する者はいまも絶えない。津島修治はやはり「津軽人の代弁者であった」と思う。





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