Nikkoh の 徒然日記

ゲイ(=男性同性愛者)の Nikkoh が、日々の雑感やまじめなこと、少し性的なことなどを、そこはかとなく書きつくります

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ゲイ(男性同性愛者 / ホモセクシュアル)の Nikkoh が、徒然なるままにいろいろ書いてます。
マスキュリズム / メンズリブ にも関心があり、調べたり考えたりしています。
※ マスキュリズム(masculism) = 男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動。フェミニズムの対置概念とされますが、僕は、並置概念と言いたいと思っています

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《 ご理解ください 》
・ ここのブログは同性愛者が運営しており、同性愛の話題がたくさん出てくるブログです。また、管理人はマスキュリズム / メンズリブ にも関心を持っており、それらに関する記事も多いです。その点をご承知の上でご覧ください。(各人の責任で、読む記事を取捨選択してください)

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【お知らせ】note での投稿について

2023-07-30 20:50:43 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
マスキュリズム(男性差別撤廃のための思索)についての記事を、長らくこのブログにて投稿してきましたが、
今後は note にて投稿してまいります。
こちらのブログへは、今後の新規記事は掲載しません。これまでの僕の発信に興味関心を持ってご覧いただいていた皆さまは、ぜひ note のほうをご覧くだされば幸いです! 


Nikkoh|note

マスキュリズム(男性差別撤廃のための思索と運動)の左派。特に、生命・健康の問題,体力の問題,性的羞恥心軽視の問題等に関心がある。ガラスの地下室へ押し込められた男...

note(ノート)

 


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国際男性デー 2022

2022-11-20 21:17:41 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
11月19日 は、国際男性デー(International Men's Day) でした。

( 関連ワード : 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動 )





国際男性デー(IMD)は、男性・男児の健康と幸福を祈念する日 です。
日本ではほとんど知られていませんが、多くの国でこの日の存在が知られています。 

ジェンダー平等の実現のためには、"男性差別" の撤廃が欠かせません。しかし、"男性差別" は見えざる差別であり、まずは "可視化" が必要です。ガラスの地下室へ押し込められ、生命を軽んじられて使い捨てられる男性の現状を、この社会は直視するべきです。  

このブログでは、これまでマスキュリズムについて数多くの記事を執筆してきました。マスキュリズム(masculism) とは、男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動 を指します。男性の被害者としての側面や、男性の苦しみに着目していく思想や運動です。よく、フェミニズムの対置概念とされますが、僕は、並置概念と言いたいと思っています。男性解放運動と女性解放運動は 車の両輪 です。マスキュリズムとフェミニズムも 車の両輪 です。片方だけでは、脱輪してしまいます。必ず、揃っていなければならないし、揃っていてこそ意味があるのだと思います。
対置概念(あるいは並置概念)であるフェミニズムとマスキュリズムですが、双方の間には歴然とした力の差があります。マスキュリズムは、宿命的にきわめて大きな困難を抱えているのです。
第1に、影響力が圧倒的に違います。フェミニストと比べて マスキュリストは圧倒的にマイノリティ です。これは、「フェミニズム」という語と「マスキュリズム」という語の社会での認知度を考えれば、明らかでしょう。あるいは、刊行された書籍の数を見てもその差は歴然としています。また、「国際女性デー」が記されているカレンダーは見かけますが、「国際男性デー」が記されているカレンダーを見たことがありません。国際連合のサイトでも、国際女性デーは掲載しているのにも関わらず、国際男性デーは掲載されていないのです。また、フェミニズムは行政にも大きな影響を与えていて、多くの自治体が施設を建設したり、政策を実行したりしています。それに対して、マスキュリズムはまず存在の認識すらされていないのが現状です。
第2に、理解の得られやすさが異なります。男性の被害 と 女性の加害 は、逆の場合と比べて理解されづらい のです。「女性はか弱く、保護しなければならない」との素朴な社会通念が存在しています。女性の被害 と 男性の加害 については、この通念と適合しますので、ごく自然に理解できる人が殆どでしょう。ところが、男性の被害 と 女性の加害 の場合は通念と適合しないため、どうしても違和感を持ってしまう人も多いのだと思います。
第3に、所謂“正しさ”の縛りがあります。マスキュリズムの考え方そのものが、“正しくない”ものとしてバッシングを受けることがある のが現状です。教条主義的なフェミニズムや、その主義・思想を土台としたメンズリブなどが、性差別やジェンダーの問題への取り組みのマジョリティとして、大きな影響力を持ちました。そのため、「女性が被害者であり、一方的に男性から支配・抑圧されている」或は「男性は加害者であり、一方的に女性を支配・抑圧している」というイデオロギー が、“正しい”ものとして根付いてしまいました。これを前提とすると、男性の被害 や 女性の加害 に着目するマスキュリズムは、その存在そのものが正しくないということになってしまうというわけです。
こうしてみてみると、マスキュリズムとは極めて困難なものだと改めて思わざるを得ません。しかし、その必要性を疑う余地は無いと思います。社会はじわりじわりと変化していきます。その中で、一歩ずつ前進していくことを願うばかりです。

マスキュリズムをテーマとした映画『The Red Pill』があり、国際男性デーに合わせて東京で上映会が開催されました。




主催者は僕とつながりのある方で、僕も微力ながら運営に協力させていただきました。また、来場者の皆様に記念冊子を頒布させていただきました。(当初は小規模なパンフレットの予定だったのですが、原稿をまとめていったら62ページにも及ぶ冊子になってしまいました)



とにかく一人でも多くの人にこの問題を知って欲しいし考えて欲しいと、心の底から願っています。映画の上映会や講演会、読書会などの開催を重ねていけたらと考えています。

PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)には、御田寺圭さんのコラム『「男性は何かをする必要がある」 ジェンダー平等を謳いながらそんなツイートをする国連女性機関の時代錯誤 ~「男女平等」を強く求めつつ「女性を守るのは男の役割」と語る矛盾~』が掲載されています。核心を突いた良記事だと思いますので、未読の方はぜひお読みください。

「男性は何かをする必要がある」ジェンダー平等を謳いながらそんなツイートをする国連女性機関の時代錯誤 「男女平等」を強く求めつつ「女性を守るのは男の役割」と語る矛盾

国連女性機関が10月半ばに発信したツイート「男性は何かをする必要がある」が炎上した。なぜ男性は猛反発したのか。文筆家の御田寺圭さんは「世の多くの男性にはすでに男女...

PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 


また、茂澄遙人さんの『統計情報で見る男性差別 ~無視され使い捨てられる男性の命~』もたいへんよく現状をとらえており、必読だと思います。男性の生命が、女性と同じくらい大切にされる社会を実現しましょう。繊細な感受性をもった男性が、自分らしく健やかに嫋やかに生きていける社会を………。 

統計情報で見る男性差別 無視され使い捨てられる男性の命

性差別は男性にとって生き死にの問題である。男性が社会から期待される性役割(ジェンダーロール)は、男性を過酷な環境に追いやり、男性の命を危険にさらしている。この記...

茂澄遙人

 
 

マスキュリズムに関する書籍としては、まず 『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』(ワレン・ファレル著,久米泰介翻訳,作品社)をお読みください。
この本は、およそ20年前のアメリカで出版された本の翻訳です。原著は、Warren Farrell の "The Myth of Male Power" であり、本書はそれを(一部の章を除いて)日本語訳しています。原著者のワレン・ファレル氏は、アメリカの社会学者で、マスキュリズムの大御所のような人物です。男性の被害者性や男性の苦しみなどにきちんと光を当て、そこからの解放を目指しています。本書で彼は、男性も社会の中で差別されているという事実を、様々な具体例やデータによって提示しています。本書を読むことで、これまで見えていなかった〈 男性差別 〉、あるいは、男性の弱者性,脆弱さ,被害者性などが、鮮明に見えてくるでしょう。アメリカでは30万部を売り上げてベストセラーになったこの良著は、(悲しいことでもあるが)今でも色あせていません。本書が、多くの人の目に触れることを願いたいです。

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"特権" の定義づけの偏りにより、男性差別は見えざるものとなっている

2022-09-23 17:19:34 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
まず、"特権" について書かれた記事を1つお読みください。NHKのサイトに掲載されていた記事です。

あなたは優位な立場かもしれない 気づきにくい“特権”とは - 記事 | NHK ハートネット

あなたは優位な立場かもしれない 気づきにくい“特権”とは - 記事 | NHK ハートネット

進学、引っ越し、買い物、就職、昇級・・・暮らしのさまざまな場面で「自分はなにごともなく実現できたのに、ほかの人は苦労していた」ことがありますか。それは、個人の努力の...

NHK福祉情報サイト ハートネット

 
 

アメリカのいわゆる社会公正教育(social justice education)の文脈では、
“特権”(privilege)というのを、

マジョリティー側の属性を持っていることで、労なくして得ることができる優位性」
と定義づけているようです。 
日本の左派、反差別・人権擁護・福祉を謳う学者や運動家らも、だいたいこの認識なのでしょうね。 
そして、「男性」を一括りにして「マジョリティ側」へ位置付けてしまっています。
このことが、男性差別(男性に対する権利侵害,男性の被害,女性の加害)を見えざるものとしている諸悪の根源だと思います。

「マジョリティ側の属性を持っていることで」などという制約を定義に入れていることが問題 です。
この定義を採用している限り、マイノリティ側とされた属性の持つ "特権" は絶対に認識されません
現実には、マイノリティ側に割り振られた属性にも、「労なくして得ることができる優位性」があります。
少なくとも男女に関しては、そうです。
女性にも "特権" が確かにあります。たとえば、性的羞恥心に対する配慮を受けやすかったり、さまざまな被害を訴えたときに男性と比べて救済されやすかったり、危険な労働から遠ざけられる等の生命・健康面への配慮が受けやすかったりします。徴兵制のある国のほとんどが男性のみを対象としており、国家権力により武器を持って戦うことを強要されることとも無縁でいられます。まだまだ他にも、「女性であるがゆえに(男性と比較して)労なくして得ることができる優位性」は見つかると思います。 
しかし、"特権" の定義づけが偏っていることにより、これらはすべて "特権" として認識されることが無い のです。
マスキュリズム運動を進めていくにあたっては、この点を徹底的に糾弾していく必要があると思います。

"特権" は、自分ではなかなか気づけないものであり、無自覚であることが多いものです。
これはそのまま女性の "特権" にも当てはまります。
フェミニズムの運動の中で、この社会は "男性特権" を認識してきましたが、同様にして、マスキュリズムの運動の中では "女性特権" が認識されていくことになるでしょう。
 
私見を述べれば、男性にも女性にもそれぞれに "特権" があると思っています。 
そして、男性も女性も多様性の幅がきわめて大きく、自分の性に割り振られた "特権" をどう感じるかも多様です。人によっては "特権" とは感じずに、"重荷" や "足枷" のように感じるものです。
それを一緒くたにして、"男性" と "女性" に括って議論してしまうことが、そもそも乱暴であると考えます。
多様性を謳う左派が、男女問題の議論で "男性" の多様性を完全に無視しています。おかしな話だと思いませんか。

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戦争末期の満州で女性たちにより自殺に追い込まれた男性

2022-08-16 16:48:25 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
まず、新聞記事をご紹介します。 

満州からの避難列車、日本人女性たちから責められた日本人男性…自殺に追い込まれるのを見た
読売新聞 2022/08/15 17:41  

1932年に現在の中国東北部に建国され、多くの日本人が移り住んだ満州国。小学生の頃に現地で暮らし、終戦の前後にソ連軍の侵攻から逃れて鳥取県米子市に引き揚げた安本明功さん(88)(米子市)にとっても、忘れられない季節になった。広島、長崎への原爆投下や沖縄戦と同様、多くの命が失われた満州侵攻について「より多くの人が知り、後世に語り継いでほしい」と感じている。(東大貴)
安本さんは米子市の小学生だった44年春、戦局の悪化に伴う米軍の攻撃に備えて、満州の観測所長だった父・清三さんの後を追い、西部のアルシャンに移り住んだ。家族4人で観測所に併設された家で暮らしたが、食べるのに精いっぱいだった日本での生活とは一変。現地の手伝いの人が靴を磨き、登校の際には荷物を持ってくれた。「不自由のない暮らしだった」
ところが、45年8月上旬のある日、観測所そばでソ連軍の攻撃とみられる爆撃があった。「6日午前10時頃」と記憶している。翌日、仕事を続けなければいけない父を残して、家族で着の身着のまま列車に飛び乗った。ソ連軍によって壊滅状態となった街を抜け、10日余りかけて現在の韓国・釜山にたどり着いた。そこから少し横に傾いた古くて大きな船に乗り、島根県中部の江津(ごうつ)市へ。鉄道を乗り継いで8月22日、米子に戻った。
一方、アルシャンに残った父は観測所の機密文書を燃やすなどしていたが、ソ連軍に捕らえられた。その父は終戦から2年余りたった頃、ぼろぼろの服とやせこけた姿で米子に帰ってきた。突然のことでぼう然としていると「(自分がいない間は)金がないのに学校行けたか」と聞かれた。亡くなったと思っていた父が戻ったうれしさに、その日は一人布団にくるまって泣いた。 
2年間のことは語らなかったが、ソ連で強制労働をさせられたのだろう。体は弱っていた。土木作業などの職を得たが、体がもたず仕事は長続きしなかった。一家の生活は苦しかったという。
ロシアに侵略されるウクライナの惨状を見るたびに、77年前の記憶が重なり胸が痛む。

満州では戦争末期、成人男性はほとんど軍に召集されていた。
「満州から列車で避難する際、紛れ込んでいた日本人の成人男性が同じ日本人の女性たちから責められ、自殺に追い込まれるのを見た。現地では民間人の多くが犠牲になった」 と安本さん。

「今の若い世代で満州で何があったかを知る人は少ないと思う。無実の人を犠牲にし、不幸に陥れる歴史を繰り返してはならない」 
悲惨な戦争を知る者として、語り継ぐ大切さをかみしめている。


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引用はこれで終わりです。
「満州から列車で避難する際、紛れ込んでいた日本人の成人男性が同じ日本人の女性たちから責められ、自殺に追い込まれるのを見た」
というところ、聞き捨てなりません。 

平時の今と戦時下の当時を単純に比較はできないのかもしれませんが、こんなことがまかり通って良いのかと、憤りと悲しみが止まりません。 
国のために戦うこと(武器を持って敵軍と対峙し、殺戮を行うこと)を国家権力によって強いられることの100%ない "特権" を享受している女性が、そのことを意識もせずに、その "特権" の上に胡坐をかいたままで、男性の心身を蹂躙しています。
私はどうしても許せません。

そして今、ウクライナの地では同じようなことが起こっているのではないでしょうか?  
遠く離れた日本からでは真実はわかりませんが、そんな気がしてなりません。 
(注:ロシアによる軍事侵攻以後、ウクライナでは成人男性の出国が禁じられている。国民皆兵ということである) 

国外避難できたとしても、いばらの道であることは事実でしょう。 
しかし、女性には「ア.国のために戦う  イ.国外へ逃亡する」という選択肢が開かれている(どちらも苦難の道だとしても)のに対して、男性には「国のために戦う」という以外の選択が許されていない というのは、差別以外の何ものでもありません。許されざることです。 
保守系の人たちがこういうことを推し進めてくるのは、論理的整合性がとれているともいえますが、リベラルも全く問題視せず、むしろなんだかんだと詭弁を弄して増長するありさま。狂っていると思います。

まともなリベラル(?)がたくさん出てきてほしいものです。

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国際男性デー 2021

2021-11-19 07:14:54 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
11月19日は、国際男性デーです。 
ジェンダー平等の話題で俎上に上がるのは、女性のことばかり。 
男性もたくさんの抑圧を受けています。この社会は、決して《男性優位》などではありませんし、男性だけが特権を持っているわけでもありません。 
男性の生命や健康や性的羞恥心は、女性のそれと比べて軽んじられています。徴兵制のある国では、今なお男性だけが国家権力により強制的に兵役に就かされています。軍隊組織は大抵の場合は不健全で、物理的・精神的な暴力に満ちています。そういう組織へ、強制的にぶち込まれます。 
男性は、体力的に女性よりも優位であることを期待されます。たとえ、女性の平均以下の体力しかなかったとしてもです。スポーツが苦手な男子は、少年期に自尊感情が伸びにくくなります。 
男性は、経済的に女性よりも優位であることを期待されます。猛烈に働いて金銭を稼ぎ、妻子を養う役割を(既婚男性は)担わされます。男女間の賃金格差は、男性がこの役割を押し付けられていることの裏返しでもあります。家族を扶養している分については、人数割でもして吟味しなおすべきでは無いでしょうか?  
本人の意志によらず勝手に割り振られるのが性役割です。ジェンダーの不均衡のため、男性も女性も抑圧されていますし、時には利益を得ています。 
ジェンダー平等の実現のためには、まずその認識が必要だと思います。女性だけでなく男性の被害者性にも目をしっかりと向け、フラットにものごとを捉えていくことが、必要だと思います。

国際男性デー2014 - Nikkoh の 徒然日記

国際男性デー2014 - Nikkoh の 徒然日記

来たる、11月19日は、国際男性デー(InternationalMen'sDay)です。(関連ワード:弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運...

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国際男性デー 2015 - Nikkoh の 徒然日記

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来たる、11月19日は、国際男性デー(InternationalMen'sDay)です。(関連ワード:弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運...

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国際男性デー 2015

2015-11-15 21:24:12 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
来たる、11月19日 は、国際男性デー(International Men's Day) です。

( 関連ワード : 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動 )





国際男性デー(IMD)は、男性・男児の健康と幸福を祈念する日 です。
日本ではほとんど知られていませんが、多くの国でこの日の存在が知られています。

※ IMD について詳しく知りたい方は、wikipipedia(日本語版)wikipedia(英語版)も参考にしてください。



参考動画 『What are mens issues 男性の問題とは何だろう?』
(英語ですが、CCと書かれたところをクリックして日本語字幕を表示できます)



註:以下、昨年書いた記事とほぼ同じですが、新たに加筆した部分が少しあります。

■ 男性の生命、男性の尊厳

日本では男性と女性の平均寿命には、およそ6年半の開きがあります。この差は、戦後ずっと拡大し続けてきました(ここ数年は少しだけ縮小傾向もみられるようです)。



※ 平均寿命の男女差については、[IMD記念ミニ連載] 男性と女性の平均寿命の差について(2013年11月14日公開)をご覧ください。

年齢別の死亡率を男女で比較すると、15歳まではさほど差はないものの、それ以上では一貫して男性の方が高率となっています。

※ 死亡率については、[IMD記念ミニ連載] 年齢別生存数の男女差について(2013年12月15日公開)をご覧ください。

いずれにせよ、男性の健康問題は、実はかなり大きな問題なのではないか。そんなことを思います。

古来より、男性の身体や生命は、女性の身体や生命に比べて乱暴・粗末に取り扱われてきました。
このことは、現代となってもさほど変わっていないと思います。

人間社会の構造として、そうなってしまっているのですよね。もはや慣習のレベルで。無意識のうちに、そうなっているわけです。
僕としてはこのままで良いとは思っていません。

力仕事や危険な仕事は男性がやるものと決めつけていませんか。
男性と見れば、「力仕事担当の人」とか「重たいものを持ってくれる人」といった目で見てくる女性の存在は、僕のような虚弱な男性にとっては苦痛です。
男性にだけ力仕事をさせたり重たいものを持たせたりする、キツイ仕事を背負わせようとするマッチョな男性の存在もまた同様です。
もちろん、こうした仕事も必要なものなので、誰かがやらなければならないことです。
でも、一律に男性のみが背負うのではなく、適性のある人を中心に、みんなで協力してやるのが本来だと思うのですが、どうでしょう。

※ 参考記事 : 体力の男女比較 ~〈 手弱男 〉の存在を可視化する試み~(2014年7月20日公開)

(徴兵制を敷いている国の大半は、男性のみを徴兵しています。これも同じような構図です。国家による強制力を伴うので、より大きな問題だと思います。僕はもし徴兵制のある国に生まれていたなら、発狂していたかもしれません。これは至極真面目な話です。僕は軍隊は必要だと思っていますが、志願制であって欲しいです。意欲と適性のある人に軍務について欲しいのです。男女は問わず)

男性に対する暴力や粗末な扱いを当たり前のことだと思っていませんか。
暴力問題についての話が出てくると、「女性に対してでも手を上げる」とか「女性にでも容赦なく」とかいうフレーズを聞かされますが、これは言外に男性への暴力は女性への暴力より罪が軽い(重大な問題ではない)というニュアンスを含んでいるように思えてなりません。
対・男性であろうと、対・女性であろうと、暴力は暴力です。誰に対しての暴力であろうとも、許されざることです。

※ 参考 : カテゴリ【 暴力等の被害男性のこと 】

また、いくらデリカシーを欠いた粗末な扱いをされたとしても、黙って耐えることを強いていませんか。
何か訴えても、「男なんだからガマンしろ」の一言で終わらされるのは辛いことですよ。

※ 参考 : カテゴリ【 性的羞恥心のこと 】

男性でも女性でも、生命の重さは同じです。人間としての尊厳も同じです。
僕は、「偶然にして男性に生まれたから」というだけで辛い思いをする人が、1人でも少なくなることを祈っています。

■ 《 男性差別 》について

《 性差別 》というのが、性別に基づく差別 だとすれば、そこには《 男性差別 》と《 女性差別 》が存在していることになります。
性差別に関する研究や運動が、フェミニズムや女性解放運動とともに広まったという経緯もあり、「性差別というのは女性差別のことを指す」という認識を持っている人も、もしかしたら多いのかも知れません。しかし、僕はそれは少し違うと考えています。

男性差別と女性差別は、言うなれば コインの両面 のようなものであって、女性差別と名付けられた事象にはたいてい男性差別が付随していると思います。
性差別を無くすためには、真の意味で男女平等を実現するためには、男性差別と女性差別のいずれにも対処していくこと が不可欠です。

《 男性差別 》の具体的な内容ですが、例えば以下のようなものがあるのではないかと、今の僕は考えています。

1.生命が軽んじられていること(危険な仕事への従事,徴兵等)
2.犠牲や我慢を強いられること(救助での優先順位,レディファースト等)
3.体力的に女性より高水準であることを期待されること
4.経済的に女性より高水準であることを期待されること
5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと
6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること(更衣室が無い,裸の強制等)
7.法律や制度の不均衡があること(父子家庭や寡夫の扱い等)
8.自動的に〈加害者〉認定されて排除されること(女性専用○○等)


数はきわめて少ないものの、男性差別や男性問題のことを取り上げた書籍などを見ると、概ねこうした問題に触れられているように感じます。例えば、我が国における男性学の先駆となった、渡辺恒夫の『脱男性の時代』では、【1.生命が軽んじられていること】や【2.犠牲や我慢を強いられること】についての言及が見られます。國友万裕の『マッチョになりたい!?』では、第1章 マスキュリズムと男性差別 において、【3.体力的に女性より高水準であることを期待されること】に関する記述がみられました。

インターネット上では、【4.経済的に女性より高水準であることを期待されること】や【8.自動的に〈加害者〉認定されて排除されること】に対する声が大きいようです。特に、商業施設等における女性限定サービスの実施や、鉄道車両における女性専用車両についての言説は目にすることが多いです。より広範な人々にとって、身近かつ当事者性の強い問題だからでしょうね。
(僕も、女性専用車両についてはかなり懐疑的なスタンスです。詳しくは、女性専用車への疑問続・女性専用車への疑問 をお読み下さい)

DVや性的虐待などの男性被害者についても、以前よりは少しは配慮されるようになってきたようです。マスコミで取り上げられることもたまにあります。しかし、【5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと】や【6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること】の問題は、かなり根深いと僕は思っています。

また、【7.法律や制度の不均衡があること】については、時折ニュースを目にすることがあります。少しずつですが、改善されていく方向にはあるようです。

1.から8.まで、もちろんどれも大切な問題です。ただ、人によってどこにより重点を置くかは変わってくるかもしれません。
僕の場合は、体力に関するものや心身の健康に関するものに最も重点を置いています。【1.生命が軽んじられていること】や【3.体力的に女性より高水準であることを期待されること】や【5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと】ですね。
また、性的羞恥心の問題(【6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること】)についても、同じくらいの力をかけています。

《 男性差別 》についての研究は、我が国においては、まだまだこれからだと思います。既に《 男性学 》と名付けられた学問はあるのですが、残念ながら不十分なものだと僕は考えています。
既存の男性学や男性運動は、所謂、〈 メイル・フェミニスト 〉たちによる運動が大半という印象があります。かれらは女性問題には強い関心を示す一方で、男性問題に対しては関心を持たず、むしろきわめて冷酷です。言い換えれば、男性の加害者性と女性の被害者性の部分にのみ着目していると言えます。ところが実際には、男性にも被害者性があり、女性にも加害者性があります。被害と加害はコインの両面のようなものだからです。したがって、男性の被害者としての側面や、男性の苦しみにも着目していくことが求められる と思うのです。

■ マスキュリズムとは?

男性の被害者としての側面や、男性の苦しみに着目していく思想や運動も、西欧や米国などにはすでに根付いているようで、マスキュリズムとよばれています。

マスキュリズム(masculism) とは、男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動 を指します。

よく、フェミニズムの《 対置概念 》とされますが、僕は、《 並置概念 》と言いたいと思っています。

男性解放運動と女性解放運動は 車の両輪 です。マスキュリズムとフェミニズムも 車の両輪 です。
片方だけでは、脱輪してしまいます。必ず、揃っていなければならないし、揃っていてこそ意味があるのだと思います。

別の喩えをすれば、マスキュリズムとフェミニズムは、酸性とアルカリ性 みたいなものなのかもしれません。
酸性の 塩酸 と アルカリ性の 水酸化ナトリウム水溶液 を混ぜ合わせれば中和されて、中性の 塩化ナトリウム(食塩)水溶液 が出来ます。
塩酸や水酸化ナトリウムが劇物であるように、マスキュリズムもフェミニズムも、単体では劇物だと思います。
しかし、フェミニズムも、マスキュリズムと混ぜ合わせることで、見事に中和されることでしょう。

■ マスキュリズムが宿命的に抱える困難さ ~マスキュリストはマイノリティ~

フェミニズムとマスキュリズムは対置概念(あるいは並置概念)ですが、双方の間には歴然とした力の差があります。
マスキュリズムは、宿命的にきわめて大きな困難を抱えているのです。

第1に、影響力が圧倒的に違います。フェミニストと比べて マスキュリストは圧倒的にマイノリティ です。
これは、「フェミニズム」という語と「マスキュリズム」という語の社会での認知度を考えれば、明らかでしょう。あるいは、刊行された書籍の数を見てもその差は歴然としています。また、「国際女性デー」が記されているカレンダーは見かけますが、「国際男性デー」が記されているカレンダーを見たことがありません。
フェミニズムは行政にも大きな影響を与えていて、多くの自治体が施設を建設したり、政策を実行したりしています。それに対して、マスキュリズムはまず存在の認識すらされていないのが現状です。

第2に、理解の得られやすさが異なります。男性の被害 と 女性の加害 は、逆の場合と比べて理解されづらい のです。
「女性はか弱く、保護しなければならない」との素朴な社会通念が存在しています。女性の被害 と 男性の加害 については、この通念と適合しますので、ごく自然に理解できる人が殆どでしょう。
ところが、男性の被害 と 女性の加害 の場合は通念と適合しないため、どうしても違和感を持ってしまう人も多いのだと思います。

第3に、所謂“正しさ”の縛りがあります。マスキュリズムの考え方そのものが、“正しくない”ものとしてバッシングを受けることがある のが現状です。
教条主義的なフェミニズムや、その主義・思想を土台としたメンズリブなどが、性差別やジェンダーの問題への取り組みのマジョリティとして、大きな影響力を持ちました。そのため、「女性が被害者であり、一方的に男性から支配・抑圧されている」或は「男性は加害者であり、一方的に女性を支配・抑圧している」というイデオロギー が、“正しい”ものとして根付いてしまいました。
これを前提とすると、男性の被害 や 女性の加害 に着目するマスキュリズムは、その存在そのものが正しくないということになってしまうというわけです。

こうしてみてみると、マスキュリズムとは極めて困難なものだと改めて思わざるを得ません。
しかし、その必要性を疑う余地は無いと思います。
社会はじわりじわりと変化していきます。その中で、一歩ずつ前進していくことを願うばかりです。

最後に、マスキュリズムについて情報を得たい方のために、参考となる書籍やwebサイトをご紹介します。
書籍・webサイトの紹介(弱者男性問題・男性差別問題・女災関係) に一覧を掲載しておりますので、ご活用下さい。

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マイク・アダムスの憤り

2015-02-19 15:50:31 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
マイク・アダムス(M・アダムス)の名前は、このブログの記事で、これまでに何度か登場しています。
彼は、僕に大いなるカタルシス効果を与えてくれた、『氷河期の子ども』(フランシス・バウムリ編著“Men Freeing Men”に所収されている一篇)の執筆者です。
“Men Freeing Men”は1991年に下村満子氏によって日本語訳されています。残念ながら現在では絶版となっていると思われますが、古本を入手するか、図書館等で読めるかもしれません。

正しいオトコのやり方―ぼくらの男性解放宣言
フランシス バウムリ (著), 下村満子 (翻訳)
学陽書房


『氷河期の子ども』の内容をご紹介したいと予てから思っています。しかし、その本文は、30頁にわたります。
全米男性会議についての記事 のように連載にしても良いのですが、もう少しコンパクトに要旨を伝えたいという思いもあります。

実は、マイク・アダムスの名前は、別の書籍の中にも登場します。
それは、“Men Freeing Men”を日本語訳した下村満子氏の著書『男たちの意識革命』です。1980年代の初頭、朝日新聞のニューヨーク特派員だった下村氏が、現地で取材を重ねつつ書いた貴重な本となっています。こちらも残念ながら現在では絶版です。

男たちの意識革命 (朝日文庫)
下村満子
朝日新聞社


この本の182頁から196頁まで、『根底に流れるレディーファースト体験への怒り』という一節があるのですが、その後半部分にマイク・アダムスが登場しています。
その部分は文庫本で5頁ほどであり、手頃な分量になっています。そこで、今回はその内容を紹介してみようと思います。

マイク・アダムスはどんな憤りを抱いたのか。詳しくは『氷河期の子ども』を読む必要があると思います。ここでは、その大枠だけでも伝われば幸いです。

「“自由な男”連盟」のメンバーの一人マイク・アダムスは、「少年時代からずうっと彼を悩ませ続けてきた抑えがたい憤りの感情について、こう告白した」

《あれは九歳のときでした。ある日曜日、ぼくたち一家は、隣人一家と一緒に教会へ出かけました。
母や姉や隣のおばさんたちの後ろを、父や隣のおじさんやぼくたちが歩いていました。ぼくはエネルギーがあり余っている年ごろで、歩くのがもどかしく途中から走り出したのです。当然前の女性たちを追い抜く形になったのですが、そのとき、父は恐ろしい顔でぼくの腕を引っぱり引きもどし、いやというほどなぐりました。
「レディーたちの前に出るなんて、おまえはなんというやつだ! 男というものは、レディーの一歩うしろから歩くものなのだ。これから決してこんなことをしてはいかんぞ!」
父は大声でぼくをどなりつけ、再びぼくの首根っこをつかんでこづきました。
そのとき、一瞬ぼくの心を二つの疑問がよぎりました。
「なぜ男は女のうしろを歩かなければいけないのか。それになぜパパは、ぼくにこんなひどい体罰を加え、姉さんには決してそうしないのだろう」
以来ぼくは、男であるということで人がぼくに期待する、あらゆることがらを憎むようになりました。
女性のためにドアを開けること、椅子を引くこと、コートを着せたり脱がせたりすること、女性が部屋に入ってくるや起立して迎えること、などなど。「レディーファースト」と呼ばれるすべての習慣を、ぼくは憎むようになったのです》


この9歳の時の出来事が、彼の心の奥底にずっと刻み込まれているのでしょうね。
男であるということで人がぼくに期待する、あらゆることがらを憎むようになりました。 というところ、ぜひ噛みしめてください。

“女であるということで人が期待する、あらゆることがらを憎む”人がいます。それと同じように、“男であるということで人が期待する、あらゆることがらを憎む”人もいるのです。

筆者である僕自身にも、似たような思いがあります。僕の性自認は男性であって、男らしくありたい と思っています。ただ、それは他者や社会に期待される(強要される)男らしさに副うということではありません。
「男だから○○しろ」とか「男だから××するな」とか、そういう縛りの多くは僕にとっては苦痛です。おそらくですが、マイク・アダムス氏も同じような感覚を抱いていたのだろうと思います。

※ よく男の《特権》と称されることの多くは、実は、他者や社会に期待される(強要される)男らしさなのではないでしょうか。事実、僕にとってはそれらの《特権》の多くは《苦痛》でしかないのです。

ここでは、もう一つの問題が提起されています。それは、罰せられるということについての問題です。
同じことをしても、男性と女性では罰せられ方が違うということが、現実としてあると思います。
男児と女児が同じ“悪さ”をしたとき、2人は必ず同じように罰せられるのでしょうか? あなたはどう思いますか?
男性と女性が同じ犯罪を犯したとき、2人は必ず同じように罰せられるのでしょうか? あなたはどう思いますか?

この件については、『男性権力の神話』で多く触れられています。詳しくは、本記事の末尾をご覧ください。

では、続きを読み進めることにしましょう。
さらに成長したマイク・アダムスを、どのような運命が待ち受けていたのでしょうか。

マイクはその後、 高校のレスリングの実習を拒否して落第する。レスリングは性に合わなかった。だが、先生は「男になるために必要なのだ」と強要した。
マイクの心の奥にひそむ女性に対する反感と拒絶は、日に日に深くなっていった。ベトナム戦争が始まってからは、その感情はいっそう強いものになった。友人たちは、いつ召集令状がくるかとビクビクしていた。

《ぼくらはみんな、ベトナムへ行って死ぬか、兵役を拒否して刑務所に入るか、カナダなどに亡命するか、その三つの一つの選択 しかなかった。が、同年の女の子たちは、 結婚するか、大学へ進むか、就職するか、その他いくつもの、それもバラ色の人生の選択 が許されていました。
しかし、女性に対するそうした敵意や嫌悪と並行して、ぼくの中には、女性への抑えがたいロマンチックな感情と欲求が燃えあがり、この二つの相矛盾した気持ちのはざまで、心と体がまつ二つに引き裂かれる思いでした。ぼくはそのことで、罪の意識に悩みました。そんな屈折した状態では、女の子との関係もうまくいくはずがなく、ガールフレンドにはふられ、自暴自棄になりました。
学校の成績は下がり、ついに登校を拒否し、不良少年の仲間入りをし、退学処分になったのです》

マイクの人生は、こうして大きく狂っていく。職を転々とし、結婚に三度も失敗し、 多くのアメリカ人にとってお定まりコース、精神分析医通いが始まる。


高校時代のことについては、『氷河期の子ども』で詳しく記述されています。大切な部分なので、いずれそちらを紹介してみようと思います。ここでは、ごく一節のみ、引用しておきます。

これが1968年のぼくだった。新聞の見出しを毎日飾るベトナム戦争は、これから人生の一番いい時期をむかえるぼくには恐怖だったし、性の問題について週に3度は考え込み、傷ついていた。その上、レスリング用のウェアを着て男子のロッカールームを出るべきかどうかで頭を悩ませなければならなかった。それなのに、女子が同じめに合わなくてもよいということに深い怒りを持った。彼女たちが直接悪いわけではないとわかっていたが、この怒りは当然だ。なぜなら彼女たちはぼくの人生におけるすべてのいやなことから解放されているのだ。もちろん、彼女たちはぼくにない女性としての問題を抱えていたが、こちら側から見ると隣の芝生は特に青く見えたのだ。(『正しいオトコのやり方』p.210)

ところで、日本の高校でも、1993年頃まで、男子生徒は女子生徒より多くの体育の授業を受けなければなりませんでした。普通科全日制の多くの高校の場合、男子は3年間で11単位,女子は3年間で7単位に設定されていたと思われます。これは、女子のみ家庭科が必修であったことの裏返しでもあります。「女子だけが家庭科を押し付けられていた」と言う批判が成り立つのならば、「男子だけが4単位も多く体育の授業を受けさせられていた」と言う批判もまた成り立つでしょう。
なお、この増えた時間数は、柔道や剣道などの武道の授業に充てられることが多かったようです。アメリカではレスリング,日本では武道。置き換えてみれば似たような構図ですね。

続いて、ベトナム戦争に伴う徴兵の話が出てきます。これは言うまでもなく、マイク・アダムス氏にとって重大な局面となりました。この辺りの事の顛末も、『氷河期の子ども』に詳細に記述されています。
徴兵制は、言うまでもなく重大な男性差別です。日本で日本人として生きていると、実感の湧かない部分もあります。しかし、世界にはまだ徴兵制が健在の国がたくさんあります。当然のように、その殆どは、男性のみを対象とした徴兵制です。今、この瞬間にも、当時のマイク・アダムス氏と同様の心境を味わっている若者がたくさん居るのです。

例えば、隣国である大韓民国では、徴兵問題から男性差別問題に開眼する人々もいて、実際に社会運動が繰り広げられていると聞きます。軍隊内部では酷い人権蹂躙や暴力が横行しているようで、仮に戦闘地へ行かずに済んだとしても、軍隊へ入ることそのものが多大な苦痛であり、心に大きな傷を残すことになるでしょう。ただ、そこから逃れる方法は無く、兵役拒否を貫けば犯罪となり、刑務所送りです。あまりにも救いがありませんね。
(註:国によっては、《 良心的徴兵拒否 》を認めているようです。例えば、代替としてのボランティア活動を行うなど)
10代後半の多感な少年が、このような厳しい現実に直面したとき、平静でいられなくなるのも当然のことでしょう。まして、同い年の少女たちはこの運命からまったくもって無縁であるとしたら……。自分が暴力や人権蹂躙の渦巻く軍隊の中に国家権力によって押し込められている間、かつてのクラスメイトであった女子は悠々と大学で学問を修めているのだとしたら……。

もちろん、すべての男性にとって、徴兵が苦痛であるということは無いのかもしれません。しかし、如何にしても耐えられないほどの苦痛を感ずる人が存在するのは事実であり、それを無視した逃げ場のない徴兵制は大いに問題でしょう。
軍隊はすべての国家にとって必要なものだと思います。しかし、然るべき待遇を用意した上での志願制であるべきです。そして、軍隊組織を浄化する(暴力や人権蹂躙を排除する)必要があるでしょう。

さて、精神を病むに至ったマイク・アダムス氏は、どのようにして闇から解き放たれていったのでしょうか。
続きを読み進めることにしましょう。

一九七八年、彼は 『ニューズ・ウィーク』誌の記事を通じ「“自由な男”連盟」の存在を知り、狂喜する。

《ぼくは記事を読みながら、泣いていました。ぼくが少年のころから長い間考え続けていた、そしてそれを口にするたびにみんなから笑われ、変人扱いされ、まさにその同じ考えを持った男たちがほかにもいることを知ったからです》

こうして、マイクは、十七年の長い放浪の旅に終止符を打つ。
「“自由な男”連盟のメンバーになって、多くの友人を得、話し合えるようになって、彼の精神と生活は安定を取りもどした。
心にひそむ怒りはしだいにうすれ、女性たちとも余裕を持って接することができるようになった。
あるとき、彼はパーティーへ出かけ、そこで女たちがこんな会話をかわしているのを耳にした。
「日本では女は男から三歩きがって歩かなければならなかったんですってよ。ずいぶん女性を低くみたバカにした習慣じゃない?」
「ほんと、そんなふうな習慣の中に育ったら、女性は劣等感のかたまりになっちゃうでしょうね。そうじゃない?」
その女性は、マイクのほうを向いて同意を求めた。

《以前のぼくだったら、そこで怒りを爆発させたと思う。バーティーをめちゃくちゃにしたかもしれない。が、いまや、ぼくは平静に笑いながら、こう答えることができるようになったのです。
「まったくですよ、そういう習慣は、実に非人間的だと思うな」
ぼくの心には、九歳のときの思い出がよみがえりました。
「それがどれほど人間をおとしめることか、ぼく自身の経験を通してよくわかりますよ」
みんないっせいに不思議そうな顔でぼくを見ました。
「経験って? あなた日本へいらしたことがあるの?」
彼女たちはなんにもわかっていないのだ。ぼくの言ったことの意味が。おかしさがこみ上げてきた。ぼくは思わず大声で笑い出しました。
「いまにわかるさ。ぽくらの男性解放運動が、もっと広まったら、必ず気がつくときがあるさ」。
そう心の中でつぶやいたのです》


仲間を得ると言うことは、とても大きな意味を持ちますね。それだけで、癒される部分はあると思います。
男性差別に開眼した、“マスキュリスト”はマイノリティです。フェミニストと比べればその差は歴然としています。マイク・アダムス氏が苦しんでいた当時であればなおさらでしょう。
孤独だった彼は、仲間と出会うことで、安心感を得て少し癒されていきました。

最後のところ。少し洒落が効いていますね。読者の皆様はお分かりになりましたか?
もちろん、冒頭に書かれていたエピソードと、重ね合わせているわけですね。
でも、その真意を周囲の女たちは分かっていない。分かっていないということを彼はすべて受け止めてしまっていて、むしろ楽しんですらいる。
なかなかこういう風にはできないなあと思います。僕だったらどうだろう。たぶん、懇切丁寧に解説を始めて、鬱陶しがられるのだろうなあと思います。
僕も、いつか、マイク・アダムス氏のようになれるのかな。

それにしても、欧米の“レディーファースト”と、日本の“男尊女卑”は、真逆の構図になるんですね。
やはり、欧米と日本では、根底にある文化がまるっきり違うんだろうなあと思います。

父(男性)が実質的な力を握ることの多かった欧米では、形式的に女性を立てる“レディファースト”が根付いたのかもしれません。
母(女性)が実質的な力を握ることの多かった日本では、形式的に男性を立てる“男尊女卑”が根付いたのかもしれません。
もちろん、これは1つの仮説に過ぎません。

男性と女性の間には、“非対称な構造”があります。それが“レディファースト”と名付けられるにせよ、“男尊女卑”と名付けられるにせよ、結局のところ男女双方が旨味を享受したり、損をしたり、傷ついたり傷つけられたりするのだと思います。
我々は、この“非対称な構造”を、フラットな目で解明していかなければならないのだと、僕は思っています。

------------------------------------

【 補遺 】
男性と女性では罰せられ方が違うということについて。『男性権力の神話』より資料をご紹介。
主に、
「第7章:誰に対しての暴力?」,
「第9章:どのようにシステムが女性を保護するのだろうか、それとも…私たちが住んでいる世界は2つの違った法律が存在するのだろうか」,
「第10章:女性は多すぎるほど殺し、司法は彼女らを釈放する―12の“女性にだけ働く”バイアス」
に記載があります。

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳)
作品社


学校での体罰は未だ21の州において合法だ。しかし体罰を実施している大部分の学区では、少女の頬を定規ではたいた教師はその親が訴訟で教師をはたくことを恐れることになる。そして少女の頬をピシャリと彼の手で打った男性教師の終身在職権や退職金は忘れ去られる可能性がある。よって慣習的に、体罰は少年への罰になる。多くの学校は黒人の少年の方が白人の少年よりも多く叩かれる傾向に抗議してきたが、どの学校も少年だけが叩かれる傾向には抗議しなかった。私たちは少年への暴力には抗議しない、なぜならそれは隠されているからだ。(『男性権力の神話』p.222)

殺人の罪を犯した男性は、殺人の罪を犯した女性の約20倍死刑になる。(『男性権力の神話』p.245)

ノースカロライナ州では、第2級殺人を犯した男性の刑期は、第2級殺人を犯した女性より平均12.6年長かった。(『男性権力の神話』p.245)

夫と妻が家で違法な麻薬のビジネスをしていた ― 2人は台所のテーブルでせっせとドラッグを袋詰めしていた。彼らの裁判で夫は“中心人物”のレッテルを貼られ刑務所に入れられた。妻は執行猶予つきで釈放された。麻薬売人の弁護士はこのダブルスタンダードを“ドラッグ・ディーラー・パターン”と呼んだ。(『男性権力の神話』p.247)

23人のアメリカ人は死刑になったあとで無罪が発覚している。その23人の全員は男性であった。(『男性権力の神話』p.249)

1954年から、そう、約7万人の女性が殺人を犯してきた。彼女らの被害者には約6万人の男性が含まれている。しかし、(中略)一人の女性として男性だけを殺しただけでは死刑になっていない。(『男性権力の神話』p.249)

マージョリー・フィリパークと16歳のヘス・ウィルキンズは、共に殺人の共謀罪であったと罪を認めた。どちらも前科はなかった。ヘス・ウィルキンズは死刑になった。そして、マージョリー・フィリパークは釈放された。(『男性権力の神話』p.250)

ヘス・ウィルキンズが児童性的虐待の被害者であることが発覚したとき、それが彼の死刑の判決を止めることはなかった。ジョセフィン・メイサが児童虐待の被害者であることが見つかったとき、陪審員団は彼女を無罪にした。ジョセフィン・メイサは彼女の23ヶ月の息子をトイレのつまりを直すきゅっぽんで殺した。(『男性権力の神話』p.250)

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保守派もリベラルも男性を使い捨てにし続ける

2015-02-07 21:29:13 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
アメリカの社会学者で、マスキュリズムの大御所のような人物である Warren Farrell(ワレン・ファレル)の名著“The Myth of Male Power”の邦訳版が、昨年(2014年)出版されました。

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳)
作品社


掻い摘んでいってしまえば、この本では、男性は《 使い捨てられる性 》であり、《 ガラスの地下室 》に押し込められている のだということを主張しています。

女性の社会進出や昇進を阻む 《 ガラスの天井 》 があるといわれます。
一方で男性は、生命を軽んじられて《 使い捨て 》にされています。例えば、収入と引き換えに危険な職種に就いたり、過労死・自殺・病気・事故により死亡率が高かったり、国家権力によって徴兵されたり、死刑に処されやすかったり、暴力被害を受けやすかったりします。このような状況を表現する言葉として、ワレン・ファレルは 《 ガラスの地下室 》 という語を造ったのです。

『男性権力の神話』という題には、男性が権力を握っているというのは実のところは“神話”に過ぎないのであり、男性も女性も、男女の“非対称”なあり方により差別されたり不利益を被ったりする(あるいは利益を受けたりもする)のだという意味 が込められているのだと、僕は解釈しています。

今回は、その第8章(タイトル:もし私たちがクジラを救うのと同じくらい男性を救うことを気にかけたらどうなるだろうか?)から一節を取り上げてみようと思います。

政治のことを話す際に、《 保守派 》と《 リベラル 》というくくり(あるいは《 右 》と《 左 》というくくり)が出てくることがあります。
辞書で調べてみると、下のように掲載されています。

保守:旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること。また、その立場。「―派」⇔革新。
革新:旧来の制度・組織・方法・習慣などを改めて新しくすること。特に、政治では、現状を改革しようとする立場。「技術―」⇔保守。
リベラル:政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま。


両者の主張は対立することが殆どなのではないかと思います。
では、《 男性の使い捨て 》・《 男性差別 》についてはどうなのでしょうか。あなたはどう思いますか?

以下、『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』の、240~241頁より引用します。
原著者であるワレン・ファレルはアメリカ人であり、1993年に出版された本であるという点を念頭に置いておいてください。

保守派とリベラルの双方が女性の保護と男性の使い捨てを強化してしまっている。

保守派はそれを 性役割と呼んで正当化 する。

リベラルはそれが 女性に損害を与えるとき性差別と呼ぶ が、それが 男性に損害を与えるとき男性を非難 する。

例えば、男性だけが入れる組織は女性に損害を与えるためリベラルはそれを性差別と呼ぶが、男性だけが義務を負う徴兵登録は男性に損害を与えるため、リベラルは、彼らはただ男性だけが戦うことを要求されただけなのに、戦争を起こしたとして男性を責める。

両方のグループはそれが女性を助けるかまたは男性だけを傷つけるとき生まれついての生物学的違いを理由にする。

同じように、ほとんど全ての保護法の立法はそれが女性を保護するための場合、リベラルによって支持されている。
(リベラルは女性への暴力を防ぐ法律〔男性への暴力を防ぐ法律はない〕の立法を「ヘイトクライム」に対するものとして支持した。女性がほとんどであるセクシュアルハラスメントの危険からの保護を支持したが、男性がほとんどである死の職業からの保護は支持しなかった。子どもを持つ母親が手当てを求めやすいようにすることを支持したが、父親のそれは支持しなかった。そしてほぼ全ての女性だけの法的保護を支援した)。

それが女性を保護し男性を使い捨てるとき両方のグループが保守派になる―そう、どちらもステージI(*)の政党になる。
その暗黙の了解としての正当化の理由は、女性は被害者であるという誰も疑問に感じない思いこみである。


(*)ステージI:第2章で提示されている概念。ステージIは生きることに焦点が当てられる段階を指す。一方、ステージIIは自己実現に焦点が当てられる段階を指す。


どうでしょうか?
僕は、ここに書かれていることは、ほぼそのまま現代の日本でもあてはまると思います。

保守派が旧来の性役割を守っていこうとすることは、自然な事ともいえますし、その点で一貫していると思います。
そういうわけで、本の中でも保守派についての記述は少なくなっていて、リベラルについて多く述べられています。

[1] リベラルはそれが 女性に損害を与えるとき性差別と呼ぶ が、それが 男性に損害を与えるとき男性を非難 する。

結局のところ、彼らは女性の受ける損害にしか興味がないのでしょうね。《 性差別 》と名付けられるのが、つねに女性が損害を被る事例だけになってしまうのも当然です。
そして、損害を被っている側である男性が何故か非難されてしまうというのも、落ち着いて考えてみれば、理不尽極まりない話ではないでしょうか。

[2] 両方のグループはそれが女性を助けるかまたは男性だけを傷つけるとき生まれついての生物学的違いを理由にする。

これは良くありますね。
“か弱い”女性を守らなくてはいけないということを、保守派は旧来の性役割に則って言います。そして、リベラルもまた、“か弱い”女性を守らなくてはいけないと言います。
“か弱い”女性を守るために、“逞しい”男性は、自らが傷つくことを強いられます。
(現在の日本には徴兵制はありませんが)男性だけが徴兵されるのは、生物学的な違いから。これも、保守派・リベラル派に共通して言うことではないでしょうか。
男性は“体力がある”からといって、重い負荷を背負わされ、歯車の一つとして使い捨てにされていきます。

[3] 同じように、ほとんど全ての保護法の立法はそれが女性を保護するための場合、リベラルによって支持されている。

DVの法律が出来たとき、男性の被害者は救済の対象になっていませんでした。男性の被害者を救済の対象とすることに対して、相当の抵抗があったようです。
(現在では、幸いにして、男性被害者も救済の対象となるようになっています)
女性を保護する、もっと言うと、女性だけを保護する制度というのが、色々とあります。同じ問題を抱えているのに、男性だからという理由で保護されないということがまかり通ってしまっているのは、明らかにおかしいです。

《 ガラスの天井 》によって、女性が昇進したり指導的地位に就いたりすることが難しいのが問題であるとして、是正のためにアファーマティブ・アクションの導入を行う例も見られます。
それを言うならば、《 ガラスの地下室 》によって、危険な職種に占める男性の割合が著しく高いことに対しても、是正のためのアファーマティブ・アクションを行わなければならないでしょう。
( 註:筆者はそもそもアファーマティブ・アクションについては反対の立場である )

そして、結局のところは、引用部分の末尾に集約されます。

その暗黙の了解としての正当化の理由は、女性は被害者であるという誰も疑問に感じない思いこみである。

保守系の人は、性役割に則って、“か弱い”女性の被害には意識を向けるでしょう。
リベラル系の人の中には、イデオロギーに則って、常に女性を被害者に男性を加害者に位置づけるという、教条主義・原理主義的な人がいます。
しかし、そのいずれでもない人々もまた、女性を被害者に男性を加害者に位置づけてしまう傾向があると思います。それは言ってしまえば素朴な感覚であって、無意識に近いものなのかもしれません。

《 男性の使い捨て 》・《 男性差別 》について、是正される方向へ向かうためには、まずはこのことを自覚的に認識することなのだと思います。
逆に言えば、「女性は被害者であるという思いこみ」に疑問を感じる人 が増えてこない限りは、この問題は以後もずっと膠着したままということです。現状では、女性は被害者というのは、多くの人にとって「あたりまえ」のこととなっています。そして、何事でも、「あたりまえ」が疑われることは難しいでしょう。
そのことも十分に踏まえた上で、この社会の中でどのように生きていくのが一番幸せなのか。“目覚めて”しまった僕たちは、それを模索していく必要があるのかもしれません。

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男性は「使い捨てられる性」 ~日経ビジネスオンラインに久米泰介さんの記事掲載~

2015-01-16 15:00:10 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
日経ビジネスオンラインにて、1月9日付で、久米泰介さんの記事が掲載されました。
久米泰介さんは、アメリカの社会学者で、マスキュリズムの大御所のような人物である Warren Farrell(ワレン・ファレル)の名著“The Myth of Male Power”を邦訳した人物です。
待望の邦訳版は、昨年(2014年)に出版されました。

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳)
作品社


掻い摘んでいってしまえば、この本では、男性は《 使い捨てられる性 》であり、《 ガラスの地下室 》に押し込められている のだということを主張しています。

女性の社会進出や昇進を阻む 《 ガラスの天井 》 があるといわれます。
一方で男性は、生命を軽んじられて《 使い捨て 》にされています。例えば、収入と引き換えに危険な職種に就いたり、過労死・自殺・病気・事故により死亡率が高かったり、国家権力によって徴兵されたり、死刑に処されやすかったり、暴力被害を受けやすかったりします。このような状況を表現する言葉として、ワレン・ファレルは 《 ガラスの地下室 》 という語を造ったのです。

『男性権力の神話』という題には、男性が権力を握っているというのは実のところは“神話”に過ぎないのであり、男性も女性も、男女の“非対称”なあり方により差別されたり不利益を被ったりする(あるいは利益を受けたりもする)のだという意味 が込められているのだと、僕は解釈しています。

今回の日経ビジネスオンラインの記事では、この問題について久米さんがインタビューに答える形で紹介されています。
聴き手は、副編集長の、秋山知子さんです。

女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」
男性の「生きにくさ」は性差別ゆえかもしれない


( 注意:リンク先の全文を読むためには、無料の会員登録が必要です。 )

久米さんは1986年生まれで、僕よりも1歳年上ですが、ほぼ同年代の人です。
この記事の冒頭部分で、彼はこんなことを言っています。

・ 特に僕ぐらいの世代だと男女平等は当たり前と最初から思っていたので、女性側の視点からのフェミニズムに関する研究や著作はたくさんあるのに、男性側の視点のものは一つもないことを疑問に思いました。男性学というジャンルはあるんですが、これは基本的には「女性差別をなくすために男性を変えましょう」というもので。

・ 女性が不利になることについては、既に差別として言及されているので改善される見込みがあるんです。しかし男性側の不利な部分についてはこれまで誰も声を上げなかった。


彼や僕が生まれたとき、すでに男女雇用機会均等法が施行されていました。また、彼が中学1年生の時(僕が小学6年生の時)、男女共同参画社会基本法が制定されました。中学校や高等学校では、当たり前のように男女一緒に家庭科の授業を受けてきました。
人はみな、“時代”という名のヒドゥン・カリキュラムに影響されています。したがって、例えば40~50代の人と20代の人では、考え方の枠組みや抱くイメージや感じ方が大きく違ってくるのもある意味では当然のことです。

女性差別を是正するという点から見て、フェミニズムは一定の役割を果たしたと思います。確かに副作用としての害毒ももたらしたのは事実ですが、性差別の考察を行う際に欠かすことのできないジェンダー理論だって、フェミニズム無くしては発展しなかったと思います。

ただ、フェミニズムの原動力はルサンチマン(怨恨)によるところが大きいのではないかと僕は思います。そこには、多かれ少なかれ、男性という存在に対する止めどもない憎悪と被害者感情が根強く残っていて、いつも女性を被害者に男性を加害者に位置づけるという教条主義・原理主義に陥っているように思えます。
その教条主義・原理主義ゆえに、男性の被害や女性の加害といった問題に取り組むことを、妨害するということも、現実に行われています。
例えば、DVの法律ができたときも、当初は男性の被害者は想定されず、救済の対象にもされていませんでした。男性被害者・女性加害者の存在を矮小化するようなことまで行われる始末です。
これは、とても悲しいことです。

世代間の格差もあるでしょう。
発言力や影響力を持つ、中高年層の論者・運動家の中には、脳内に描いている男性・女性のイメージが、20~30年前のままで止まっているのではないかと思われる方も残念ながら見受けられます。
社会は確実に変化してきたのに、脳内の像の更新が追いついていないのではないでしょうか。
かれらには、教条主義・原理主義の呪縛から自らを解き放ち、脳内イメージも更新して、もう少し柔軟になっていっていただきたいと思います。
あるいは、それは諦めて、世代交代を待つしかないのでしょうか。
久米さんの文にははっきりと書かれていませんが、なんとなく僕がこ
こに書いたような考えに近いものをお持ちなのではないかと推測しています。

僕の《 男性差別 》に対する現時点での考えは、国際男性デー2014(2014年11月16日更新)で、コンパクトにまとめています。
それ以外にも、これまでにいくつかの記事を書いてきたのですが、久米さんのお考えは、僕と近いところも多そうです。

彼には今後も地道に、学術研究と書籍の刊行等を通じた啓蒙活動を続けていって欲しいと心から願います。きっと、あの手この手での妨害などもあるのではないかと思います。この問題に取り組むことは、正直言って甘くないと思います。しかし、がんばって欲しい。心から応援したいです。
じわじわと足もとを固めていけば、いずれ、大きな結果として実るだろうと僕は信じています。

------------------------------------

ところで、『ぼくたちの女災社会』を著した兵頭新児氏も、この日経ビジネスオンラインの記事に関してご自身のブロマガで言及されています。
よろしければ、あわせて読んでみてください。

「女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」男性の「生きにくさ」は性差別ゆえかもしれない」を読む

兵頭新児氏は、男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害を表す《 女災 》という語を造った人物で、彼の本もまた僕に大きな示唆と影響を与えてくれました。
残念ながら、絶版となってしまっているのですが…。

ぼくたちの女災社会
兵頭新児
二見書房


なお、当ブログでは、 書籍・webサイトの紹介(弱者男性問題・男性差別問題・女災関係) をまとめておりますので、参考にしていただければ幸いです。

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国際男性デー2014

2014-11-16 09:54:05 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
来たる、11月19日 は、国際男性デー(International Men's Day) です。

( 関連ワード : 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動 )





国際男性デー(IMD)は、男性・男児の健康と幸福を祈念する日 です。
日本ではほとんど知られていませんが、多くの国でこの日の存在が知られています。

※ IMD について詳しく知りたい方は、wikipipedia(日本語版)wikipedia(英語版)も参考にしてください。



■ 男性の生命、男性の尊厳

日本では男性と女性の平均寿命には、およそ6年半の開きがあります。この差は、戦後ずっと拡大し続けてきました(ここ数年は少しだけ縮小傾向もみられるようです)。



※ 平均寿命の男女差については、[IMD記念ミニ連載] 男性と女性の平均寿命の差について(2013年11月14日公開)をご覧ください。

年齢別の死亡率を男女で比較すると、15歳まではさほど差はないものの、それ以上では一貫して男性の方が高率となっています。

※ 死亡率については、[IMD記念ミニ連載] 年齢別生存数の男女差について(2013年12月15日公開)をご覧ください。
※ 死因のことについては、後日、記事を執筆予定です。

いずれにせよ、男性の健康問題は、実はかなり大きな問題なのではないか。そんなことを思います。

古来より、男性の身体や生命は、女性の身体や生命に比べて乱暴・粗末に取り扱われてきました。
このことは、現代となってもさほど変わっていないと思います。

人間社会の構造として、そうなってしまっているのですよね。もはや慣習のレベルで。無意識のうちに、そうなっているわけです。
僕としてはこのままで良いとは思っていません。

力仕事や危険な仕事は男性がやるものと決めつけていませんか。
男性と見れば、「力仕事担当の人」とか「重たいものを持ってくれる人」といった目で見てくる女性の存在は、僕のような虚弱な男性にとっては苦痛です。
男性にだけ力仕事をさせたり重たいものを持たせたりする、キツイ仕事を背負わせようとするマッチョな男性の存在もまた同様です。
もちろん、こうした仕事も必要なものなので、誰かがやらなければならないことです。
でも、一律に男性のみが背負うのではなく、適性のある人を中心に、みんなで協力してやるのが本来だと思うのですが、どうでしょう。

※ 参考記事 : 体力の男女比較 ~〈 手弱男 〉の存在を可視化する試み~(2014年7月20日公開)

(徴兵制を敷いている国の大半は、男性のみを徴兵しています。これも同じような構図です。国家による強制力を伴うので、より大きな問題だと思います。僕はもし徴兵制のある国に生まれていたなら、発狂していたかもしれません。これは至極真面目な話です。僕は軍隊は必要だと思っていますが、志願制であって欲しいです。意欲と適性のある人に軍務について欲しいのです。男女は問わず)

男性に対する暴力や粗末な扱いを当たり前のことだと思っていませんか。
暴力問題についての話が出てくると、「女性に対してでも手を上げる」とか「女性にでも容赦なく」とかいうフレーズを聞かされますが、これは言外に男性への暴力は女性への暴力より罪が軽い(重大な問題ではない)というニュアンスを含んでいるように思えてなりません。
対・男性であろうと、対・女性であろうと、暴力は暴力です。誰に対しての暴力であろうとも、許されざることです。

※ 参考 : カテゴリ【 暴力等の被害男性のこと 】

また、いくらデリカシーを欠いた粗末な扱いをされたとしても、黙って耐えることを強いていませんか。
何か訴えても、「男なんだからガマンしろ」の一言で終わらされるのは辛いことですよ。

※ 参考 : カテゴリ【 性的羞恥心のこと 】

男性でも女性でも、生命の重さは同じです。人間としての尊厳も同じです。
僕は、「偶然にして男性に生まれたから」というだけで辛い思いをする人が、1人でも少なくなることを祈っています。

■ 《 男性差別 》について

《 性差別 》というのが、性別に基づく差別 だとすれば、そこには《 男性差別 》と《 女性差別 》が存在していることになります。
性差別に関する研究や運動が、フェミニズムや女性解放運動とともに広まったという経緯もあり、「性差別というのは女性差別のことを指す」という認識を持っている人も、もしかしたら多いのかも知れません。しかし、僕はそれは少し違うと考えています。

男性差別と女性差別は、言うなれば コインの両面 のようなものであって、女性差別と名付けられた事象にはたいてい男性差別が付随していると思います。
性差別を無くすためには、真の意味で男女平等を実現するためには、男性差別と女性差別のいずれにも対処していくこと が不可欠です。

《 男性差別 》の具体的な内容ですが、例えば以下のようなものがあるのではないかと、今の僕は考えています。

1.生命が軽んじられていること(危険な仕事への従事,徴兵等)
2.犠牲や我慢を強いられること(救助での優先順位,レディファースト等)
3.体力的に女性より高水準であることを期待されること
4.経済的に女性より高水準であることを期待されること
5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと
6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること(更衣室が無い,裸の強制等)
7.法律や制度の不均衡があること(父子家庭や寡夫の扱い等)
8.自動的に〈加害者〉認定されて排除されること(女性専用○○等)


数はきわめて少ないものの、男性差別や男性問題のことを取り上げた書籍などを見ると、概ねこうした問題に触れられているように感じます。例えば、我が国における男性学の先駆となった、渡辺恒夫の『脱男性の時代』では、【1.生命が軽んじられていること】や【2.犠牲や我慢を強いられること】についての言及が見られます。國友万裕の『マッチョになりたい!?』では、第1章 マスキュリズムと男性差別 において、【3.体力的に女性より高水準であることを期待されること】に関する記述がみられました。

インターネット上では、【4.経済的に女性より高水準であることを期待されること】や【8.自動的に〈加害者〉認定されて排除されること】に対する声が大きいようです。特に、商業施設等における女性限定サービスの実施や、鉄道車両における女性専用車両についての言説は目にすることが多いです。より広範な人々にとって、身近かつ当事者性の強い問題だからでしょうね。
(僕も、女性専用車両についてはかなり懐疑的なスタンスです。詳しくは、女性専用車への疑問続・女性専用車への疑問 をお読み下さい)

DVや性的虐待などの男性被害者についても、以前よりは少しは配慮されるようになってきたようです。マスコミで取り上げられることもたまにあります。しかし、【5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと】や【6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること】の問題は、かなり根深いと僕は思っています。

また、【7.法律や制度の不均衡があること】については、時折ニュースを目にすることがあります。少しずつですが、改善されていく方向にはあるようです。

1.から8.まで、もちろんどれも大切な問題です。ただ、人によってどこにより重点を置くかは変わってくるかもしれません。
僕の場合は、体力に関するものや心身の健康に関するものに最も重点を置いています。【1.生命が軽んじられていること】や【3.体力的に女性より高水準であることを期待されること】や【5.物理的 / 精神的暴力やハラスメントの被害男性が救済されづらいこと】ですね。
また、性的羞恥心の問題(【6.性的羞恥心を軽視 or 無視されること】)についても、同じくらいの力をかけています。

《 男性差別 》についての研究は、我が国においては、まだまだこれからだと思います。既に《 男性学 》と名付けられた学問はあるのですが、残念ながら不十分なものだと僕は考えています。
既存の男性学や男性運動は、所謂、〈 メイル・フェミニスト 〉たちによる運動が大半という印象があります。かれらは女性問題には強い関心を示す一方で、男性問題に対しては関心を持たず、むしろきわめて冷酷です。言い換えれば、男性の加害者性と女性の被害者性の部分にのみ着目していると言えます。ところが実際には、男性にも被害者性があり、女性にも加害者性があります。被害と加害はコインの両面のようなものだからです。したがって、男性の被害者としての側面や、男性の苦しみにも着目していくことが求められる と思うのです。

■ マスキュリズムとその参考資料の紹介

男性の被害者としての側面や、男性の苦しみに着目していく思想や運動も、西欧や米国などにはすでに根付いているようで、マスキュリズムとよばれています。

マスキュリズム(masculism) とは、男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動 を指します。

よく、フェミニズムの《 対置概念 》とされますが、僕は、《 並置概念 》と言いたいと思っています。

男性解放運動と女性解放運動は 車の両輪 です。マスキュリズムとフェミニズムも 車の両輪 です。
片方だけでは、脱輪してしまいます。必ず、揃っていなければならないし、揃っていてこそ意味があるのだと思います。

別の喩えをすれば、マスキュリズムとフェミニズムは、酸性とアルカリ性 みたいなものなのかもしれません。
酸性の 塩酸 と アルカリ性の 水酸化ナトリウム水溶液 を混ぜ合わせれば中和されて、中性の 塩化ナトリウム(食塩)水溶液 が出来ます。
塩酸や水酸化ナトリウムが劇物であるように、マスキュリズムもフェミニズムも、単体では劇物だと思います。
しかし、フェミニズムも、マスキュリズムと混ぜ合わせることで、見事に中和されることでしょう。

最後に、マスキュリズムについて情報を得たい方のために、参考となる書籍やwebサイトをご紹介します。
書籍・webサイトの紹介(弱者男性問題・男性差別問題・女災関係) に一覧を掲載しておりますので、ご活用下さい。

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NHKクローズアップ現代で 〈 男性問題 〉 が取り上げられる

2014-08-02 06:30:56 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
NHKの番組、クローズアップ現代 が、2014年7月31日(木)放送分で、〈 男性問題 〉を取り上げました。

男はつらいよ 2014
1000人“心の声”


男性の幸福度は、女性よりも低く、特に、妻が主婦の場合、幸福度の差が大きい―。
先月、国が発表した「平成26年版男女共同参画白書」。平成13年の発行以来初めて「男性」をテーマにした特集が組まれ、様々なデータをもとに男性の幸福度を分析している。
また、各国国民の意識を調べ比較している国際調査で、日本の男性の幸福度は先進国の中で低いレベルにある ことが明らかになっている。この調査でも際立っているのが「幸福度の男女差」。その差は、イラクやエジプトなど、男性が戦争や内戦で死と向き合う危険な状況にある国々よりも大きくなっている。
いま、なぜ日本の男性は生きづらさを抱えているのか。取材を進めて見えてきたのは、社会の急激な構造変化の中で、古くからある「求められる男性像」と「現実」とのギャップに苦悩する男性たちの姿 である。
番組では、男の生きづらさを描いて人気を呼ぶ「舞台」に引きよられる人々や、男性専用の悩み相談所に集う人々など、様々な現場をルポ。現代ニッポンで男の幸せとは何かを見つめていく。


放送内容全文を読むことも出来ます(公式サイト内)


マスキュリストとしては、興味津々の内容であったのですが、残念なことに僕は放送を見逃してしまいました。
でも、こうやって公式サイトに掲載して貰えると、たいへんありがたいですね。

この番組でも紹介されている、『平成26年版男女共同参画白書』についても、興味はありながら、まだ目を通せていません。
できるだけ早く読みたいなあとは思っています。
男性をテーマにした特集が組まれたことは、一つの大きな前進だと思いますし、喜ばしく思います。
(もちろん、〈 男女共同参画 〉を標榜しながら、13年間にわたって男性問題の特集が為されてこなかったわけですから、「今更か・・・」とか「ようやく・・・」という思いも当然あります)

ワレン・ファレル氏の名著『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』が、出版から約20年経った今年になってようやく邦訳されたのもあわせて、今年はマスキュリズムや男性運動に関わるうごきがたくさんあるなあと、改めて思います。

※ ワレン・ファレル氏は、アメリカの社会学者で、マスキュリズムの大御所のような人物です。
〈 女性学 〉の別称としての〈 男性学 〉ではなく、男性の被害者性や男性の苦しみなどにきちんと光を当て、そこからの解放を目指しておられます。
〈 ガラスの地下室 〉という語の生みの親でもあります。
ぜひ、『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』を手に取ってみてください。

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳)
作品社


話をクローズアップ現代のことに戻すと、ゲストに伊藤公雄氏が呼ばれていますね。
彼の解説の内容については、ちょっと「うーん・・・」と思えてしまう部分がやはりあります。それは、著書を読んだときと同じですね。

例えば、伊藤さんは、

やっぱりこの40年くらい、1970年代から男女の関係とか、社会の在り方とか、家族の在り方とか、やっぱりすごく変化してきてるんですけども、なかなかやっぱり男性の側が、男はこうあるべきという意識から脱出できない。

とおっしゃっています。
これは決して間違ってはいないと思いますが、〈 男性の側が 〉というのがどうしても気になります。
〈 男はこうあるべき 〉という意識に縛られているのは、本当に男性側だけなのでしょうか。僕にはそうは思えません。
男性に対して、ジェンダーハラスメントを平然として憚らない女性は、確実に存在します。
パートナーには自分よりも高収入を求めるという異性愛女性も、相変わらず多いようです。
もし、〈 男はこうあるべき 〉という意識からの脱却を求めるのならば、男性側だけでなく、女性側の意識改革も必須であると、僕は思うのですが、どうでしょう。

伊藤さんの話からは、そこが全く欠落している印象を受けます。
なんだか、「全部男が悪いのであり女は悪くない」と、「男が自縄自縛に陥っているだけだ」と、「女は進んでいるのに男は遅れている」と、そういう風に読めてしまう(聞こえてしまう)のが非常に残念です。

女性解放にあたって、男性の側の意識改革も必須であったのと同じように、
男性解放にあたって、女性の側の意識改革も必須となるでしょう。

その辺り、もうお一方のゲストである、赤坂真理さんは、女性の側の問題にも言及しておられたようで、僕としては好感が持てました。
例えば、以下の如く。

1つ問題だなと思ったのは、女性が求める男性像というのがころころ変わる。
例えば、俗にいう草食男子という、すごく性とかに消極的で優しい男性というのは、優しい男性が求められてきて、男性がこう、10年とか20年とか10年単位でかけて頑張ってきて、なった結果だと思うんですよ。
なってみたら、お前たちは弱いとか。


ところで、〈 男性問題 〉などと一口で言っても、世代間の差異も大きそうです。
例えば、50代と20代では、生きてきた時代背景が全く異なります。
人はみな、時代という名のヒドゥン・カリキュラム(隠れたカリキュラム)に教育されているともいえるわけですから当然ともいえます。

1990年代以降、ジェンダーに関する社会の意識は飛躍的に変化しました。

現在36歳以下の世代(1978年4月2日以降に生まれた人)は、高校の家庭科を男女共修で学習した世代です。社会科の授業などでも、折に触れて、いわゆるフェミニズムの影響を受けた〈 男女平等教育 〉にふれて育ってきた世代です。
したがって、37歳以上の世代とは大きな違いが出てくることになります。

また、現在27歳以下の世代(1987年4月2日以降に生まれた人)は、男女共同参画社会基本法の施行後に中学校へ入学した世代です。
調べてみて知ったのですが、僕の学年が最初なんですね。
現在21歳以下の世代(1993年4月2日以降に生まれた人)は、男女共同参画社会基本法の施行後に小学校へ入学した世代です。

世代間の差異については、クローズアップ現代の放送の中では、赤坂真理さんが触れておられたようです。

今の、特に若い男性が育ってきたのは、優しさが善である世界であって、そこではコミュニケーションがうまい人がよい人であって、優しい人であって、求められる。
それも内化して、本来はコミュニケーションはそんな得意なほうではないです、男性は。
コミュニケーション下手であるにもかかわらず、それと社会性とか、経済性とかをどうしても両立させなければいけないと思ってしまうようなところが、現代的なつらさではないかと思いました。


さて、このブログでは、今後も男性の苦しみや男として生きることの〈 痛み 〉にフォーカスしていくつもりです。じっくりと考えを深めていきたいと思っています。
これまでの記事とあわせて、引き続きご愛読いただけましたら幸いです。
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マスキュリズム関連の情報など

2014-05-19 19:14:22 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
ご無沙汰しております。
気づけばもう3ヶ月ほどこのブログを更新できていませんでしたね。
いろいろ書きたいなあと考えている記事はあるんですが、なかなか筆が進みません。
友人の豆腐さんの勉強会や、僕らのゲイライフプロジェクトへも足を運んだりはしていますが、レポも出来ずにいます。
(豆腐さんの「セクシュアリティ勉強会」は発展的に解消され、4月から「しろにじカーサ」として開催されています)

マスキュリズム(反・男性差別)に関しても、2月22日に 〈 手弱男 〉というマイノリティ を書いたのを最後に記事を更新できていませんね。
本当は、男性と女性の体力差について考察した記事をそれに引き続いて書きたかったのですが、公開はまだまだ先になりそうです。
(データは集めてあるのですが、記事としてまとめるとなると時間がかなり必要になりますね)
そういえば、『全米男性会議とフレッド・ヘイワード』シリーズも未完となっていますし、国際男性デー(IMD)記念ミニ連載も未完ですね。
前者は第7講と第8講,後者は第3回を書けば完結となるので、なんとか書き上げたいとは思っています。

今日は、マスキュリズムに関わる情報を2点だけご報告させていただきます。

1.『男は痛い!』(國友万裕氏の連載)の第10回が公開されました

以前、『男は痛い!』(國友万裕)に共感 という記事で、國友万裕氏の対人援助学マガジンにおける連載をご紹介しました。

その後、3月15日に第10回が更新されました。

ぜひ、対人援助学マガジン第16号 の目次の中から、第10回「アフタースクール」をクリックしてお読み下さい。
(あるいは、第10回「アフタースクール」 をクリックして直接どうぞ)

閲覧には、PDFファイルを読むための環境が必要です。

僕も読みましたが、今回分もカタルシス効果を得ることが出来ました。
おおかたの人にとってはカタルシスにつながるものでは無いとも思うのですが、「こういう苦しみを耐え忍んできた男性もいるんだなあ」といった感じで読んでもらうだけでも、大きな意義があると僕は思います。

おそらく、第11回が6月15日頃に公開されるのではないかと予想しています。
そちらも楽しみなところです。

なお、國友さんは書籍も刊行されています。その本については、1月に 『マッチョになりたい!?』を読んでいます という記事で紹介しました。
よろしければ併せてどうぞ。

2.ワレン・ファレル氏の書籍が邦訳される!

皆さんは、ワレン・ファレル氏という人物をご存じでしょうか?
wikipedia で ワレン・ファレル の項をお読みいただくと、概略は分かるかと思います。

彼はアメリカの社会学者で、マスキュリズムの大御所のような人物です。
〈 女性学 〉の別称としての〈 男性学 〉ではなく、男性の被害者性や男性の苦しみなどにきちんと光を当て、そこからの解放を目指しておられます。

僕としては、ぜひとも彼の本を読みたいと予てから思っていましたが、如何せん英語力が乏しすぎて、なかなか踏み切ることが出来ずにいました。

そんな、ワレン・ファレル氏の書籍が、邦訳されて出版されました。
これは僕にとっては大きな朗報です。

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳)
作品社


Amazon の商品紹介の欄には、以下のような記載があります。

男性への性差別の実態を明らかにした、全米30万部のベストセラー。
アメリカを代表する〈 男性学 〉研究者が、男性も社会の中で差別されているという事実を、様々な具体例やデータによって提示した〈男性研究〉の基本書。世界的なベストセラーとなり、『ワシントン・ポスト』紙において、「新鮮な観点から実世界を見ることを私たちに強いる」と評された。


アメリカで、30万部も売れたのですね。
僕はまだ入手も出来ていないのですが、近日中に手元へ取り寄せて、少しずつ読み進めていく予定です。
今から、「きっと読み応えのある本なんだろうなあ」と、期待が膨らんでいます。

この本が、日本でも出来るだけ多くの人の目にふれることを願いたいところです。

翻訳に取り組まれた久米さんは、1986年生まれの若い学者さんのようです。
今後のご活躍に期待したいですね。

余談になりますが、マスキュリズムを語るにあたっては、ハーブ・ゴールドバーグ の書籍もぜひとも読んでおきたいところです。
特に、"THE Hazards of Being Male" は、第12章,第6章,第4章だけでもよいので、読まれたいところです。
こちらは、かなり以前に、下村満子氏により邦訳されています。邦題は『男が崩壊する』です。
図書館等で探してみてください。
(良著なので、ぜひとも再刊を望みたいところです)

男が崩壊する (1982年)
ハーブ・ゴールドバーグ(著),下村満子(訳)
PHP研究所


では、今回はこのあたりで。
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〈 手弱男 〉というマイノリティ

2014-02-22 00:45:16 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
( ※ この記事は、僕自身の勉強も兼ねて作成している考察文です。無条件に鵜呑みにせず、逆に、頭ごなしに否定せず、1つの仮説として受け止めていただければ幸いです )

( ※ 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動などのキーワードにアレルギー反応を起こす方は、お読みにならないことを推奨します )

■ 〈 益荒男 〉と〈 手弱女 〉

突然ですが、漢字のテストです!

[問題] 次の漢字の読み方を答えなさい
(1) 益荒男 (      )
(2) 手弱女 (      )


どうですか?
「こんなの簡単だよー」という方もいらっしゃるでしょうし、
「全然わかんなーい」という方もいらっしゃることと思います。
ちなみに、どちらもひらがな4文字になります。

これらの語を辞書で引いてみましょう。
すると、以下のような記述がされています。
(『デジタル大辞泉』より)

・ 益荒男(ますらお) = りっぱな男。勇気のある強い男。

・ 手弱女(たおやめ) = たおやかな女性。なよなよと優美な女性。


※ 「たおやか」は以下のような意味を持ちます。
[1] 姿・形がほっそりとして動きがしなやかなさま
[2] 態度や性質がしとやかで上品なさま


※ 益荒男の方は「男」表記で、手弱女の方は「女性」表記なのが、僕はどうしても気になってしまいます。

ここから派生して、和歌の歌風を表現する言葉もあります。いずれも、後ろに〈 振 〉(ぶり)を付けます。
『万葉集』に見られる、素朴でおおらかな歌風を〈 益荒男振 〉といい、
『古今和歌集』に見られる、優美で繊細な歌風を〈 手弱女振 〉というのです。

古くから用いられている〈 益荒男 〉〈 手弱女 〉 といった言葉が表している性質は、我が国における、伝統的な 〈 男らしさ 〉〈 女らしさ 〉 と言ってもいいのかもしれません。
あるいは、男性・男児は 「汝、〈 益荒男 〉たれ!」 と、女性・女児は 「汝、〈 手弱女 〉たれ!」 と、
それぞれ、〈 益荒男 〉や〈 手弱女 〉という役割を演じながら生きることを宿命づけられている と捉えることもできるかもしれません。
男性には〈 益荒男 〉という役割が、女性には〈 手弱女 〉という役割が、
当人が望むか望まないかは関係なく、強制的に割り振られている という表現もできます。逃れることの出来ない運命なのですね。

ところで、この宿命・運命をどう感じるかは、結局のところ人によりけりだと思うのです。その人の抱えている事情や、持って生まれた属性,身につけた知識や考え方など、あらゆるものが影響していると思います。
結果的に、
・ 〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉という役割を好ましく感じる人。進んでそうあろうとする人
・ 〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉を演じることが苦痛ではない人。別に望んでいるわけでもないが、イヤでもない人
・ 〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉を演じることがちょっぴり苦しい人。それでもなんとか我慢したり誤魔化したりして乗り切っている人
・ 〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉を演じることがかなり苦しい人。しばしば、我慢の限度を超えてしまい、生活に支障を来す人
・ 〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉を演じることがそもそも出来ない人。日常生活に恒常的に支障を来してしまう人

など、いろいろなパターンが出てくると考えられます。

一番上のタイプの人たちにとって、〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉という役割を演じなければならない宿命は、むしろ好ましいものでしょう。喜んでこの宿命を引き受け、今の社会のあり方を変えるという発想は出てこないでしょう。むしろ、変えたくないと考えるのではないでしょうか。
2番目のタイプの人たちにとって、この宿命はどうでもいいものでしょう。それならば、わざわざ変えるというのはエネルギーを消耗することにもなりますので、やはり、今の社会のあり方を変えるという発想には到らないでしょう。「変えるのなら変えてもいいけれど、別に変えなくたっていいよ」といったところでしょうね。
3番目のタイプの人たちにとって、この宿命は少し苦しいものですが、現状でなんとか適応できているのも事実です。すると、宿命に抗わず(今までのように)適応して生きていくにあたっての苦しみと、宿命に抗って今の社会のあり方を変える手間や労力を天秤にかけることになるのではないかと思います。前者が楽だと思えば「このままで…」となり、後者が楽だと思えば「変えたい」となるのでしょう。
4番目・5番目のタイプの人たちにとって、この宿命は重たくのし掛かるものとなります。あるいは、絶望をもたらすものかもしれません。今のまま苦しみ続けるよりは、たとえ手間や労力がかかったとしても、社会へのはたらきかけを行う道を選ぶかもしれません。大きな苦しみを生む宿命から、何としてでも逃れたいという思いが強く出てくるのではないかと思います。

ここまで見てきたことは、実は重要なことなのだと思います。
「汝、〈 益荒男 〉たれ!」 、あるいは、「汝、〈 手弱女 〉たれ!」 と言われ続けなければならない宿命がこの社会にあります。
男性は男性の役割を、女性は女性の役割を果たすことを求められます。
そして、そのこと(性役割を果たすことを求められること)に対する感じ方は、人それぞれ なのです。この点をよく念頭に置いておく必要があります。
1番目のタイプの人に合わせて、4番目・5番目のタイプの人たちに苦しみ続けることを強いるのは残酷なことだと思います。
一方、4番目・5番目のタイプの人たちを苦しみから解き放つためという大義名分の下に、1番目のタイプの人たちの意思を踏みにじるのもまた問題だと思います。
したがって、〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉であることを強いられたくないという人の思いを大切にしつつ、
同時に、〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉でありたいという人の思いも大切にしていきたいところです。

以前、僕とジェンダーフリー という記事(2013年1月26日公開)でも書きましたが、僕は、〈 性差 〉を否定する立場ではありません。
また、〈 男らしさ 〉〈 女らしさ 〉といった規範(ジェンダー規範)の存在そのものを否定するような立場にもありません。
ただ、規範から外れた存在を攻撃したり侮辱したり蔑視したりするのはいかがなものか という風に思っているのです。
そして、規範に従うことを、全ての人に例外なく強いるということの残酷さに目を向けてみて欲しい と考えているのです。
さらに、出来ることならば、規範の内容を問い直し、時代に即したものへと手直ししていく作業も必要なのではないかと考えています。

僕は、〈 益荒男 〉 の役割を演じることが、諸々の事情からかなり苦しいと感じている人間なので、先の5つのタイプでいくと、4番目に該当すると思います。
〈 男らしさ 〉〈 女らしさ 〉を押し付けられることの苦痛や残酷さをよく知っているので、そうしたことを、出来るだけ多くの人に、可能な限りやめてもらいたいという願いを持っています。
したがって、ある意味では〈 ジェンダーフリー論者 〉ということになるのでしょう。
とはいっても、〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉でありたいという人の思いも大切にしていきたいと考えていますし、自分が苦しいからといって、何でもかんでもたたき壊してしまえばいいという考えは危険だと思っています。
この辺りの思いが、上述した僕のスタンスに反映されています。

■ 〈 手弱男 〉と〈 益荒女 〉はマイノリティ

ところで、

・ 〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉を演じることがかなり苦しい人。しばしば、我慢の限度を超えてしまい、生活に支障を来す人
・ 〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉を演じることがそもそも出来ない人。日常生活に恒常的に支障を来してしまう人


というのは、具体的にはどんな人たちなのでしょうか。
〈 益荒男 〉 / 〈 手弱女 〉を演じるのがかなり苦しかったり、不可能だったりするということから考えてみることにしましょう。

〈 益荒男 〉は、伝統的な 〈 男らしさ 〉 ですが、字面を見ても分かるとおり、そこには 〈 強く 〉〈 たくましく 〉 という要素が求められるといえるでしょう。

〈 手弱女 〉は、伝統的な 〈 女らしさ 〉 ですが、字面を見てみると、そこには 〈 やさしく 〉〈 しとやかに 〉 という要素が求められるといえるでしょう。

ところで、すべての男性・男児が、強さやたくましさを持っているわけではありませんし、それを望んでいるわけではありません。
強さやたくましさに欠ける男性は、無理に〈 益荒男 〉を演じなければなりませんから、どうしても苦しくなります。
強さやたくましさよりも、やさしさ・細やかさ・優美さなどに価値を見いだし、それらを伸ばしていくことを望む男性も一定数います。彼らは、往々にして、やさしく受け止めて包み込むような生き方を好みます。しかし、男性のやさしさ・細やかさ・優美さなどは、女性が同様の性質を持つ場合とは異なり、なかなか評価されづらい のが実情です。むしろ、貧弱・情けないなどといった形に裏返されて、侮辱される要因にもなりかねません。
こうした、「汝、〈 益荒男 〉たれ!」 と言われることに苦しみを覚える男性のことを、
〈 手弱男(たおやお) 〉 と呼ぶことにしましょう。

また、すべての女性・女児が、やさしさやしとやかさを持っているわけではありませんし、それを望んでいるわけではありません。
やさしさやしとやかさに欠ける女性は、無理に〈 手弱女 〉を演じなければなりませんから、どうしても苦しくなります。
やさしさやしとやかさよりも、強さ・たくましさ・壮大さなどに価値を見いだし、それらを伸ばしていくことを望む女性も一定数います。彼女たちは、往々にして、力強く勇ましく突き進むような生き方を望みます。しかし、女性の強さ・たくましさ・壮大さなどは、男性が同様の性質を持つ場合とは異なり、なかなか評価されづらい のが実情です。むしろ、生意気・出しゃばりなどといった形に裏返されて、侮辱される要因にもなりかねません。
こうした、「汝、〈 手弱女 〉たれ!」 と言われることに苦しみを覚える女性のことを、
〈 益荒女(ますらめ) 〉 と呼ぶことにしましょう。

この、〈 手弱男(たおやお) 〉〈 益荒女(ますらめ) 〉 は、数量的に見ればそれほど多くはないと思います。
すなわち、彼ら / 彼女らはマイノリティ(少数者)なのです。

模式化して考えてみることにしましょう。
簡単のため、尺度としては、体力を用いてみます。

一般に、男性は強い,女性は弱い とされ、社会通念となっています。これを前提とした制度や慣習なども非常に多くあります。
この社会通念は、少なくとも体力のことを指すのであれば、マクロな視点においては一応正しいと思います。
男性の体力の平均値は、概ね、女性の体力の平均値を上回るからです。

ところが、ミクロな視点で、つまり一人一人にスポットを当てていくと、社会通念と合致しないケースも多くあります。
男性の体力の平均値が、女性の体力の平均値を上回るといっても、それはあくまでも平均値の話であって、実際には個体差があります
平均値を中心として、大きくバラついているはずなのです。
したがって、任意に男性1人と女性1人を抽出して、体力を比較すると、男性の方が弱いというケースもそれなりの割合で発生するのです。

また、バラツキの度合いにもよりますが、
・ 男性の平均値を上回る、非常に強い女性
・ 女性の平均値を下回る、非常に弱い男性

も存在し得ます。

図にすると、下のようになります。



※ バラツキが小さい場合は下図のようになり、「すべての男性は女性の平均を上回り、すべての女性は男性の平均を下回る」ことになる。



ただ、実際はこのケースは少ないのではないかと予想する。

※ 体力の男女比較については、文部科学省が公表している、新体力テストの結果 をもとにした記事をいずれ執筆する予定があります。
※ (2014年7月20日追記)予定していた体力についての記事を書きました。体力の男女比較 ~〈 手弱男 〉の存在を可視化する試み~ です。ぜひ併せてご覧ください。


正規分布に近い分布をしているとすれば、平均値付近の人が一番多いということになります。
そうであれば、強い男性、すなわち〈 益荒男 〉と、弱い女性、すなわち〈 手弱女 〉が数量的には多いということになるはずです。
そして、〈 手弱男(たおやお) 〉〈 益荒女(ますらめ) 〉 は、やはりマイノリティ(少数者)ということになります。

マイノリティというのは、どんなマイノリティであれ、不便ですし、何かと生きづらいものです。
もちろん、やり方次第でその不便や生きづらさを軽減することはできるのですが、究極的には不便も生きづらさも苦しみも無くなりはしません。

※ マイノリティの不便や生きづらさや苦しみを完全消滅させようとすれば、その分、マジョリティの不便や生きづらさや苦しみが著しく増大してしまうことになりかねません。結局、世の中から不便も生きづらさも苦しさも無くなることはないのでしょうね。であるならば、みんなで少しずつ背負い合うしかなさそうだなと僕は思っています


性役割というのも、多数派が 〈 益荒男 〉と、〈 手弱女 〉 だから、それに合わせたというだけなのでしょう。
今の時代に即したものであるかは別として、それなりに合理性のある分担だったのだと思います。
ただ、それが、少数派の 〈 手弱男(たおやお) 〉〈 益荒女(ますらめ) 〉 にとっては、非常に苦しいものになってしまっているわけですね。

--------------------

ところで、現代の日本においては、
〈 益荒女(ますらめ) 〉
の方はすでにかなり苦しみから解放されているのではないかと感じます。
それは、フェミニズムと大いに関わっています。
〈 益荒女(ますらめ) 〉 の生きづらさを軽減し、そうでない女性の生き方の選択肢を広げたというのは、フェミニズムの大きな功績だと思います。
(もちろん、その一方で、さまざまな〈 副作用 〉をもたらしたことも忘れてはなりません。『フェミニズムの害毒』(林道義著)などを参照下さい)

一方、 〈 手弱男(たおやお) 〉 は、多少は良くなったものの、まだまだ苦しみの中でもがいているのが実情です。
ジェンダー理論が構築されたのも、フェミニズムの〈 功 〉の1つであって、それがあるからこそ、僕はこのブログで、色々な記事を書くことが出来ています。
ただし、ジェンダー理論を女性やセクシュアル・マイノリティのために用いることは許しても、男性のために用いることは頑なに許さないという風潮があることがきわめて残念です。
男性もジェンダー規範に抑圧された存在なのだということ、性差別は男性差別と女性差別が絡み合ったものなのだということなど、もっと多くの人に知って欲しいなあと強く思います。
〈 手弱男(たおやお) 〉 の生きづらさを軽減し、そうでない男性の生き方の選択肢を広げることを目指して、〈 マスキュリズム 〉や〈 メンズリブ 〉などが必要だと、僕は考えています。

弱者男性問題,男性差別問題,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放運動に関する書籍紹介 (よろしければご参考に!)

〈 手弱男(たおやお) 〉 は、いったいどんな苦しみを抱えているのかという具体的なことは、またこのブログでも順次取り上げて、考察していきたいと考えています。これからも、まだまだ、勉強は続きます。一生涯、勉強し続けます。
なお、〈 益荒女(ますらめ) 〉 の苦しみや生きづらさなどは、フェミニズム系の方々が出版された書籍が世の中に大量に流布していますので、そちらをお読みになって下さい。
(僕には上手く書く自身がありませんし、そもそも僕が今更書く必要は、もはやないでしょう…。)
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『マッチョになりたい!?』を読んでいます

2014-01-25 22:21:36 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
去年12月17日に、『男は痛い!』(國友万裕)に共感 という記事を書きました。
(未読の方は、よろしければ本記事と併せてお読み下さい)

そこで書いたとおり、僕は國友さんの『男は痛い!』を読んで、カタルシス効果を得ることが出来ました。少し癒された感じがしました。

ところで、『男は痛い!』は、対人援助学マガジン における連載で、無料で読むことが出来るものでした。
(PDFファイル。上にリンクを貼った12月17日の記事からアクセス可能)

実は、國友さんは書籍も出されています。
それが、『マッチョになりたい!? -世紀末ハリウッド映画の男性イメージ-』(彩流社,2011年)です。
この本を、現在、少しずつ読み進めています。
(記事執筆時点で、半分ほど読み終えています)

マッチョになりたい!?: 世紀末ハリウッド映画の男性イメージ
國友万裕
彩流社


この本は、映画の本と見せかけて、実は、ジェンダー,マスキュリズム(反男性差別),メンズリブ,弱者男性論の本にもなっています。
そのことは、前書きを読むとすぐに分かります。少し長くなってしまいますが、僕のコメントを添えながら引用させてください。

この本は、ハリウッド映画を男性ジェンダーの角度から分析する試みである。
ぼくは中学の頃から熱心な映画少年だった。引きこもりで友達がいなかったせいもあり、ぼくは映画に依存する映画オタクだったのだ。
また、子供のころから、スポーツや喧嘩ができず、男らしくない男の子 でもあった。「女の腐ったような子だ」 と言われ続けた。保守的な九州の地方都市で育ったせいもあって、「男は男らしく」という縛りはきつく、超男根主義的な教育 だった。そのことで心のバランスを崩してしまい、自分の殻に引きこもってしまったぼくは、一〇代・二〇代の若き日々を真黒にしてしまった。


( 引用者註 : 男らしくない男の子であったが為に、「女の腐ったような」と揶揄されたり、「男らしくあること」を強いられることで苦しんだ國友さん。その姿は、『正しいオトコのやり方』(フランシス バウムリ著,下村満子翻訳,学陽書房) に所収されている一篇、『氷河期の子ども』の執筆者である、M.アダムス氏の姿と重なります。そして、この記事を書いている僕自身とも重なります。僕はアダムス氏や國友氏に比べれば数段恵まれているのですが、それは時代や国・地域の違いの影響もあるでしょう。なお、僕は「男らしさ」を否定しませんし、「男らしくありたい」という自由意思を尊重します。むしろ、「男らしい」人は大好きで、そこに憧れもあるのです。あくまでも、僕が問題視しているのは、「男らしくあること」を全ての男性・男子に強いることだという点をご理解下さい )

そして、三〇代の半ばになり、実際に日本の男性運動に参加することになったのだが、男性学,男性運動,男性ジェンダー,メンズリブ,男性差別,被害男性,弱者男性,マスキュリニティといったところで、ピンとくる人がどれだけいるだろうか。
今でも、「ジェンダーの勉強をしている」というと、「男性なのに、女性問題をなさっているんですか?」 と言われることがたびたびである。
日本でも、男性運動や男性研究は、もう四半世紀以上前から始まっている。しかし、なかなかそれが主流にはなっていかない。


( 引用者註 : 〈 男性差別 〉という言葉に関しては、どのように受け止められているかはともかくとして、それそのものは少しずつ広がっているのを感じます。〈 被害男性 〉や〈 弱者男性 〉に関しても、男性のDV被害がメディアで取り上げられたり、法や制度も少しずつでも変わりそうな気配があるのは事実です。それでも、大方の人にとっては「ピンと来ない」のが実情でしょう。僕の場合、同性愛者としての自認を持っているので、ジェンダーに関心があると言うと、「同性愛者だから」と思われがちです。これは実は間違っていて、僕はもし異性愛者の自覚を持っていたとしても、やはりジェンダーに関心を持っていたと断言できます。現に、異性愛者の男性である國友さんが、ジェンダーの研究に打ち込まれています。性的指向とジェンダーは分けて考える必要があると考えます。そして、ジェンダーの影響を良くも悪くも受けているという点では男性も女性も同様なので、ジェンダー理論も 男性 / 女性 の双方に強く関わるものであって、女性やセクマイだけのものでは決してないと思います。男性運動や男性研究がさらに発展・深化していくといいですね )

ぼくが男性運動で得た経験も期待外れだったと言わざるを得ない。日本の男性運動は、東京よりも関西が中心となっているのだが、どちらかといえば、フェミニズムの影響を受けた男性たちが、「女の人たち、これまでごめんなさい」と罪滅ぼし的に男性の悪い部分を反省していく運動という感があり、男の苦しみに対する切り込みは浅い。男性運動というよりも、男性が女性運動をしているという印象 でしかなかったのである。

( 引用者註 : まったく同感です。所謂、〈 メイル・フェミニスト 〉たちによる運動が大半という印象があります。かれらは女性問題には強い関心を示す一方で、男性問題に対しては関心を持たず、むしろきわめて冷酷です。言い換えれば、男性の加害者性と女性の被害者性の部分にのみ着目していると言えます。ところが実際には、男性にも被害者性があり、女性にも加害者性があります。被害と加害はコインの両面のようなものだからです。したがって、男性の被害者としての側面や、男性の苦しみにも着目していくことが求められる と思うのです。大まかに言うと、〈 マスキュリズム 〉はそういう立場にあります。僕は現在のところ、この立場にあります。男性の加害者性だけでなく、男性の被害者性にも目を向けていく必要があるということです )

しかし、さすがアメリカでは、ジェンダーの議論は進んでいる。さまざまな角度から男性の抱えている問題に光を当てる運動が日の目を見ている。アカデミズムの世界でも、日本よりもはるかに多様な議論が広がっており、映画批評の分野でも男性ジェンダーの視点で作品を読み解く試みが活発である。

( 引用者註 : アメリカにも〈 メイル・フェミニスト 〉はもちろん存在しますが、同時に〈 マスキュリスト 〉も多数存在し、両方の視点からの論考が為されているようです。『男が崩壊する』を著し、アメリカの男性運動の先駆者となった、ゴールドバーグ氏は、マスキュリズムの立場に立ち、主として男性の被害者性という角度から男性問題を主張しました。また、『正しいオトコのやり方』 の著者であるフランシス・バウムリ氏や、僕にカタルシス効果を与えてくれた恩人であるアダムス氏,第1回全米男性会議で基調講演を行ったフレッド・ヘイワード氏(彼については下にリンクを貼る連載も参照のこと)も、同様の立場といえます。さらに、男性の精神性の復活を訴える〈 ミソポエティック派 〉や、キリスト教原理主義に立脚した〈 プロミス・キーパーズ 〉のような男性運動もあります。実に多様ですね )

全米男性会議 と フレッド・ヘイワード (1)【イントロダクション】 (2013年7月20日公開)
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(2)【第1回全米男性会議のこと】 (2013年7月27日公開)
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(3)【フレッドの体験(前編)】 (2013年7月28日公開)
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(4)【フレッドの体験(後編)】 (2013年8月3日公開)
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(5)【フレッドの基調講演(前編)】 (2013年8月9日公開) 
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(6)【フレッドの基調講演(後編)】 (2013年8月27日公開)


振り返れば、映画とジェンダーが、ぼくの人生の二大テーマだったといってもいいだろう。この本をまとめることは、まさにぼくの人生そのものを語っていくという作業でもあった。
原稿を読んだ女性から「男の人って大変だなあと思った」という感想をもらったのは、大きな喜びだった。女が抑圧されているのは皆知っているけど、男の抑圧はまだあまり意識されていない。「男は男らしく」「マッチョであれ」という既成のジェンダー規範にとらわれ、苦しんでいる男たちも多い。


( 引用者註 : 女性からのこういった感想は嬉しいですね。そうやって、きちんと受け止めてくださる女性もちゃんといらっしゃるのだというのが喜ばしいです。ジェンダー規範によって抑圧されているのは、女性だけでなく男性も同じなのだということを、ぜひとも多くの人に知って欲しいですね。ただ、繰り返しになりますが、僕は規範の存在そのものを否定する立場ではありません。「男は男らしく【なければならない】」という強制 によって苦しい思いをしている男性が存在するのは事実なので、そうした無理強い・強迫に疑問を持っていますが、「男は男らしく【ありたい】」という個人の自由意思 は最大限尊重されなければならないと考えます )

しかし、男らしさをすべて捨ててしまうことが男性解放なのかというと、そうでもないのではないか。男たちの深層心理には、男らしさに反発する一方で、男らしさに惹かれる矛盾した心理 が宿っている。さらにポスト・フェミニズム時代となって、女性からの注文も多くなった。さて、男はどう生きたらいいのだろうか。
本書のタイトル『マッチョになりたい!?』には、マッチョでいるのはつらいけれど、マッチョになりたい、という男たちの気持ちや、マッチョって好ましいことなの?、今の時代のマッチョって、どういう男のことなの? そもそも本当にマッチョであることを望んでいるの? という問いかけをこめた。
この本を読んで、少しでも、「男は大変だなあ」と思ってくれる人が増えれば、これほど嬉しいことはないと思っている。


( 引用者註 : 確かに、男性解放とは「男らしさを捨ててしまえ!」ということでは無いと僕も思いますね。そうではなくて、「男らしくなければならない」という無理強い・強迫を排除した上で、それぞれの男性が「自分はどんな男性でありたいのか?」を模索する のがいいのかなあと考えています。「男らしさ」のイメージは画一である必要はなく、1人1人違った〈 男らしさ 〉があっていいと思うのです。そして、自分がこうありたいと思える〈 男らしさ 〉を追及して行けたら幸せなのかもしれないと思っています。また、これは男性だけでなく女性にも言えることだと思うのですが、自分の中にある〈 男性性 〉や〈 女性性 〉についてよく理解して、暴走しないように上手にコントロールしながら生かしていくこと も大切なのではないかと思います。ところで、男らしさに反発する一方で、男らしさに惹かれる矛盾した心理 というのは僕にも当てはまります。正しく矛盾なのですが、しかしそういうものなのだと受け止めて、自分自身としっかり向き合って生きていく必要があるのでしょうね )

結局、前書きを全部引用してしまいました。本当は部分抜粋でと考えたのですが、ここも必要、あそこも必要と、省略できる部分が無くなってしまいました。
ただ、この本が何を意図したものなのかは伝わったと思いますし、僕の考えや意見も添えたのでそれも伝わったのではないかと思います。
そして、興味を持たれた方は、ぜひ本を手にとって読んでみてください
(長々と引用してしまった分、しっかり宣伝してみました)

目次は以下の通りとなっています。

序章 ポスト・フェミニズム時代の男性像
第I部 女は軍人、男はカウンセラー
第1章 マスキュリズムと男性差別 ―男性映画としての『G.I.ジェーン』
第2章 パワーに依存しない男性の創造 ―『グッド・ウィル・ハンティング』

第II部 男を求める男たち
第3章 同性愛恐怖が引き起こした殺人劇 ―『アメリカン・ビューティー』
第4章 同一化の憧憬と同性愛的表象 ―『リプリー』
第5章 「男」になるためのイニシエーション ―『ファイト・クラブ』
第6章 身体描写をとおして描くマチズモの挫折の物語 ―『アメリカン・ヒストリーX』

第III部 見られる男、見つめる女
第7章 記号としての「男性裸身」とそれをめぐる視線 ―『ハート・オブ・ウーマン』を中心に
第8章 女性性の表出と女性性からの脱却 ―『トゥルーマン・ショー』
第9章 生殖なき時代のマスキュリニティ ―『マトリックス』が描く男性表象

終章 九本の映画から見えてくるもの

第1章のタイトルがいきなり〈 マスキュリズムと男性差別 〉となっているのが、凄いなあと思いました。
ブログの記事を書く以外、大して何もしていないけれど、一応、〈 マスキュリスト 〉を自認している僕としては嬉しかったです。
日本で日本人の手で日本語で刊行された本で、〈 マスキュリズムと男性差別 〉という内容を取り上げた本はもしかしたら初めてではないでしょうか。
(僕が浅学ゆえに知らないだけなのかもしれませんが……)
この記事をご覧になられている方は、どのような形にせよ、マスキュリズムやジェンダー等の問題に関心を持たれている方だと思うので、ぜひ第I部(1・2章)だけでもお読みになられることをおすすめします。

僕は、冒頭でも書きましたが現在読み進めている最中で、1・2・4・5章を読み終えた状況です。
ここで取り上げられている映画のうち第5章の『ファイト・クラブ』以外は見たことがありません。
『ファイト・クラブ』は好きな映画で、今でもたまに見たりしますが、この映画のどんなところに惹かれていたのかが少し分かった気がして興味深かったです。
また、第2章の『グッド・ウィル・ハンティング』はぜひ見てみたいなあと思いました。

第1章から第5章までを通じて、気になった、興味を持ったキーワードや文を列挙しておきます。
いずれ、もう少し詳細にあれこれと書ける日が来ればいいなあと思っています。

《 序章 》
ソフト・メイル
ミソポエティック派,プロミス・キーパーズ,マスキュリズム,メイル・フェミニスト,ゲイ派,ブラック派,社会主義派

《 第1章 》
「男性でも女性より虚弱な者はいる」
「体力や運動神経は、個人によっては女性が男性よりも優れていることも当然ありうる。例えば、最低レベルの男性の能力は平均レベルの女性の能力より劣る」
「体力や運動能力において女性よりも秀でていることを期待されることが、男性にとって重大な抑圧であること」
「1980年にカーター大統領が、徴兵制度を復活させ、しかも、そのなかに女性を含めるということで、この問題が大きな議論となったのであるが、当時、女性を戦場に送ることに多くの男性は賛成(賛成率61%)しており、女性のほうが反対(賛成率35%)していた」
緊急時に女のほうが先に解放されるという不平等
「こういう事態でのレディ・ファーストは当然のことと思われているが、持久力・生命力は女性のほうが強いので、体力的な部分だけで判断するとしたら、女性のほうを後にすべきなのではないか」
(男性の男性への)同一化
ホモソーシャル,ホモエロティシズム,ホモセクシュアル
肌をさらすこと,拷問に耐えること
「男社会の一員として認められるためには、肌をさらし、威圧と拷問に耐え、自分よりも上位の男のエゴイズムに自分の身を任せなくてはならないのである」
「女性が傷だらけにされるのは即、暴力と見なされ、同情の眼で見られるが、男性が傷だらけにされるのは、軍隊などのようなある種の状況では許容されてしまう」
「現実には男性への暴力も、女性と変わらない(あるいは、むしろ女性よりも多い)くらいに頻繁に起きているにも関わらず、男性への暴力は深刻な問題とは受け止めてもらえず、メディアなどでは男が殴られる場面が見せ物、あるいはコメディなどではジョークのように扱われるケースが多い」
「肌をさらすのも恥ずかしがらず、肉体的に虐待されても、歯を食いしばって克己しようとする(中略)しかし、これは男性に対する差別につながっていくのだ」

《 第2章 》
「この映画では、男性のアイデンティティが、パワーやヒエラルキーよりも魂の解放と親密さ、対立よりも受容という形で再定義される」
「誰が優位というのでもなく、誰が相手を支配するというのでもない、相手と一体となるような男同士の関係」
ソウル・メイト(魂の友)
ヒエラルキー依存
脱暴力プログラム,自助グループ,アミティ
当事者カウンセリング
当事者同士のトラウマの分かち合い(言語化) → 魂の解放
相手を知りたがる女と教えたくない男のかけ合い
頭脳的マチズモと肉体的マチズモのダブルバインド
頭脳的なパワーのヒエラルキーと肉体的なパワーのヒエラルキー
「アントニー・イーストホープは、男同士のコミュニケーションのスタイルの一つとして、〈 からかい 〉をあげている。男同士の友情を描く映画では、お互いをふざけて攻撃しあう場面がでてくるが、それは、二人が親密な絆で結ばれていることを示唆するものであり、親愛の情があるからこそ許される行為である」
行動を分かち合う,親密さを分かち合う
「相棒になることは、男どうしの最も深い人間関係である。すでに危機に耐えた相棒の間には、男女間の最も深いものにもめったいにない豊かな面がある。たとえば、良い父と息子、愛情ある兄弟関係のようなものである」

《 第4章 》
「イタリアには表向きホモセクシュアルはいないですよ。ダヴィンチやミケランジェロはどうなんですか」
(男性の)男性との同一化への憧憬
自分の理想とする男性と同一化したいという欲求
即自(直接的で自足しており、無自覚で他者や否定の契機をもたない)
対自(存在者が自己自身を対象化する自覚的在り方)
「いわゆる男性的な男性は「即自的な存在」である傾向が強いが、女性的な男性は「対自的な存在」でありうる」
「リプリーのほうは、対自的に自分の身体をとらえている(他人に自分の身体を見られることを気にしている)ため、自分の裸身を見られることがどうにも恥ずかしそうなのだ」
「男性の心理のなかには、女性的な、まだ男性として未成熟な男性を可愛がりたくなる心理も含まれているのである」
年上の男性から愛される段階,年下の男性を愛する段階
「三島は女性的な少年であったため、いじめられっ子だったという。しかし、その後、自衛隊入隊などで、徹底的に男の世界を味わい、自分の男性性を築き上げていった。そして、男の一員になれたという喜びを味わったという」
男性性の構築の失敗のドラマ

《 第5章 》
少年を大人の男にするイニシエーション(通過儀礼)
ミソポエティック運動,「幸せではない」ソフト・メイル
父親不在,内面の父親との対話
「主役のジャックはまさしくブライが言うところの「幸せではないソフト・メイル」であり、『ファイト・クラブ』は、そのジャックが、暴力という男性的な原理を学んだことで、男性としてのアイデンティティを習得していく物語と読み解くことが可能」
〈 父 〉という理想の男性像に同一化しようとする
「ジャックがまだ男性になりきれない(女性的な)息子を、タイラーがある意味での父親に代わる男性を体現し、これが、一種の同性愛的な味わいを醸し出している」
「タイラーとは、「女性化した」男であるジャックの内面の「理想化された男性性」であり、ジャックに「男になる」手ほどきを与える役目だった」
男性性を甦らせる手段としての暴力
通過儀礼としての暴力
「暴力は荒々しい形ではあるものの、いかなる方法であれ男同士の愛情を仲介するものであり、性交のような性的欲望のカタルシスである」
「男性と徹底的に身体的に関わるということは、相手から男性性を学習し、男性というものを理解していく過程で求められる」
男性性の暴走
「女性化した男だったジャックが男性性を身につけたのは価値あることだったものの、その次に来る問題として、その男性性を飼いならすことができなくなるのである」
男性性の制御
「もはやタイラー(彼の内面の男性性・父親)に頼らなくても、男性として独り立ちができるようになったのである」
「とりわけ「ストレス状況下」では、「女は親密な一体感を強く求めるが、男は内に引きこもりがち」になる」

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まだ読破したわけではないけれど、ここまでの部分でも、いろいろな気づきがありました。例えば、以下のような点に関して。

・ 何故に僕は同い年から年上の男性(〈 兄ちゃん 〉や〈 パパ 〉みたいな人)に惹かれるのだろうか
・ 何故に僕は〈 無理強い 〉が嫌いなのに、〈 管理教育 〉フェチなのだろうか。現実化は望まないものの、その表象に萌えてしまうのだろうか
・ 何故に僕は〈 暴力 〉が嫌いなのに、〈 M/Mスパンキング 〉フェチなのだろうか。男同士でケツを叩きあいたいのだろうか

第2章で言うところの〈 相棒 〉のような関係を築けることを、僕は願っているのだと思います。親密で受容的な、穏やかな関係を、〈 兄ちゃん 〉や〈 パパ 〉との間に築きたいという思いがあります。
また、僕は、男らしさを強いられるのが理不尽で不条理で嫌だと言いながら、一方でそれに対して憧憬があって、父親や兄貴的存在によって、少年から大人の男への一歩を踏み出したいのかもしれませんね。
20代ももはや半ばにさしかかっているのですが。
前書き引用の最後のところで出てきた、「男らしさに反発する一方で、男らしさに惹かれる矛盾した心理」というのは、もしかしたらこの辺のことを指しているのかもしれません。
「男として生きることは痛い」ので、その痛みから解放されてラクになりたいという思いもある一方、痛みを堪えながら健気に踏ん張っている自分の姿に陶酔している側面もあるのかもしれませんね。ナルシズムというのか、マゾヒズムというのか…。

〈 ホモソーシャル 〉と〈 ホモエロティシズム 〉と〈 ホモセクシュアル 〉について考えていたら、僕のセクシュアリティは余計分からなくなってきました。
昨年10月27日に、「無性の♂」と「ゲイ」の狭間で という記事を書きましたが、今の僕は自分のセクシュアリティを、「ゲイ」と「無性の♂」の掛け持ちのような形で捉えています。ちょっとAセクシュアル要素の入ったゲイという感じですね。
詳しくは、その記事を読んで欲しいのですが、僕は超絶バニラ志向で、スパンキングフェチ(SM一般には興味なし)です。
それで、〈 ホモエロティシズム 〉という概念を寡聞にして初めて知って、スパンキングはそこに該当するのかもなあという気もし始めました。
男性同士のスパンキングの愛好家というのは、日本ではきわめて稀な、ニッチな存在ですが、同性愛者 / 異性愛者 どちらの性自認を持っている方もいらっしゃるのです。
まあ、僕は異性愛者では無いと思うのですが、「無性愛者を演じていた」のではなくて、実は本当に無性愛者だったという可能性は否定できず、むしろ少しだけ強まったかもしれません。
だからといって何も変わらないのですけれど。
そもそも、〈 ホモソーシャル 〉と〈 ホモエロティシズム 〉と〈 ホモセクシュアル 〉の間の線引きは実に曖昧ですし、僕は、多少の違和感は感じつつも、ゲイの一員として存在し続けていられると思います。

と、ここまで書いておいて何なのですが、『マッチョになりたい!?』は同性愛映画の本ではありません。
その点は國友さんも、後書きに於いて、

本書をまとめるにあたって、同性愛の映画の本と勘違いされるのだけは心外だという思いがあった。本書で取り上げた映画の多くは、男同士の関係を描いているうえに、男性裸身の表象が顕著に多いわけだが、ぼくは、ここでとりあげた映画を同性愛とは思っていない。
強いて言えば、男だったら誰しもが抱えている、同性愛的欲望のドラマ。本当は男が好きなくせに、男はそれをカムフラージュしなくてはならない。ハリウッド映画の異性愛主義・同性愛嫌悪の抑圧のなかで、隠さざるを得ない同性愛性……それが、ぼくが関心を持っているところである。


と述べられているので、この点をご理解ください。
ただ、僕が同性愛者としての自己認識を持っているので、どうしてもこの本を読みながら自分のセクシュアリティと向き合う結果となります。

そういえば、後書きに伊藤公雄さんの名前が挙っていました。國友さんが『マッチョになりたい!?』を著すにあたって、伊藤さんの協力が大きかったそうです。
我が国における男性学の祖は、『脱男性の時代』を著した渡辺恒夫さんだと僕は思っていますが、伊藤公雄さんを男性学の祖として認識されている方も多いようです。
現在、巷に流布している〈 男性学 〉の書籍には彼の著作も多いです。
僕も何冊か読んだのですが、國友さんの本のような、共感と興奮とカタルシスはありませんでした。
この差はいったい何なのでしょう。自己理解のために興味がありますね。

『男は痛い!』然り、『マッチョになりたい!?』然り、國友さんの文に共感できるのは、やはり境遇が似ているせいなのかもしれません。
第2章のところで、〈 当事者カウンセリング 〉という語が出てきましたが、僕は國友さんの文章を読むことで、結果的にこれを実践しているのかもしれませんね。
魂が解放されて、少しラクになったように感じているのかもしれない。
いずれにせよ、『マッチョになりたい!?』は、僕にとってはすごく貴重な本だと感じました。
『男は痛い!』に続いて、いい出会いができました。
近いうちに、國友さん宛に感想とお礼を差し上げられたらいいなあなどと考えている今日この頃です。
「素敵な本をありがとうございました!」とお伝えしたいですね(^^)

とりあえず、続きもじっくり味わいながら読み進めようと思います。
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『男は痛い!』(國友万裕)に共感

2013-12-17 23:56:53 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
近頃は、同性愛についてのことよりも、むしろ、

〔 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動 〕

といった語句に関わる記事の更新が多くなっています。

マスキュリズム(masculism) = 男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動。フェミニズムの対置概念。〈男尊女卑〉という意味では用いていませんので注意してください。

※ 女災(女性災害) = 男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害。兵頭新児氏 による造語。


「書きたい記事を書く」という方針でやった結果なので、僕が今書きたい記事はこっちのテーマなんだなあと、自己理解しています。

さて、今日は手短に、とある連載の紹介をさせていただきます。

それは、國友万裕さんの、『男は痛い!』という連載です。

國友さんは、関西の大学で非常勤講師をされている方のようです。
ご専門は、アメリカ映画・文学・ジェンダーとのこと。

対人援助学会 の発行する 対人援助学マガジン に掲載されています。
製本された冊子としての入手は出来ないようで、webページからPDFファイルを閲覧する方式のようです。
(ダウンロードやプリントアウトは出来るので、自宅のプリンタで印刷して綴じることは可能)

以下、2013年12月時点で読める分のリンクを貼っておきます。
リンク先はPDFファイルなので、PDFファイルを閲覧できる環境にてアクセスしてみてください。

※ 2014年6月19日、第10回と第11回のリンクを追加
※ 2014年11月21日、第12回のリンクを追加
※ 2014年12月24日、第13回のリンクを追加
※ 2015年6月17日、第14回と第15回のリンクを追加
※ 2017年1月3日、第16回~第21回のリンクを追加

『男は痛い!』(國友万裕)

第1回〈悪人〉 (2011年12月15日発行の 第7号 に所収)

第2回〈象の背中〉 (2012年3月15日発行の 第8号 に所収)

第3回〈ノルウェーの森〉 (2012年6月15日発行の 第9号 に所収)

第4回〈フライ・ダディ・フライ〉(2012年9月15日発行の 第10号 に所収)

第5回〈僕達急行 A列車で行こう〉 (2012年12月15日発行の 第11号 に所収)

第6回〈メゾン・ド・ヒミコ〉 (2013年3月15日発行の 第12号 に所収)

第7回〈電車男〉 (2013年6月15日発行の 第13号 に所収)

第8回〈棒たおし〉 (2013年9月15日発行の 第14号 に所収)

第9回〈HK/変態仮面〉 (2013年12月15日発行の 第15号 に所収)

第10回〈アフタースクール〉 (2014年3月15日発行の 第16号 に所収)

第11回〈告白〉 (2014年6月15日発行の 第17号 に所収)

第12回〈テルマエ・ロマエ〉 (2014年9月15日発行の 第18号 に所収)

第13回〈大阪ハムレット〉 (2014年12月15日発行の 第19号 に所収)

第14回〈あぜ道のダンディ〉 (2015年3月15日発行の 第20号 に所収)

第15回〈ハッシュ!〉 (2015年6月15日発行の 第21号 に所収)

第16回〈ペコロスの母に会いに行く〉 (2015年9月15日発行の 第22号 に所収)

第17回〈龍三と七人の子分たち〉 (2015年12月15日発行の 第23号 に所収)

第18回〈さよなら渓谷〉 (2016年3月15日発行の 第24号 に所収)

第19回〈起終点駅 ターミナル〉 (2016年6月15日発行の 第25号 に所収)

第20回〈ハッピーアワー〉 (2016年9月15日発行の 第26号 に所収)

第21回〈ビリギャル〉 (2016年12月15日発行の 第27号 に所収)

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この連載を僕が発見したのは、つい最近のことです。
google で何気なく検索をしていたら、たまたま 第1回〈悪人〉 がヒットしたのです。

さっそくPDFファイルを読み進めてみると、「おお!僕の心の叫びがここに書かれている!!」という興奮の連続でした。

ここ数日の間に、第1回から第9回まで、噛みしめるように、でも興味に誘われるままに一挙に読み切りました。

吐きだしてしまいたい、でも、上手く言葉(文章)にできない…。
そんな僕のもやもやした思いが、辛い気持ちが、心の叫びが、形になっているのを目の当たりにして、驚きました。
こういうのを、〈 カタルシス 〉と言うのかなあと、しみじみ思いました。

カタルシス = 対処困難な衝動・欲求・感情、あるいはその葛藤などを、言語的または非言語的に表現することを通じて意識化、発散することで、症状や問題行動が消失する現象

かつて、正しいオトコのやり方―ぼくらの男性解放宣言(フランシス バウムリ著,下村満子翻訳,学陽書房) に出会ったときもそうでした。
僕が如何ともすることのできない、辛く苦しく憤ろしく哀しく切ない、声にならない叫びを、あの本に出てくるアメリカ人の男性たちは、言語的に表現してくれました。
特に、『正しいオトコのやり方』に所収されている一篇、『氷河期の子ども』の執筆者である、M.アダムス氏にはどれほど共感したことか。僕の言いたいけれど上手く言えないあのことやこのことを、アダムス氏はクリアーにまとめてくれていたのです。僕は、まず頭で理解できることで落ち着く性分です。だから、まずここで少し安らぐことができました。
そして、「僕とすごく似た感覚を持った人がここにいた!」「彼も僕と同じような辛さや苦しさや憤りや哀しみや切なさに囚われていたんだ」「僕はひとりぼっちじゃないんだ!」という安心感を得ることが出来ました。会ったこともない、遠いアメリカのアダムス氏に、今でも僕は感謝しているのです。
当然ながら、著者のフランシス・バウムリ氏や、日本語に翻訳してくださった下村満子氏にも頭が上がりません。

もちろん、完全に、辛さや苦しさや憤ろしさや哀しさや切なさが消失したわけでは決してありませんでした。
(だからこそ、今こうしてこの記事を書いているのですから…)
でも、ラクになったのは事実です。

この『正しいオトコのやり方』は、かなり古い本です。僕がまだ幼児だった、1990年代初頭に出版されたものですから。
これほど古い本しか、僕の心を潤してくれる本が無いというのが現実です。
(古い本ですが、『正しいオトコのやり方』は名著です。今から読む価値も充分ある本だと思います。主に1980年代のアメリカの話ですが、今の日本でもあてはまることが多いのです)

そんな中、偶然出会った、國友万裕さんの『男は痛い!』は、
かつて僕が『正しいオトコのやり方』に出会ったときと匹敵するくらいのカタルシスを与えてくれました。

國友さんは、中学生のときに辛い体験をされました。
ずーっと一貫して、女子生徒たちに「気持ち悪い」などと蔭で罵られ続け、執拗かつ計算ずくの嫌がらせを受けた経験は、いまだに彼の中に深い傷となって刻まれているようです。
國友さんにこのような仕打ちをしたのは、すべて女子生徒であり、男子生徒から罵られたり嫌がらせをされた経験は無いそうです。

これは僕と重なる部分があります。
僕も(このブログで度々書いているとおり)「女子にいじめられる男子」でした。
僕のことを気持ち悪がったり、忌避したり、嫌がらせをしてきたりしたのは、ほとんどが女子生徒でした。
(男子生徒からのいじめも少し経験しましたが、短期のもので、当人からのきちんとした謝罪も受けました。一方、僕の心を踏みにじった女子生徒たちは、誰一人として謝罪をしていません)

國友さんの受けてきた苦難と比べれば、かなり度合いの軽いものですが、今でも思い出すと、フラッシュバックを起こしそうになることもあります。
そういう経験から、僕は、〈 女の暴力性 〉の恐ろしさを身に滲みて知っています。國友さんもきっと同様でしょう。
僕は、そして彼は、兵頭新児氏の言うところの〈 女災 〉の、紛い無き被害者なのです。

でも、いくらそのことを訴えても、誰も耳を傾けてはくれません。むしろ心ない攻撃を受けて、余計に傷つくことになるのがたいていです。そのことを、僕はよく承知しています。だから、いつもいつも思いを抑圧して生きています。
どれだけ辛くても苦しくても憤ろしくても哀しくても切なくても、一人きりで抱え込んで、ずっと生きてきたのです。

〈 ジェンダー 〉などの事柄に意識など向けていない、ごく一般的な方々にどんな反応をされても、「まあ仕方ないよ」と思える部分があります。
でも、そうでは無い人たち =ジェンダーの知識のある人,ジェンダーについて研究している人など= からの心ない言葉や攻撃は、あまりに哀しいです。
例えば、國友さんも『男は痛い!』の 第9回 の中で、

「それは一部の女性のしたことですよ」
「そんなことばかり思い出していたら、憎しみが余計に大きくなって行っちゃいますよ」
「あなたが女に負けたくないという意識をもっているからじゃないの。男性優位主義思考を治せば、いいんじゃないの」
「男の人は見えない権力を握っているんですよ」
援助をしている人たちがこんなことを言うのである(怒)!!!
こんなことを言われても、ぼくのトラウマが治るわけがない。むしろ感情を否定され、余計にぼくは傷つくことになる。


という記述をしています。
最初のと最後のは、僕も言われた経験があります。いずれもフェミニストの発言でした。
弱虫な僕は、完全に心を打ち砕かれ、もはや何も言い返せませんでした。今でも悔しいです。

國友さんは、これらの言に対して、反論を記しています。
概ね僕の言いたいことと一致しています。
これをあの人々に言い返したかったです。何より、考えて欲しかったです。たぶん気づいていないだろう己の暴力性を自覚して欲しかった…。

少し長くなりますが、こちらも引用してみます。
下線や色づけ等は僕の強調したい部分に適宜施しています。

それは一部の女性のしたこと?
それを言うのだったら、セクハラだって、DVだって、一部の男のしたことに過ぎないのでは?
だけどフェミニストは、あたかも全ての男性のしたことであるかのように男を批判してきたのでは?
痴漢だって一部の男がしているに過ぎないのを、男は全部、女性専用車両には乗せてもらえないのだ。
ぼくを傷つけたのが1人や2人の女性だったら、一部の女性の問題と言われても仕方がない。しかし、ぼくは 複数の女性集団から そういう目に遭わされている。したがって、女性への恐怖というよりも、女性性への恐怖がぼくのなかには根付いている のだ。


(引用者註 : 「女性性への恐怖がぼくのなかには根付いている」というのがとても興味深い。僕もたぶんそうだったんだ。女性が怖いと言うよりは、彼女らが内在化している女性性が怖かった。だから、あまり女性性を表に押し出してこない女性には、恐怖をほとんど感じなかったのだろう)

そんなことを思い出していたら憎しみが大きくなる??
ぼくだって、憎しみを消そうと懸命に努力してきた。しかし、憎しみから目をそむけても憎しみは消えない。そうであるのならば、徹底して憎しみと向かい合うしかない。ぼくにとっては、いたし方のない選択だったのだ。


(引用者註 : ずっと目をそむけてきた、というよりは、蓋をして見ないようにしてきたのが僕だ。でも、辛さも苦しさも憤ろしさも哀しさも切なさも、やっぱりずっと心に引っかかったまま消えない。結局は、直面するしかないのだろう )

男性優位主義???
ぼくが、男性優位主義と思っているの!?
もし仮にぼくが男性優位主義の価値観をもっていたとしても、女は何をしても許されると言うことにはならないのでは?
ぼくが女の子からいじめられていた頃、早くに親に相談していたら、不登校までにはならなかったはず。
ぼくが言えなかったのは、男性優位主義ではなく、男性差別のせい。
男は女よりも強くなくてはという価値観 があるから、「男のくせに女にいじめられる奴があるか!」と言われることは目に見えている。
余計に自尊心を傷つけられる ことはわかっているから、ぼくは誰にも言えなかったのだ。


(引用者註:「男は女よりも強くなくては」という価値観は、たいていの人の中に自然と内在している。男性でも女性でもだ。僕の中にもたぶんある。だから、「男のくせに女にいじめられる奴があるか!」と他者に言われる苦しみもあるけれど、自分自身で無意識のうちにその言葉を己にぶつけて傷つけていた側面もあるかもしれないとふと思う。そして、これは、女性に被害を受けた男性の多くが、1人ですべてを抱え込んで苦しまなければならない現実に、大いに関連がある。男性DV被害者の救済なども、この点をよくよく考慮しながら行わなければいけないと思う)

男の人は権力を握っている????
ぼくはこれまで結婚もしていないし、仕事もずっと非常勤を貫いてきた。これからもおそらくそうなるだろう。女性に権力をふるったりできるような立場についたことは一度もない。
いつだって女性に気を遣って、小さくなって生きてきたぼくが、ただ生物学的に男だという理由で、権力者扱いされるのは筋違い である。


(引用者註:僕に向かって「あなたは男であるというだけで特権階級なのよっ!」とまくし立ててきた方に、この言をそのままお伝えしたい。僕がいったい何を持っているというのだろう。具体的に列挙して教えて欲しい。その殆どを僕は持っていないし、欲してすらいないと予想する。そうだ。〈 権力 〉とか〈 特権 〉など、僕はそもそも欲していないのだ。慎ましく、ささやかでも、平静に、ひっそりと生きていければいいと考えている。ゲイだからというのもあるが結婚もしない。乏しい体力の僕は、キャリアを積んでバリバリ働くという生き方はできない。そんな僕も、ただ生物学的に男だという理由で、権力者扱いなのだろうか。まったく納得できない)

國友さんの筆致はなかなかに力強い。けれど、その後ろに、わなわなとうち震えている彼の姿が見えてくるような、そんな痛々しい文面になっていると感じました。
このような辛辣な内容を書き、辛かった体験のことも含めて自己開示をされた動機については、以下のような記述がありました。
再び引用です。

ぼくは辛酸をなめるような経験をした。女性によって心を壊された。それを女性にぶつけることで、ぼくは彼女たちに 気づいて欲しい と思っている。
15 年ほど前にあるフェミニストから、「男の人は何気ない気持ちでしていることであっても、女にはセクハラと感じられることがあるのよ。」と言われたことがある。
それを言うのならば、逆もまた真なり。
女の人が何気ない気持ちでしていることが、男を深く傷つけることだって、絶対にあるはずなのだ。
今回の発表は、女性に喧嘩を売るためではない。あくまでも女性に理解してもらうため、そして、もうぼくみたいな不幸な男を生み出さないため の女性批判である。


何気なく、気にもとめずにした発言や行動が、思いがけず他者を傷つけることがあります。
これは、傷ついたと感じた方が表明しなければ、永久に気づかないままになります。
気づいてもらうためには表明をしなければ始まらないわけです。
その表明をした結果が、上述したような惨事なのが、実に哀しい限りなのですが…。
國友さんのスタンスは、あくまでも、「気づいて欲しい」,「理解して欲しい」というところにあります。
きちんと対話をして、相互理解をして、問題を解消していきたいという、願いが伝わってきます。
そして、それは僕の望むところと一致しています。

こちらとしては、自分が最善と思う方法で自己開示をするまでです。
(僕の場合は、その前に自己理解が必要なのだと思いますが…)
ただ、それをどう受け止めるかは相手次第なので、結局のところ不毛なことなのかもしれません。

國友さんも、

上手く行けばいいけどなあー。
今、ぼくは不安1割に期待1割、そして、誰もわかってくれないのではないかというあきらめ8割の混じり合った気持ちの中にいる。おそらく誰もわかってくれないというのがぼくの偽らざる予想なのだ。


と述べています。

僕や、僕と同じような境遇・感性・思考回路等の持ち主が、少しでも幸せで、生きやすくなっていくためには、いったいどうしたらいいのでしょう。

もしかしたら、一生かかっても終わらない仕事なのかもしれません。
まあ、死んでしまえば、生きやすさも何も無いのですが。

『男は痛い!』では、他にもいろいろな話題が取り上げられています。

例えば、中学生のとき、暴君のような体育教師に、上半身裸での体育授業(男子生徒全員)を強要されたというエピソードが出てきます。
厳寒の時期でも、グラウンドでも体育館でも、校外へ出てのマラソンでも、全員短パン1枚だけの姿でやらされたそうです。
〈 寒さ 〉と〈 羞恥 〉に耐える、強くたくましい男に育てようということなのでしょうか。

「男子だけが(半)強制的に裸にさせられる」という場面は、日本ではかなり見受けられます。
確かに、そのことについて特段抵抗を持たないという男性も、結構いると思います。
でも、男性・男子の中にも、身体の弱い者は当然居ますし、羞恥心の強い者も居ます。
かれらに(半)強制的に、半裸を強いるというのは、僕はやはり問題だと感じます。

男性の性的羞恥心が無視あるいは著しく軽視されているというのは、厳然たる事実です。僕はこれは明らかに男性差別だと思います。
「男子だけ(半)強制的に裸」もそうですが、「男子だけ更衣室が用意されない」などのケースも同様です。
しかし、男性・男子が、性的な羞恥心をうったえることに対する風当たりは、なかなかに強いものがあります。
「男は恥ずかしがってはいけない」という規範もまた、多くの人が共有しているものだと思います。その規範から外れた者は、「男のくせにそのくらいで恥ずかしがる奴があるか!」と罵られることになります。
そのことが分かっているから、多少、羞恥心を持っていたり、疑問を感じていたりしても、たいていの場合はガマンしてしまうわけです。
羞恥の度合いが著しく強くて、どうしてもガマンできないという人は、意を決してそのことを吐露し、裸の羞恥を回避した代償として、罵りを受けることになるのです。

男性の性的羞恥心の問題については、いずれこのブログでも取り上げてみたいです。

第1回〈悪人〉 の第1節は、〈 男尊女卑という名の男性差別 〉 という題名になっています。
これもまたたいへん興味深くて、僕に示唆を与えてくれました。
こちらもいずれブログで詳しく取り上げてみたいです。
ここでは、おおよそ要旨が分かる部分の引用に留めます。

体罰に耐えろ! 上半身裸になれ!! 家族を食わせんといかん!!!
こんなことを女子が言われるだろうか。男であることは理不尽だ
九州が、男尊女卑であることは事実だと思うが、男尊女卑であることはむしろ男にとって悲劇だ
男は家畜のような扱いを受けるのに、一方で、男は女よりも偉いんだという価値観を内面化していなくてはならない。
なんという矛盾。


この記事も、長く、とりとめもなくなってきたので、このあたりで擱筆します。

〔 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動 〕

に興味・関心のある方、『男は痛い!』を一読してみてくださいねー(^^)

※ 國友さんは、本も出されています。『マッチョになりたい!?』という本です。僕がこの本について書いた文章は、こちら から読めます。御参考まで。

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