Nikkoh の 徒然日記

ゲイ(=男性同性愛者)の Nikkoh が、日々の雑感やまじめなこと、少し性的なことなどを、そこはかとなく書きつくります

ご案内

Nikkoh のブログへようこそ。
ゲイ(男性同性愛者 / ホモセクシュアル)の Nikkoh が、徒然なるままにいろいろ書いてます。
マスキュリズム / メンズリブ にも関心があり、調べたり考えたりしています。
※ マスキュリズム(masculism) = 男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想・運動。フェミニズムの対置概念とされますが、僕は、並置概念と言いたいと思っています

--------------------

《 ご理解ください 》
・ ここのブログは同性愛者が運営しており、同性愛の話題がたくさん出てくるブログです。また、管理人はマスキュリズム / メンズリブ にも関心を持っており、それらに関する記事も多いです。その点をご承知の上でご覧ください。(各人の責任で、読む記事を取捨選択してください)

・ 誹謗中傷や攻撃ではないコメントは大歓迎です。ただし、承認制のため、反映が遅れることがあります。また、コメントを承認するかしないかは、管理人の判断で決めます。

・ 公開されては困る私信は、ブログ左上の「メッセージを送る」ボタンからお送り下さい。その際、メールアドレスを入れてくださればお返事を差し上げることも可能かと思います。
(必ずお返事を差し上げるという意味ではないのでご了承下さい)

書籍・webサイトの紹介

同性愛やセクシャルマイノリティに関連した書籍・映画の紹介は、 こちら をご覧ください!

弱者男性問題,男性差別問題,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放運動 に関連した書籍・webサイトの紹介は、 こちら をご覧ください!

--------------------

ご案内の続きは、 こちら をご覧ください!

男性浴場を女性が清掃する件について(記事紹介)

2022-08-11 00:05:09 | 男性差別 IV (性的羞恥心のこと)
NHKが、マスキュリズムに関連して、とても意義深い記事を掲載してくれていました。 
男性用の大浴場を女性スタッフが清掃する件について取り上げています。 
貴重な統計も載せられた良記事だと思いますので、紹介させていただきます。

“本当はイヤなのに 男湯・男性トイレに女性清掃員 なぜOK?” | NHK | WEB特集

【NHK】男湯を女性従業員が清掃することを気にする意見が寄せられています。業界の対応などを調べました。

NHKニュース

 


“本当はイヤなのに 男湯・男性トイレに女性清掃員 なぜOK?”(2022年7月1日 19時48分)
「女性差別がよく問題になりますが、男性差別があります。男湯、男子トイレに女性の従業員が入ってくることです。その逆は許されないのに、なぜこの件は許されるのでしょうか」
男子高校生がNHKに寄せてくれた投稿です。
「確かに…」と思いつつ、女性の私(記者)、そもそも男湯をどのくらい女性従業員が清掃しているのかわからなかったので調べてみることにしました。
すると興味深いデータや、変化の波が見えてきました。 

◆ 『男だから気にするな』って言われても…… 
NHKの情報提供窓口「ニュースポスト」に投稿を寄せてくれたのは、栃木県の高校3年生の男子生徒です。
冒頭に紹介した内容に続いて次のように記されていました。
「部活帰り友達と銭湯に行きました。その時服を脱いでいたら目の前を女性の従業員が横切りました。友達と『中にいたら嫌だね』と話していて、頭を洗い始めていたら横から女性の従業員が来て僕の所にあったシャンプーを詰め替え始めました。本当に恥ずかしかったです。これを逆の立場で想像してみてください。こんなことがあったら世間では大炎上ですよね?男子トイレもそうです。男性がトイレで用を足している時に後ろには女性がいる。なぜ男性は我慢しなければならないのでしょうか」
早速、男子生徒に連絡を取ってみると、昔から男子トイレや男湯に女性の従業員が入ってくることはよくあったものの、中学生くらいから気になるようになったといいます。
駅のトイレや銭湯で経験し、それぞれ改善を求めましたが見直されなかったといいます。

男子生徒 「本当に恥ずかしかったです。苦情を入れたけれど何も変わらない。『男だからそれぐらい気にするな』という風潮が日本にあるからかもしれませんが、男性利用者が不快と感じていること自体、問題だと思います」

◆ “男湯を女性スタッフが清掃” 44%の施設で
私自身が女性のため肌感覚ではわからないのですが、実際にどのくらい女性の従業員が男湯の清掃をすることがあるのでしょうか。
どこかで把握していないかと取材を進めていくと、全国のスーパー銭湯でつくる「温浴振興協会」が2019年にアンケート調査を取っていました。
それによりますと、回答のあった118施設のうち、44%にあたる52施設で女性従業員が男湯を清掃していると答えました。

男性浴室清掃に入るスタッフ 118施設回答
・ 男性 56%(66施設)
・ 女性 44%(52施設)

もちろん、女性従業員と答えた施設でも、男性従業員ができる時は対応しているそうです。とはいえ、銭湯にいったら2分の1に近い確率で女性の従業員が清掃しているとなると、気になる人は落ち着いてお風呂に入っていられないかもしれません。
一方で取材中、銭湯に勤めている70代の女性従業員から「おばあさんでも異性の風呂を掃除するのは緊張していたので、男湯を男性が掃除するようになった時、ホッとしました」という声も聞かれました。
清掃する側も負担に感じている人がいるようです。

◆ 集まり始めた『男性だって恥ずかしい』の声
こうした中、温浴振興協会には、男性利用者から女性従業員が男湯を清掃しないでほしいという意見が寄せられているといいます。

温浴振興協会 理事 「最近協会にも頻繁に、恥ずかしい、なんとかしてくれとメールが来ます。具体的には『男湯に女性が入ってきて恥ずかしかった』とか、『男だからいいのか』とか、中には夫が外国の方で一緒に風呂に来た妻から『夫が風呂にいたら女の人が入ってきてびっくりしていた』という意見も寄せられました。当然ですが、男性でも異性に見られたくない人はいると感じます」

利用者の意識の変化を感じてきた協会では、男性利用者へのアンケート調査も行いました。

男性脱衣所・浴室の清掃は(男性1348人に調査)
▼男女気にしたことがない  50%(674人)
▼男女どちらでもいい    20%(270人)
▼できれば男性従業員で行う 25%(337人)
▼必ず男性従業員で行う   5%(67人)

1300人余りの男性利用者へのアンケートでは、「気にしたことがない」が半数、「どちらでもいい」が2割でしたが、「できれば男性従業員で行う」「必ず男性従業員で行う」という回答もあわせると3割を占め、男性利用者の3人に1人は、同性に清掃してほしいと感じていることが分かりました。

◆ 時代とともに男性も声をあげられるように
この結果について、性差別の問題に詳しく男湯に女性従業員が入ることを規制してほしいと声を上げている森立(もり・りゅう)弁護士に話を聞きました。

森立弁護士 「潜在的に3割の男性が恥ずかしさを感じているのは多いと感じます。性別に関する問題というと“女性が差別される側”とか“女性の置かれた状況の改善が必要”という方向で語られがちだったと思いますが、女性が声を上げやすい世の中になってきたことで、男性も我慢してきたことや抱えてきた違和感に対し声を上げやすくなってきたのではないでしょうか」

◆ 利用客の声を受け…変わりはじめたスーパー銭湯
こうした中、業界では変化の動きも出てきています。 
埼玉県のスーパー銭湯ではオープンから16年間、清掃は女性従業員の仕事で男湯も女湯も女性が清掃してきました。しかし、利用客からの声を受け、2年前から改善を重ねてきたといいます。

店長 「20代から30代ぐらいの男性のお客さんから、女性による清掃は何とかならないかとご意見いただいていました。何度も仰る方もいて、そこまで苦情を入れてくるということは、うちのお湯が気に入ってもう一度来たいという思いの裏返しではないかと感じました。そうした方たちが女性が清掃していることでハードルになって入れないのはもったいないですし、今の風潮にあった運営にしなければいけないと思ったんです」 

そこで行ったのが、従業員の配置転換です。コロナの影響をうけて砂蒸し風呂を廃止したこともあり、砂かけを行っていた5人の男性従業員に男湯を清掃してもらうことにしました。
その結果、全ての営業時間の8割で男湯は男性従業員が清掃するようになりました。
平日は1時間に1回は掃除に入り、洗面台、床の掃除、カラン周辺の片づけ、サウナマットの取り替えなどをしているといいます。これが土日だと30分に1回は入るそうです。
土日は全て男性が行うように見直し、平日も男性が必ず入っているそうですが、それでも午後3時から6時の時間は人手が薄く、営業時間の2割は今も女性が対応しているといいます。
そこで当面の対応として、女性従業員の清掃に抵抗がある人には、なるべく配慮をするので事前に受け付けに申し入れてもらうよう掲示を入り口に設置しました。
「当館は衛生管理上、女性スタッフが男性浴場にも出入りをいたしております。望まないお客様には、極力出入りをご配慮いたしますので、事前にご利用時間を受付にお伝えください」

◆ 男性従業員も女性従業員も確保 人件費で難しさも
一方で、これ以上男性スタッフを確保することは容易ではないといいます。
男性が足りない時間帯に、新たに雇うとなると年間の人件費は180万円~200万円必要になるそうですが、コロナ禍で利用客が減ったことに加え、昨今の物価の上昇が経営を圧迫していて、簡単に増やせる固定費ではないといいます。

店長「そもそもこの商売は売り上げの10%も利益が出ません。コロナ前まで利用客が戻っていないのに加えて、宴会などの利用もなくなりました。資材も高騰しており、赤字にならないように経営するのが精一杯で、これ以上は人員を増やせず悩ましいです」

◆ 男性トイレの清掃は?外国人からの要望で変化も
では、「男性トイレ」の清掃はどうなっているのでしょうか?7割が女性従業員だと言われているビルの清掃について港区に本社があるビルのメンテナンス会社に話を聞きました。

「女性従業員が男性トイレに清掃に入ってくるとギョっとするという声は、外国人の利用者から多く寄せられていました」

この会社では、東京オリンピックで多くの外国人が来ると見込まれたことをきっかけに、男性従業員による清掃を希望している外国人が多く働くビルのトイレ清掃は男性が行うことにしました。
新たに5人の男性従業員を確保。
慢性的な人手不足の業界で、男性従業員が増加すればさらに事業を拡大できます。
男性従業員による男性トイレの清掃を求めるビルは他にもあるだろうと、他のビルの管理会社にも提案しましたが、返ってきたのは思いもよらないことばだったといいます。

「てっきり喜んでもらえると思っていたら、『綺麗に掃除してくれるだろうから、女性にやってほしい』と言われてしまうことがありました。男性従業員も同じ様に育成しているので実際には綺麗になるのですが、イメージの問題が大きい。実際にトイレを使う人からは『男性がいい』という要望があることを、管理会社やオーナーがもっと理解してくれればいいのですが……」 

◆ それって当たり前?男湯と男性トイレから見る“いま”
今回、NHKに寄せられた男子高校生の投稿をきっかけに取材を進めてみると従業員の確保の問題や、人件費といった課題に加えて、「男性なのに気にするな」といった風潮や「清掃は女性の方が…」といった先入観が壁になっていることが見えてきました。
利用する側も働く側も、心地よく安心できるようになるにはどうしたらいいか、こうした声を受け止め変わっていく必要があるのではないかと感じました。
NHKの情報提供窓口「ニュースポスト」では“当たり前”への違和感や身近な困りごとについても、皆さんからの情報をお待ちしています。

---------------------------------------------------- 

以上です。いかがでしょうか。 

公衆浴場の脱衣場や浴室は、"異性の存在を前提としない場" です。そこへいきなり異性が入ってくることは、本来はあってはいけないことだと思います。 
しかし、それが男性に対してはまったく担保されていないというわけです。

温浴振興協会が行ったアンケート調査結果によれば、「気にしたことがない」が5割,「男女どちらでもいい」が2割ということで、約7割の男性が脱衣所や浴室の清掃を女性が行っても平気ということのようですね。たとえ少数派だったとしても、男性の性的羞恥心を踏みにじっていいということにはなりません。 

もっとも、この回答には年代による差が出てきそうだなと思います。若い世代のほうがより羞恥心が強い傾向があり、女性スタッフによる清掃により強く抵抗感を持つのではないでしょうか。この記事が書かれるきっかけを作ったのも高校生でしたし、温浴施設へ是正するように意見を出す男性も20~30代の方が多いようです。 

また、「男は恥ずかしがるべきではない!」とのジェンダー規範による抑圧の影響 も無視できないでしょう。意識していたとしても意識していなかったとしても、程度の差こそあれ、すべての男性がこの抑圧下で生きています。男性としてこの世へ生を享けたその瞬間からです。そのため、本当は女性スタッフが脱衣場や浴室へ入ってくることに対して羞恥心があり、不快感を抱いているのだとしても、それを表出できない男性も実のところ多くいると予想します。潜在的には、もっと多くの男性が不快感を持っているのかもしれません。
(性的羞恥心が麻痺してしまっている男性も多く居るのではないでしょうか。これもジェンダー抑圧の結果ではないでしょうか) 

羞恥心を公に表出することが社会的に許されており、羞恥心に対する配慮が当たり前のように行われるというのは、いうなれば女性の "特権" です。 
女性の性的羞恥心に対する配慮は誰しもが当然のように行うし、もし不十分であれば女性が直ちに声を上げ、基本的には速やかに是正されるようになっています。  

それに対して、羞恥心の表出が許されず、羞恥心に対する配慮をほとんど受けられないのが男性です。ジェンダー抑圧により性的羞恥心の表出じたいを禁じられているため、問題視すらされません。勇気をもって声を上げる人が現れても、その人を待ち受けているのは苛烈なバッシングあるいは無視です。
(ジェンダー規範に縛られた男女からのバッシング,性的羞恥心が麻痺している男性からのバッシング,羞恥心に対する配慮を男性が求めることを許したくない "特権" の上に胡坐をかいた女性からのバッシング……… etc.) 

しかし、この社会は少しづつですが変わってきているようにも感じます。 
声を上げる男性が確実に増えてきています。これが一番大きいです。臆せず声を上げる人が増えれば増えるほど、問題が認知されるようになるからです。  
「男性が恥ずかしがっても良い」「男性だって性的羞恥心への配慮を求めて当然」という感覚が社会の常識となる日が、遠くない将来には訪れたらいいですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男子には更衣室が用意されなかったことに対する投書

2018-07-26 09:03:47 | 男性差別 IV (性的羞恥心のこと)
( ※ 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動などのキーワードにアレルギー反応を起こす方は、お読みにならないことを推奨します )

男性の性的羞恥心が軽視あるいは無視されてしまう問題 は、マスキュリズム(男性差別に反対する思想・運動)で取り扱うべき重要な問題の1つです。

2018年7月24日付の読売新聞に、中学生の投書が掲載されました。
全文を引用します。

-------------------------------

『男子着替え 見られていいのか』 14歳 中学生

剣道大会に行った時のこと。
男子は大会会場の観覧席で、女子は更衣室で着替えることになった。
「男子は着替えを見られても構わない」のだろうか。
日本はよく「男尊女卑」の社会だと言われる。
しかし、男性が女性に年齢や電話番号を聞けばセクハラ認定されるのに、その逆はあまり聞かない。
もちろん、女性に性的な発言をすることは慎むべきだ。
だが、今のままの流れだと、やがて「女尊男卑」の社会につながってしまうのではないか。
男女が同じ立場で扱われることを望みたい。

-------------------------------

今でもこういうことが起こるのですね。残念な話です。
性的羞恥心は男女ともにあるので、等しく配慮されるのが当然だと思います。
更衣室が1つしかないのだとしたら、例えば時間をずらして利用することはできないのでしょうか。
あるいは、他の部屋を更衣室として利用することはできなかったのでしょうか。

投書をした中学生が「男尊女卑」「女尊男卑」の語を使っているので、ここで不毛な論争が起こるかもしれません。

“尊”とか“卑”とかいうのは、価値判断であって、各人のとらえ方・感じ方によってずれてきます。
同じ状況を見ても、まったく反対のとらえ方・感じ方をする人がいます。

女子のみに更衣室が用意されていて、男子には更衣室が用意されない事象に対して、例えば以下のようなとらえ方・感じ方があるでしょう。

1)女子は性的羞恥心に配慮されて、更衣室が利用できる。男子の性的羞恥心は無視されて、更衣室が利用できない。
  つまり、女子は大切にされ(尊ばれ)、男子は粗末な扱いを受けている ⇒ 「女尊男卑」

2)男子はどこでも着替えることができるという特権を持っている。女子は着替え場所について制約を受ける。
  つまり、男子は自由度が大きく、女子は自由度が小さい ⇒ 「男尊女卑」


今回の投書をした少年は、1)のとらえ方で、「女尊男卑」と書いたのだと思います。
男子にも性的羞恥心があり、したがって女子と同じように配慮が必要であるという問題提起をしているのは明白です。

一方、2)のとらえ方をする人たちもいますね。
そういう人たちは、少年が「女尊男卑」という語を使ったことに反論したくなることでしょう。

男性から女性への性的加害が多くあるというのは、事実です。
そのため、女性は自分を性的被害から守らなければならず、制約を多く受けるというのはわかります。

ただ、男性が性的被害を受けることは無いのでしょうか?
そんなことはありません。男性もまた、性的被害を受けることがあります。

男性には性的羞恥心が無いのでしょうか? 
そんなことはありません。男性にもまた、性的羞恥心があります。

男性と一口に言っても色々で、性的羞恥心が強くない男性の場合であれば「どこでも着替えることができる」のでしょう。

しかし、性的羞恥心が強い男性の場合、そうはいきません。
性的にまなざされることに敏感な感性を持つ男性にとって、観覧席のような異性を含めた不特定多数の人の目にさらされる場所での更衣は、大きな苦痛となります。

そういった人たちに対しても、「男子はどこでも着替えることができるという特権を持っている」といえるでしょうか?

「性的羞恥心が強い人」という集合の中で、おそらく男性は少数者(マイノリティ)です。
女性の性的羞恥心には配慮されるが、男性の性的羞恥心には配慮されないということが多々起こります。
これは、性的羞恥心の強い男性がマイノリティだからなのだと思います。
他のマイノリティの問題と同じように、この問題も理解されづらく、いろいろな障壁があるでしょう。

※ ジェンダー論やフェミニズムの知識がある人、マイノリティの問題に取り組んでいる人でも、
 いやむしろ、そういう人だからこそ、性的羞恥心の強い男性を踏みにじってしまっている場面を多く目にします。とても残念な話です。
 性的羞恥心の強い男性が、不公平感を持つのは、当たり前のことです。
 女性は、自分たちが望んでもなかなか受けることができない配慮を受けることができるのですから。
 他のマイノリティの問題で、当事者が不公平感を持つのと、同じ構造です。
 この点を理解してほしいものです。
 (なかなか理解されないでしょうけれど。あるいは、理解しようとしないでしょうけれど)


今回の場合、「女子のみに更衣室が用意されていて、男子には更衣室が用意されない事象」があったのでした。
それを「男尊女卑」ととらえるか「女尊男卑」ととらえるかを、いくら議論しても不毛です。

僕たちが目を向けるべき点は、そこ(解釈)ではなく、

男子に更衣室が用意されないことで、不快に思ったり苦痛に感じたりしている人がいる

という事実です。

扱いに差があって困っている人がいるので、差をなくしましょうという、ただそれだけの話です。

冒頭で書いた通り、男子更衣室を用意したり、時間差をつけて男女で更衣室を利用したり、いろいろとやり方はあるでしょう。


☆ 関連記事(よろしければあわせてどうぞ)
 男子生徒への半裸強制に関する新聞記事(1) ~男性の性的羞恥心を考えるために~ 
 男子生徒への半裸強制に関する新聞記事(2) ~男性の性的羞恥心を考えるために~




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男子生徒への半裸強制に関する新聞記事(2) ~男性の性的羞恥心を考えるために~

2014-07-04 18:45:03 | 男性差別 IV (性的羞恥心のこと)

( ※ 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動などのキーワードにアレルギー反応を起こす方は、お読みにならないことを推奨します )

男性の性的羞恥心が軽視あるいは無視されてしまう問題 は、マスキュリズム(男性差別に反対する思想・運動)で取り扱うべき重要な問題の1つです。

男性の性的羞恥心の問題、あるいは、男性裸身のことに関しては、國友万裕氏が、著書『マッチョになりたい!?』や連載『男は痛い!』の中で多く言及され、考察を深めておられます。

マッチョになりたい!?: 世紀末ハリウッド映画の男性イメージ
國友万裕
彩流社


『男は痛い!』対人援助学マガジン における連載)

國友さん自身、中学生の頃に性的羞恥心を踏みにじられて、心に傷を負うという経験をされました。
だからこそ、この問題に取り組むことになったのでしょう。そして、そこに到までにはトラウマとの壮絶な闘いがあったことが予測され、僕は敬意を表するところです。

この記事では、前回 に引き続き、〈 男子生徒への半裸強制 〉の問題を取り上げます。
具体的には、〈 体育授業あるいは体育祭において、男子生徒が上半身裸になることを強いられた 〉という事実を報じた新聞記事を紹介します。
もちろん、僕自身の考えも書かせていただくつもりですが、一番大切なことは、紹介した記事をもとに読者の皆さんそれぞれに考えを深めてもらうことです。
フラットな気持ちで、各人において記事を咀嚼していただければ幸いです。

まず、問題について知って欲しい。考えてみて欲しい。そういう願いを込めて、記事を世に送ります。

前回の記事 を未読の方は、ぜひそちらも併せて一読をお願いいたします。

今回ご紹介するのは、2002年(平成14年)9月に、毎日新聞の〈 オピニオン 〉欄に掲載された、京都市在住の男子高校生による投稿です。
また、その投稿の内容をめぐって、2002年(平成14年)11月の同じ欄に、合計で3つの投稿が掲載されたので、それらもご紹介します。

元投稿:上半身裸の棒倒しはセクハラだ 高校生・17歳・男性
(毎日新聞,2002年9月30日付朝刊,5面)

僕は高校3年だ。この季節になると、とてもゆううつになる。それは体育祭で、棒倒しがあるからだ。男子生徒全員参加の伝統行事というが、どういうわけか僕の学校では、上半身裸にならなければならない。それが嫌なのだ。
なぜ、棒倒しを半裸でやらなければならないのか。必然性があるのだろうか」。そして上半身裸の僕たちを、女子生徒がうれしそうに、カメラで撮影するのである。
特別な理由もないのに、見せ物みたいに男子生徒を裸にする。こんな行事はセクハラではないかと僕は思う。女子生徒には、ノースリーブでさえ禁止しているのに。明らかな男子生徒への差別ではないか。友人の中には、棒倒しが嫌で、体育祭当日を欠席する者もいるほどだ。
こういったあしき伝統行事は、早急に廃止してほしい。


この投稿で、彼が訴えている問題は、大きく2点に分けることが出来ると思います。

第1の問題は、強制的に上半身裸にさせられることによる精神的苦痛です。
前回 書いたとおり、男性にも当然ながら性的羞恥心があります。特に、中学生や高校生といった思春期の時期であれば、なおさらデリケートです。
自分自身の身体にコンプレックスがある場合などは、人前で裸体をさらすことには、耐えられない苦痛が伴うことでしょう。
この投稿をした彼を、あるいは、体育祭を欠席する友人を、笑う人もいるのかもしれません。
しかし、これは笑い事ではないと僕は思います。当人にとっては極めて真剣で、重大な問題なのですから。
もちろん、際限のないわがままは集団生活の場においては慎む必要があるでしょう。でも、僕はこの訴えをわがままだとは思いません。彼やその友人の気持ちを大切にして欲しいと思います。

第2の問題は、女子生徒に撮影されることによる精神的苦痛です。
9割方は異性愛の女子生徒でしょうから、〈 うれしそうに 〉撮影する動機の中には、当然ながら性的な欲求があるはずです。
したがって、このような視線を向けられることに不快感を持った男子生徒がいたならば、ここに彼に対するセクシュアル・ハラスメントが成立すると思います。
性別とか性的指向とかに関わりなく、セクハラは起こりえます。
たまに逆セクハラという語を目にすることがありますが、セクハラに正方向も逆方向もありません。セクハラはセクハラです。

第1の問題についても、第2の問題についても、結局のところ、〈 強制性 〉があることが引き金になっている と考えます。
もし、〈 任意性 〉が担保されていれば、いずれの問題も回避することができるでしょう。本人の意志が反映される余地があるかどうか が重要なのです。
僕は、棒倒しを上半身裸で行うこと、それ自体を否定するつもりはありません。ただ、裸になりたくない人はならなくても済む(裸になりたい人だけがなる) ということを、しっかり保障することが必要なのだと思います。

--------------------

9月30日に掲載されたこの投稿に対して、しばらく経った11月に、反応がありました。
まず、11月12日に否定的な内容の投稿が掲載されます。
今度はそれを見てみましょう。

反応A:体育の半身裸はセクハラでない パート・41歳・女性
(毎日新聞,2002年11月12日付朝刊,4面)

最近、男性のセクハラに関する投稿が多い。「上半身裸の体育祭はセクハラだ」と男子生徒が言う。何でもかでもセクハラと言い過ぎではないだろうか。
埼玉県の男女共学のスポーツ強豪校に進学した娘の体育祭のビデオが届いた。体育科の男子は、体操服姿でのマスゲームだが、もし学校から「上半身裸に」との指示があれば親も生徒も従うだろう。
娘も「体育科にセクハラの言葉はない」とはっきり言う。むしろ裸を拒否して体育祭を休んでも容認される風潮に驚いていた。多少、嫌でも我慢してなし遂げることを、学校や親は求めないのだろうか。
娘の学校では、着替え一つでも女子優先だ。男子は屋外でも人目を気にせずに裸になれるが、女子は違うからだ。これも、最近ではセクハラになるのだろうか。男が細かいことを気にする時代になった。「男が弱くなった」と言われても仕方ないと思う。


まず正直なことを言わせていただくと、この意見文を読んで僕はかなり腹を立てました。また、たいへん悔しいような切ないような気持ちにもなりました。僕は、このパートの中年女性を知りませんし、会ったこともありませんが、この人のことを許せません。
はじめにそのことを表明しておいたうえで、反応Aについて考えてみることにしましょう。

第1に、『何でもかでもセクハラと言い過ぎではないだろうか』とか『多少、嫌でも我慢してなし遂げることを、学校や親は求めないのだろうか』という言について。この言が向けられる対象が、まず問題だと僕は思います。

もし、男女に関わりなく全ての人に対して向けられている場合、「男性であれ女性であれ、多少のことは我慢しろ」 という趣旨になります。僕はこの言に基本的には賛同はできないものの、一つの意見として納得することはできます。

一方、男性にだけ向けられている場合、「男だったら、多少のことは我慢しろ」 という趣旨になります。これは賛同も出来ませんし、納得もいきません。一番の問題点は、〈 我慢する 〉とか〈 耐える 〉という〈 男らしさ 〉を男性にのみ強いている点 です。これは立派なジェンダー・ハラスメントに該当します。
人間社会には痛みや苦しみや辛さがたくさんあります。したがって、当然ながら、男性も痛みや苦しみや辛さを感じながら生きています。こうしたものにどこまで〈 耐える 〉かということは、本人が決めることであって、周りが勝手に決めつけることではありません。

( 註 : 「男だったら、多少のことは我慢しろ」という発言については、僕の場合、それを発したのが男性なのか女性なのかによってまた少し感じ方が違ってきます。勿論、理屈としてはどっちも問題なのですが、僕の感覚としては女性からの言である方が圧倒的に不快です。この違いはどこから出てくるのでしょう。男性の場合は、彼もまた〈 我慢する 〉とか〈 耐える 〉という男らしさを背負って生きているのであり、その点で運命を共有しているともいえそうです。女性はそうではありません。もしかしたらこの差が影響しているのかもしれません )

反応Aを書いた、当時41歳の女性がどちらのスタンスなのか、この短文からは断言するのが難しそうです。ただ何となく後者なのではないかと僕は思っています。
男性に対してのジェンダー・ハラスメントを公然として憚らない女性は、何も珍しくはありません。本当に男女平等やジェンダーフリーを願うのならば、こうした女性たちの意識革命も必須でしょう。

第2に、『男子は屋外でも人目を気にせずに裸になれるが、女子は違うからだ』という言について。ここについても、僕は声を大にして異を唱えたいです。

『男子は屋外でも人目を気にせずに裸になれる』と断言されていますが、これは本当なのでしょうか。
実際の所、屋外で裸になることに対して抵抗を感じる男性というのも、結構いると思っています。
数としては、おそらく女性の場合より少ないのでしょうけれど、だからといって無視して良いということにはなりません。
とくに、〈 マイノリティに優しく 〉と掲げている方々は、こうした〈 性的羞恥心の強い男性 〉というマイノリティにも優しくしなければ筋が通りません。

ところで、こうした発言をする人の思考経路は、どうなっているのでしょう。

僕は、「男は屋外でも人目を気にせず裸になれるものだ」という定義付けが先行してしまっているのではないかと思います。
こうした人は、まず、現実の世界にその定義から外れた男性が存在することを直視するべきでしょう。そして、定義を現実に即したものに変更する必要があると思います。

第3に、『もし学校から「上半身裸に」との指示があれば親も生徒も従うだろう』という言について。
実際にそうなることも多々あるのでしょう。でも、よくよく考えてみれば、これは恐ろしいことなのではないでしょうか。
秩序や規範といったものの大切さは僕もよく認識しています。規範意識が崩れてしまい、秩序を失った集団は、瓦解への道を辿るでしょう。したがって、集団には一定の秩序や規範が必要なのだと考えています。
とはいえ、これは〈 判断停止 〉をしろと言うのとは違います。
もし理不尽な指示を受けたら、もしこれはさすがに耐えられないという指示を受けたら、そのときにはきちんと意志を表明できるのが健全なあり方だと思うのですが、どうでしょう。
学校教育は、社会生活を円滑に営めるようにするための鍛錬の場でもあります。その場で、「どんな指示にでも黙って従う」という〈 判断停止 〉を教えるというのは好ましくないでしょう。
むしろ求められるのは、秩序や規範の必要性をよく認識することと、その秩序や規範の妥当性を見極めていくこと、そして場合によっては意見を表明したり、修正を加えていくことではないでしょうか。
わがままは慎まなければなりませんが、あまりに理不尽な事柄や、あまりに耐え難いような事柄については、毅然と拒むということも大切だと思います。

--------------------

さて、この11月12日の投稿が火を付け、11月23日と11月25日にも関連した投稿が掲載されます。
順に見ていきましょう。

11月23日のものは、年配の男性からのものです。
1933年頃の生まれと思われ、戦時下に小学校(当時は国民学校)で学んだ世代です。

反応B:男子が恥じるのは裸でなく他に 無職・69歳・男性
(毎日新聞,2002年11月23日付朝刊,4面)

12日本欄「体育の半身裸はセクハラでない」を読み、その通りだと思います。
男の子が、上半身裸で棒倒しで暴れ回る……。なんとカッコイイことでしょうか! それを恥ずかしいとは、世の中も変わったものだと思いました。
私が中学生の時、上半身裸、素足で棒倒しをさせられました。私は自分の薄い胸板と細い腕が恥ずかしいと思いました。女の子たちは、男の子のたくましさに魅せられるのではないかと思います。
日本の庶民文化である銭湯を、「裸の付き合い」と高く評価し、愛してくれた英国人もいます。男の子が恥ずかしがることは、もっと他にあるのではないでしょうか。
小・中学生のころのことです。いつも、いじめられている同級生がいました。彼を助ける甲斐性が、そのころの自分にはなかったのです。そのことを私はいつまでも、ひそかに恥じていたものです。


11月12日の投稿に賛意を表していますが、投稿内容の趣旨は少し異なっているように僕は思いました。
異論はありますが、どこか共感できる部分もあり、11月12日の投稿に対して感じたような、猛烈な腹立たしさや悔しさなどは湧き上がってきませんでした。

まず、『男の子が、上半身裸で棒倒しで暴れ回る……。なんとカッコイイことでしょうか!』という部分は、基本的には僕も同意するところです。
とはいえ、上半身裸になってカッコイイかどうかは、人を選ぶと思うのです。
鍛え上げられた筋肉質の体躯であれば、それはカッコイイでしょう。
でも、肥満体型や極端な痩せ体型であればどうでしょうか。こうしたものは主観なので、人によるのでしょうけれど、やはりあまりカッコイイという感じにはなりづらいのではないでしょうか。
筆者である僕も極端な痩せ体型です。どうしてもそれがコンプレックスで、何とかしたいと思いつつも、何とも出来ずにいます。こんな醜悪な皮骨連立した裸体を、大勢の前に晒すなど、考えただけでも身の毛がよだちます。

要は、半裸で走り回る姿がサマになればいいけれど、お世辞にもカッコイイとは言えないような場合も多いわけです。
ただ、その点については、投稿者の男性もお分かりのようではあります。
『私が中学生の時、上半身裸、素足で棒倒しをさせられました。私は自分の薄い胸板と細い腕が恥ずかしいと思いました』という記述があります。
そうした実体験をお持ちであれば、もう少し高校生の少年の気持ちにも寄り添ってあげて欲しかったなあと、僕などは思ってしまいます。
あるいは、「俺だってあの試練を乗り越えたのだから、お前も大丈夫だ!がんばれ!」という、人生の先輩からの思いを込めたメッセージなのでしょうか。
その辺りの微妙なニュアンスは、この短い投稿からはなかなか読み取ることができませんね。

最後の部分、『男の子が恥ずかしがることは、もっと他にあるのではないでしょうか』よりも後の部分については、僕も真摯に受け止めたところです。
自分自身の人間性とか、内面の気高さとか、そういった部分に目を向けていこうということを、この男性はおっしゃりたいのでしょう。
自らが未熟な人間であることを恥じ、さらに高めていくことを目指すというのはとても大切なことだと僕も思います。
そうした場合、恥ずかしさが成長のための原動力にもなり得ますね。

もっとも、ここでいう羞恥心(自らの未熟さを恥じる心)と、性的羞恥心は、次元が異なるような気もします。
僕としては、これらは「あれかこれか」の択一を迫られるようなものでは無く、むしろ、「それはそれ、あれはあれ」という形なのだと思います。
したがって、〈 自らの未熟さを恥じる心 〉を大切にして欲しいというところには同意しつつ、それと同時に性的な羞恥心も尊重していく必要があるのだというのが、僕の意見です。

--------------------

最後に、11月25日の投稿は、23歳の若い男性からのものです。
彼は1978~1979年の生まれであり、フェミニストたちによる〈 男女平等 〉の訴えを聞きながら育ってきた世代です。また、高校では、当時まだ開始されたばかりの男女共修の家庭科を受講した世代でもあります。
したがって、彼の投稿には、その影響が色濃く出ているように思います。

反応C:強い女や弱い男がいてもいい フリーター・23歳・男性
(毎日新聞,2002年11月25日付朝刊,5面)

12日本欄「体育の半身裸はセクハラでない」を読みました。その中で「(娘の学校では)体育科の男子は、体操服姿でのマスゲームだが、学校から『上半身裸に』との指示があれば親も生徒も従うだろう」とありました。
これは危険なことではないでしょうか。そこには子供の意見が反映されていないと思います。思春期の子供たちが当事者なのですから。
私もかつて胸や背中にできものがありましたから、人前で裸になるのは嫌でした。「そんなこと」と言われるかもしれませんが、思春期で「人と違う」ということが、どれほど気になるものか。
「男が細かいことを」とか「弱くなった」と言われますが、性別による特徴付けは終わりにしませんか。強い女がいて弱い男がいてもいい。それが個人の資質なのです。「上半身裸の棒倒しはセクハラだ」という男子高校生の心が一番大切だと思います。


この投稿については、僕は概ね同意します。
先ほど僕が述べた、『もし学校から「上半身裸に」との指示があれば親も生徒も従うだろう』という言に対する危惧も、されていますね。

『私もかつて胸や背中にできものがありましたから、人前で裸になるのは嫌でした』というところから、当事者としてのご経験もうかがえます。
僕の場合は、先述の通り極端な痩せ体型であるという、体型の問題でしたが、この投稿者のように、できもの等を持っている場合にも、問題になりますよね。

こうした訴えは、女子のものであれば通りやすくても、男子のものはどうしても通りづらいと思います。
一笑に付されて終わってしまうか、あるいは、「男の癖に情けない」と断じられるか。
いずれにせよ、救いがないですね。それでも、昔日に比べれば多少は報われるようになってきているのでしょうか。

なんだかんだ言って、近頃では、強がらずに弱い部分も出していく男性が増えたのだと感じます。
そうすると、弱い男性が増えたというように見えるのですが、実のところは何も変わっていないのだと思います。ただ、その弱さを抑圧していたか、抑圧せずに表出させているかの違いだけですね。そして、弱さを抑圧することはさまざまな病理に繋がりますから、そんなことをする男性が減ることは、僕としては好ましいこととしか思えません。

「男が弱くなった」と言われても、僕は痛くも痒くもありませんね。
なぜなら、弱い男はただ単に〈 弱い 〉だけであって、何も恥じることなどないと思っているからです。
人間色々ですから、強い人もいれば弱い人もいます。それだけのことです。
でも、そんな風に割り切ってしまえる人ばかりでもありませんよね。
僕も、今の状況へたどり着くまでには、紆余曲折がありました。

少し乱暴な言い方をすれば、〈 男は強く、女は弱い 〉などというのは思いこみに過ぎません。
そのことを念頭に置くだけで、いろいろと違った見え方をしてくると思いますよ。見えなかったものが見えるようになると思います。
例えば、男性差別というのもその1つかもしれません。
性差別というのは、コインの表裏のように、男性差別と女性差別が一体のものとして存在しているのだと僕は思います。ただ、〈 男は強く、女は弱い 〉に囚われている限り、男性差別の存在は認識されません。結果的に、今なお、性差別といえば女性差別なのだと信じ続けている人も多いのです。
男性差別は、最近になって生じたものでは無く、古来からずっとずっと続いているのです。女性差別がそうであるのと同じように。
〈 男尊女卑 〉と名付けられている非対称な構造は、実は男女双方にとって抑圧的に働くのです。また、男女双方の性がそこから旨味を得ているともいえるのです。
ワレン・ファレル氏の名著『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』を読んでみてください。

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳)
作品社


〈 男は強く、女は弱い 〉という思いこみを取り払いたがらない人が多いようで、きわめて残念です。特に、男女平等とか、男女共同参画とかを声高に唱える人に限って、いつまでも〈 男は強く、女は弱い 〉に囚われ続けているように、僕には思えてなりません。

本題に戻して、性的羞恥心の強い男性が救われるためには、究極的には、社会全体の意識改革が必要なのだと思います。
〈 男は強く、女は弱い 〉という思いこみがある限り、性的羞恥心の強い男性の存在も、〈 見れども見えず 〉になってしまいます。


前回と今回で新聞記事のご紹介を通じて、性的羞恥心の強い男性のことを知っていただけたことを嬉しく思います。
当ブログでは、これからも、この問題について考察を深めていくつもりでいます。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男子生徒への半裸強制に関する新聞記事(1) ~男性の性的羞恥心を考えるために~

2014-06-21 18:23:12 | 男性差別 IV (性的羞恥心のこと)

( ※ 弱者男性問題,男性差別,女災,マスキュリズム,メンズリブ,男性解放,男性運動などのキーワードにアレルギー反応を起こす方は、お読みにならないことを推奨します )

マスキュリズム(男性差別に反対する思想・運動)で取り扱うべき問題はたくさんあります。
男性の性的羞恥心が軽視あるいは無視されてしまう問題 も、その中に含まれ、かなり重要な問題の1つでしょう。

20年の時を経てようやく日本語に翻訳された、ワレン・ファレル氏の名著『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』においては、あらゆる男性差別の実態が、膨大なデータとともに明るみに出されています。
ただし、男性の性的羞恥心の問題に関しての言及がみられない点だけは、僕としては残念に思えました。
(あるいは、翻訳に際して省略されたいくつかの章に言及があったのでしょうか)

男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳)
作品社


男性の性的羞恥心の問題、あるいは、男性裸身のことに関しては、國友万裕氏が、著書『マッチョになりたい!?』や連載『男は痛い!』の中で多く言及され、考察を深めておられます。

マッチョになりたい!?: 世紀末ハリウッド映画の男性イメージ
國友万裕
彩流社


『男は痛い!』対人援助学マガジン における連載)

國友さん自身、中学生の頃に性的羞恥心を踏みにじられて、心に傷を負うという経験をされました。
だからこそ、この問題に取り組むことになったのでしょう。そして、そこに到までにはトラウマとの壮絶な闘いがあったことが予測され、僕は敬意を表するところです。

今後、男性の性的羞恥心の問題についての研究が、より多くの人の手によって行われ、必要に応じて社会を変化させていくことになればと願っています。

さて、当ブログでは、今回の記事と次回更新する記事において、表題の通り〈 男子生徒への半裸強制 〉の問題を取り上げます。
具体的には、〈 体育授業あるいは体育祭において、男子生徒が上半身裸になることを強いられた 〉という事実を報じた新聞記事を紹介します。
もちろん、僕自身の考えも書かせていただくつもりですが、一番大切なことは、紹介した記事をもとに読者の皆さんそれぞれに考えを深めてもらうことです。
フラットな気持ちで、各人において記事を咀嚼していただければ幸いです。

まず、問題について知って欲しい。考えてみて欲しい。そういう願いを込めて、記事を世に送ります。

------------------------------------

では、今回の本論に入ります。
ご紹介するのは、2001年(平成13年)の1月に新聞で報じられた2つの記事です。両記事とも、中学校が舞台となります。
(余談ですが、2001年1月といえば筆者は中学1年生でした。記事の内容の当事者たちは、ほぼ僕と同い年の人たちということですね)

記事A:体操着忘れた罰、上半身裸で授業
(毎日新聞,2001年1月20日付朝刊,地方版(福島),25面)

相馬市の市立中学校で今月16日、男性教諭(42)が、体操着を持って来なかった生徒数人に対し、罰として上半身裸で体育の授業を受けさせていたことが分かった。同市教委は「詳細な事実を確認し、二度とこうしたことがないよう指導したい」と話している。
市教委によると、この教諭は、同校の体育館内で行ったバスケットボールの試合形式の授業で、3年生1人、2年生7~8人の各男子生徒に上半身裸で参加するよう指示した。同校は、バスケットボールの授業は半そでの体操着で受けることにしているが、この生徒らは長そでの体操着しか持って来ていなかった。同市は16日、最高気温が1・7度と冷え込んだ。


記事B:“裸”で体育 連載『少年スポーツの行方』の第3部『体力がない』の第8回
(熊本日日新聞,2001年1月30日付朝刊,14面)

※ 学校名,校長名,教諭名については、元記事では明記されていますが、ここでは伏せておきます。

**中学校(****校長、246人)は十七年前から、真冬でも男子は上半身裸、女子も半そでという“裸体育”を続けている。「暑さ寒さに耐えるたくましい体づくり」を狙ったユニークな取り組みは、心身の鍛錬を重視したハードな授業だ。

「体力に自信がないと、社会に出てスポーツから遠ざかってしまう。豊かなスポーツライフを送る土台を思春期のうちに培ってやりたい」。体育主任の****教諭(35)は指導方針を説明する。同校では、中学生で最も発達すると言われる心肺機能などを可能な限り高めるため、授業の初めの十分間を「基礎体力づくり」にあてる。

短い時間だが、運動量の多さには驚かされる。前期(4~9月)は、もも上げなど短距離走のフォーム練習。水泳はウオーミングアップ代わりに四百メートルを泳ぐ。後期(10~3月)もうんてい、腹筋などのサーキットトレーニングに始まり、全員が自己記録更新を目指して持久走(千五百メートル)に挑む。

体力向上は数字からも明らかだ。平成十一年度は、三年生男子の持久走の平均記録が、県平均を10秒以上上回る6分4秒8。「入学当初は県平均と変わらない。だが、三年間ではるかに引き離している。水泳の中体連郡市大会総合十五連覇、県中学駅伝男女2位など部活動の活躍にも、成果が出ている」と中島教諭。

毎時間のきつい授業は「運動嫌いを生むのでは」という疑問もわく。だが、持久走では先にゴールした子が遅い子の伴走につき、「あとちょっと。頑張れ」と励ます。「速い子が休まず応援に回る。そのきつさが伝わるから、遅い子も限界に挑戦する意欲がわく。一人で走る劣等感を与えないことで、運動嫌いをつくらないようにしている」

過去十五年間の卒業生に実施した追跡調査(回答約三百人)では、六一・二%が「体育の授業がためになった」、七二%が「持久走は今後も続けるべき」とこたえた。**校長(60)は「実績があり、保護者や地域住民が趣旨に賛同してくれるから、裸体育を長年続けることができる」と胸を張る。

中学校の体育は今、球技などの選択制授業が主流。生涯スポーツにつなげようと、生徒の興味、関心や運動を楽しむことを重視しているからだ。しかし、**教諭は「楽しいばかりがスポーツの魅力ではない。体を鍛えるという考え方が、軽視されているのではないか」と疑問を投げかける。

親が雨の日の通学に車で送迎したり、欲しい物はすぐに買い与える-。**教諭には、今の子どもは何不自由なく生き過ぎている、と映る。「大人になれば挫折はたくさんある。中学時代に、あえて『きつさ』という壁を設定したのは、困難に立ち向かい、それを乗り越える達成感を味わってほしいから。体力と同時に、たくましく生きる力を身に付けられるのが、体育だと思う」


記事Aも記事Bもほぼ同時期(新聞掲載は10日違い)のものであり、
・ 「2001年1月」に
・ 「公立中学校」で
・ 「男子生徒」が
・ 「体育の授業」で
・ 「強制的に上半身裸」となっている

という点で一致しています。

一方、異なる点もいくつかあります。

第1に、継続性があるかないか。
記事A(福島)の方は、報じられた1月16日に限ったことと思われます。
それに対して、記事B(熊本)の方は、17年間にわたって季節を問わず継続されています。体育の授業は当時の標準時数に従えば、週に3回あります。年間では105回になります。

第2に、対象が限定的かどうか。
記事A(福島)の方は、すべての生徒ではなく体操着を忘れた生徒だけが対象となりました。
記事B(熊本)の方は、すべての男子生徒が対象となっているようです。

第3に、どんな目的なのか。
記事A(福島)の方は、〈 懲罰 〉を目的として、生徒を上半身裸にしています。
記事B(熊本)の方は、〈 鍛錬 〉を目的として、生徒を上半身裸にしています。

そして、記事がこの事実をどのようなニュアンスから報じているかという点においても、記事Aと記事Bは対極にあります。

記事A(福島)の方は、教諭の行為を問題視しています。市教委も再発防止を掲げ、「あってはならないこと」としてとらえています。
記事B(熊本)の方は、この学校の17年間にわたる“裸体育”の取り組みをかなり好意的に取り上げています。

この違いはいったい何なのでしょうか。

もちろん、記事Aが〈 毎日新聞 〉の記事であり、記事Bが〈 熊本日日新聞 〉の記事であるということも考慮には入れておく必要があるでしょう。
新聞社にはそれぞれのスタンスというものがあるので、同じニュースでも取り上げ方が異なるというのはごく普通のことです。

ただ、僕としてはそれだけの理由では無いと思っています。

もし、「男子生徒を強制的に上半身裸にさせるのは問題」というのであれば、記事A(福島)も記事B(熊本)も問題になるはずです。
実際、僕はどちらも問題視しています。

むしろ、先述した〈 継続性 〉や〈 対象の限定性 〉の点からすれば、記事B(熊本)の方がより問題視されるべきなのかもしれません。

でも、そこに〈 目的 〉の観点が入ってくると、話が大きく違ってくるのだと思います。
記事A(福島)と記事B(熊本)のニュアンスが対極であるのも、新聞社のスタンスだけでなく、先述した〈 目的 〉の違いが大きく影響しているのではないかと僕は感じました。

すなわち、

「男子生徒を、懲罰目的で、強制的に上半身裸にさせる」 のは許されない

けれども、

「男子生徒を、鍛錬目的で、強制的に上半身裸にさせる」 のは許される

というのが、現代の日本社会なんだろうなあと思うのです。

〈 目的 〉次第で、許されたり許されなかったりするのですね。

要は、
懲罰とかわいせつ目的であれば許されない行為でも、それが、鍛錬とか伝統を守るとかの目的であれば許されてしまう
ということです。

僕は、どうしても納得がいきません。
目的が違ったとしても、現実に発生する状況は同じなのですから。

この場合は、もちろん、上半身裸での体育授業です。記事A(福島)の学校でも、記事B(熊本)の学校でも、男子生徒が強制的に上半身裸で体育授業を受けたのです。その点では違いはありません。

何より問題なのは、公立中学校での出来事だということです。
定められた学区の生徒たちが通ってくる学校です。別にその学校を自らの意思で選択したわけではありません。
そういう場(意思に関わらず所属している場)において、強制的に上半身裸にさせることが一番の問題 だと僕は思います。
なぜなら、避けようがありませんから。それはあまりにも酷な運命を突き付けているということです。

生きていれば苦しいことだってたくさんあります。時には、甘んじてその現実を受け入れなければならないことだってあるでしょう。
でも、わざわざ酷な運命を増やす必要はないはずです。それに、少し工夫すれば消える苦しみなら消してしまった方がいいと思うのですが、どうでしょう。

裸になりたい人が裸になるのは、別に構わないのです。
ただ、「裸になりたくない人は裸にならずに済む」 ということをきちんと保障して欲しい。僕が言いたいのはそういうことです。

「男は上半身裸になったって恥ずかしくない」というのは、〈 決めつけ 〉です。
裸になるのが恥ずかしいというのは、(もちろん個人差は大きいですが)男性もまた自然に抱く感情です。
人前で裸体をさらすことに強い抵抗をもつ男性だって、世の中には存在するのだということを、もっともっと知って欲しいと僕は強く思います。

最後に、問題を投げかけて今回の記事を終えます。

《 Question 》 仮に、以下のような状況があったとして、あなたはどう感じますか?それは何故ですか?

[1] 女子更衣室は設置されているが、男子更衣室は無い(学校,職場等)

[2] 体育の授業の前の更衣を、「女子は教室,男子は廊下」で行う(学校)

[3] 健康診断の際、男子は上半身裸で屋外のレントゲン車まで移動(学校,職場等)

[4] ある学校では、体育祭の騎馬戦や組体操に、男子生徒全員が上半身裸で参加する

[5] ある集落では、16歳~22歳の男性は、「大晦日の夜に全裸で集落を走り禊ぎを行う」という祭りに参加しなければならない

[6] ある温泉旅館では、女湯から男湯の中を公然と覗くことができる

[7] 災害発生時の避難所で、女子更衣室や女性専用スペース等は設けられたが、男子更衣室や男性専用スペースは設けられなかった


この問いかけには、唯一絶対の正解があるわけではありません。
僕としては、どれも男性の性的羞恥心を軽視・無視しており、問題があると考えています。〈 男性差別 〉に該当し、可能な是正策をとることが望ましいと考えます。
ちなみに、一応「仮に」としましたが、どれも現実に近い話だったりします。

さて、この記事が、読者の皆様が考えを深めるきっかけとなれたのならば、嬉しく思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする