去年5月に知り合った、僕のゲイの友人、
マイノリティのパイオニア・豆腐さん が、《 セクシュアリティ勉強会 》を隔月開催で主催されています。
僕は去年10月の第6回から連続で参加しています。今回(6月)で5回目となりました。
過去の開催分については、この記事の一番下にリンクをまとめて載せてあります。
※ 過去の開催分について、僕のブログのエントリーへのリンクです
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第7回 (2012年12月15日)
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第9回 (2013年4月27日)
今回のテーマは、《 カミングアウト・レターズ 》でした。
『カミングアウト・レターズ』というのは、本のタイトルです。
この本は、ゲイやレズビアンの当事者と、カミングアウトを受けた家族や教師との間の往復書簡集です。
完全クローゼット・ゲイとして、無性愛者(ア・セクシュアル)を演じきって生きていた僕は、去年5月に妹や母へのカミングアウトを果たしました。
一部の友人へもカミングアウトしました(まあ、これは半ば事故だったのですが・・・)。
そのころ、何度も何度も、読み返した本がこの本でした。
そして、あれから1年と少し経ち、久しぶりに読み返す機会を得たというわけです。
※ 実母や妹へのカミングアウトについては、
こちら や
こちら や
こちら をご覧ください
『カミングアウト・レターズ』には、何通かの往復書簡が掲載されています。今回題材として取り上げられたのは、大学教員と学生の間のものでした。
(聞くところによると、次回(?)は親子のものを取り上げるみたいです)
今回の参加者は僕を入れて8名。そして、ゲイの当事者が4名(僕を含む)ということでちょうど半数でした。主催者・講師の豆腐さんを入れると、過半数がゲイ当事者ということになります。これだけ当事者比率が高いのは、この勉強会では初めてだそうです。
確かに、僕は第6回からの参加ですが、記憶する限り初めてですね。
当事者の数は、ある程度多いほうがいいと思います。ゲイといってもさまざまで、このような勉強会で当事者の数が少ないと、その人が《 代表例 》みたいになってしまいがちです。数が多くなると、そのリスクがなくなります。
僕なんかは、ゲイの中での外れ者ですから、実は僕を《 代表例 》と捉えられては困るわけです。でも、僕みたいな外れたゲイの存在もまた認めてほしいというか知ってほしいという思いももちろんあります。
というわけで、ゲイ・レズビアン・バイセクシュアル・トランスジェンダー・アセクシュアル等、セクシュアルマイノリティの当事者の皆さんで、真剣にセクシュアリティのことを語り考える場に興味のある方、ぜひ勉強会へ参加してください。あなたのお越しをお待ちしています
( ← いつから宣伝マンになったのやら )
さて、以下では、自分の頭の中で考えたり、豆腐さんやほかの参加者の皆さんのお話を聞いたりしていく中で、印象に残ったことを少し書いてみようと思います。
■ 《 自己開示 》の前に《 自己理解 》を
カミングアウトというのは、《 自己開示 》にあたると思うのですが、それは《 自己理解 》があってこそのものだといえそうです。
たとえば、数学の授業をするときに、数学を理解できていることは前提ですよね。理解できているからこそ、伝える・教えることができる。
自分自身のことを開示する(伝える)のもそれと同じで、自分自身のことをきちんと理解できていなければ、開示はできないわけです。
ところが、自分自身のことというのは、なかなかわからないものです。僕も自分のことがわからなくなることがしょっちゅうあります。
三田誠広の小説(芥川賞受賞作)に『僕って何』という作品があったと思いますが、まさにそのタイトルどおりの人生を歩んでいるような気がします。
僕は物事を観察したり分析したりすることが好きで、自分自身もその対象としている節がありますが、成果は芳しくありません。
《 理想の自己像 》と《 現実の自己 》の間には、当たり前だけれども乖離があります。そして、無意識のうちに、(まだ現実化されていない)理想の方をあたかも現実であるかのように思い込んでいることがあったりします。
たとえば、「感情に振り回されずに冷静に物事を捉えて判断できる僕」という自己像を僕は持っていたりします。それは確かに当たっている部分も多いのですが、でもそうでない自分を発見することもしばしばです。特に何か琴線に触れるようなことがあると、肥大化した憤りや悔しさや拒絶感などに圧倒されてしまうことがほとんどです。そういうとき、「あれ、僕はこんな人間だったか?」と思うわけですが、それが現実の僕なんですよね。ただ、「感情に振り回されず冷静に物事を捉えて判断できる僕でありたい」という理想があって、その理想像をそのまま自己像としてしまっているのだろうなあと考えています。こういった場合、「時には感情に圧倒されることもある僕」と「冷静に捉え判断したい僕」の両方を認めていくことが必要なんだろうなあと思います。そして、努力しているここ最近です。
また、《 自分から見た自分 》と《 他者から見た自分 》との間には往々にして乖離があります。
自分では「僕は○○な人間だ!」と思っていても、他者から「いや、私には××に見えるよ!」と言われて、驚かされることはしばしばです。
たとえば以下の如く。
・ 「僕は弱い」 → 「別に弱くなんかないと思うよ。特に内面を見るとね」「芯がすごくしっかりしてると思うし自信持ったら?」
・ 「僕は臆病だ」 → 「いや、実はすごく勇敢な人だと思う」「決断したら曲げずにブレずに臆せず主張できる人に見えるよ」
・ 「僕はセンスが悪い」 → 「私はあなたのセンス好きだよ」「文章とか綺麗だと思うけどねー」「服とかも言うほど悪くないんじゃない?」
・ 「僕は口が悪い」 → 「確かに毒舌だなあと思うことあるけど、でも、同時にいろんな人への配慮をしようと努力してることもかなり感じるよ」
・ 「僕はクールで冷たい」 → 「私には暖かくてやさしい人に見えるよ。笑顔も素敵だし」「むしろ太陽みたいに熱い人だと思う。メラメラと燃え上がる感じ」
こういう他者の視点が入ることで、立体視できますよね。本当に興味深いです。リアルの僕とつながりのある方、ぜひいろいろ教えてください。
さて、もし《 自己理解 》ができないままで《 自己開示 》をするとどうなるか。それは、おそらくただ単に感情をぶつけるだけになってしまうのだと思います。
何かをカミングアウトするときに、「苦しみから解放されたい…」という動機は当然あるでしょう。そして、《 自己理解 》がしっかりできていない状態での《 自己開示 》は内容を伴ったものにはなりませんから、その感情だけが相手にぶつかることになるわけです。「僕は苦しいんだ」「僕は辛いんだ」「僕は憤ろしいんだ」「僕は悲しいんだ」といった感情が、鋭く相手に突き刺さっていくわけです。これでは受け手はたまったものではありません。ここで重要なのは、感情を出してはいけないという意味ではないということです。苦しみも辛さも憤りも悲しみも伝えていいのだけれど、その感情だけをぶつけるのではいけないということなのです。
受け手のことも考えたとき、自己理解に基づいた自己開示はやはり大切だといえると思います。
僕も、自分自身という謎と、これからも向き合い続けていきたいと思います。
■ カミングアウトと葛藤
何かを隠して生きるということは、めんどくさいものです。
たとえば、ゲイを隠している場合、《 話のつじつまあわせ 》みたいなことを始終し続けなければなりません。この世の中では、特段何も言わなければ異性愛者とみなされるので、多くのゲイは実に巧妙に異性愛者を演じて生きています。
僕の場合は、異性愛者ではなく、無性愛者(ア・セクシュアル)を演じています。これはキャラクターのおかげでもあります。僕が「恋愛とか興味ないというか、そもそもそういう感情がないんだよねー」というと、ほぼ9割方の人が信じてくれます。「ああ、こいつは本当にそうなんだろうなー」と。すると、それ以後は余計な詮索もされなくなりますし、恋愛とかのネタを振られることもなくなるので、実に楽です。
でも、これはやはり僕のキャラクターゆえです。恋愛感情がないと言って信じてもらえる人と、「んなわけないだろ!」と信じてもらえない人がいると思うのです。そういうわけで、異性愛者を演じているゲイが多いのですが、大変そうだなあと思います。好きでもない女性芸能人を設定しておいたりしなければなりません。しかも深く聞かれてもつつがなく答えられるようにしなければならないわけです。そして、まったく感覚的にわからないような話にも、自然な形で相槌を打たなければなりません。「○○ちゃんってかわいいよなー」と話を振られたら、「へぇそうなんだ」ではなく、「そうだよねー、かわいいよねー、特に○○とかいいよねー」みたいな感じで答えなければいけないわけです。ずっと演技しながら生きている感じですよね。仮面をかぶりながらというのか。
こういう問題は、言ってしまうことによってすべて消え去ります。楽になることができます。
でも、言ってしまうことにはリスクが伴いますし、不安もあります。拒絶されるかもしれませんし、最悪の場合には名誉を毀損される結果を招くかもしれません。
もちろん相手にもよりますよね。「ほぼ受け入れられることが確実だな」と思える相手には、すんなり言えてしまうのかもしれません。あるいは、絶対無理ならば言わないでしょう。問題はグレーゾーンの場合です。これは悩ましいですよね。
あとは、もし言うことによって関係が断絶した場合、それでさほど問題がない相手と、そうはいかない相手がいます。ただの友人は前者でしょうが、家族や職場同僚などは後者に当たると思います。この辺の影響も大きそうです。
カミングアウトは、これら2つの思いの葛藤の中で選択していくものなんだと思います。
《 隠して生きるめんどくささ 》と《 言ってしまうリスク・不安 》の間で葛藤し、そしてどちらかを選び取るというわけです。
■ カミングアウトに求めるもの
カミングアウトをするとき、当事者が何を求めているのかということは重要です。それによって、意味合いも大きく違ってくるからです。
僕は、大きく2通りのカミングアウトがあると思います。
Type1 : とりあえず事実を知っておいてほしい
このタイプのカミングアウトは、事実を知ってもらうことが目的となるので、伝えればその時点で目的を達したということになります。
カミングアウト実行後に特にその話題に触れる必要性をもたないわけです。
(もちろん触れてもいいのですが…)
いずれにせよ、事実の伝達がゴールとなります。
Type2 : 事実を知らしめた上で新しい関係を築きたい。相互理解を深めたい
このタイプのカミングアウトは、事実を知ってもらうだけでは目的を達したとはいえません。
事実を伝えた後で、そのことについて深く語り合うことが必要で、むしろそれこそが重要ということになります。
つまり、事実の伝達はスタートとなるわけです。
カミングアウトの受け手が、事実を伝達された後、「うん、わかったよ」とだけ言い、それで話題を終了にしようとする場合があります。
そして、以後はその話題に触れようとしないという反応です。
これはもしかしたら気遣い・配慮なのかもしれません。「そっとしておいてあげよう」という思いやりなのかもしれません。
また、静かに隠れて生きたい当事者にとっては実はうれしい反応でしょうし、Type1 のカミングアウトならばこの反応に何も問題はありません。
ただ、もし、カミングアウトした側が Type2 の意図を持っていたならば、この反応は大いに不満でしょう。
なぜなら、彼らは事実の伝達はスタート点だと考えているのに、そこから一歩を踏み出していくことを拒まれたような感覚を受けるからです。
そういうわけで、カミングアウトをする場合、特に Type2 の考え方でする場合は、より心の準備が必要だといえそうです。
■ 《 互いに響き合う 》こと
今回の勉強会で取り上げた往復書簡では、ゲイ当事者の学生(=渡辺くん)と教員(=楠原先生)の間でのやりとりの中で、1つキーワードがありました。
それは、《 互いに響き合う 》という言葉です。
少し該当部分を引用してみます。
・カミングアウトは、たんなる告白ではありません。突然のびっくりするような強風で片付けられるものではありません。された側とする側が、そこからさらに新しい関係を築くことが、最終的な目的だと思うのです。 互いの存在そのものが響きあうこと なのです。(渡辺くん)
・ あなたもよくご存知のように、同性愛者がみな、自分の中に社会的・歴史的・文化的・身体的 <他者> を抱え、向きあい、 <他者> と「相互に響きあい」ながら生きようとしている わけではないのです。 (楠原先生)
これは、前項のカミングアウトの分類で言えば、Type2 を念頭においていることは自明でしょう。つまり、カミングアウトをスタート点として、そこから互いに響きあうことを理想としているわけです。
カミングアウトは、
差異を明示すること でもあります。自分の中にある、
他者(相手)と異なる部分をさらけ出す行為 です。これは、衝突や不協和音も生み出すことができますが、きれいなハーモニーを生み出すこともできるのです。
同質のものは、混ざり合うと区別がつかなくなってしまいます。まったく同じ音を同時に鳴らせば完全に1つの音になってしまいます(もちろん音量が上がりますが…)。
異質のものは、混ざり合っても区別がつきます。2つの音が鳴ると、条件如何によって、きれいなハーモニーになったり不協和音になったりします。
ハーモニーとか響きあいというのは、
差異があるからこそ生まれるもの なのです。
人間にはそれぞれに異なった《 個性 》があります。そして、それが場合によっては《 コンプレックス 》になっている場合もあります。
ただ、自分ではコンプレックスにしか思えないものでも、捉えようによっては、あるいは生かしようによっては、《 宝物 》になりうるのかもしれません。
自分だけが持っている《 強み 》になるのかもしれません。
自分にとっての《 コンプレックス 》を、うらやましいと思っている他者がいるのかもしれません。
各人が持っている《 個性 》を出し合うと、不協和音が響いたり協和音が響いたりします。
協和音が響いた状態というのは、それぞれの個性が光り輝いて、うまく融和して、高めあっているすばらしい状態ですね。
一方、不協和音が響いた状態というのは、個性と個性が衝突してしまい、摩擦が生じている状態です。これは相性などの問題もあるでしょうけれど、努力によって解消することができる場合もあると思います。
要は、互いにチューニングすればいいわけです。発する音をうまく調整していくことで、不協和音は協和音へと変わるのですから。
その、チューニングをする過程というのが、相互理解を深めるとか新しい関係を築くということなのかもしれません。
■ 闘うこと・主張すること と 攻撃性
楠原先生の手紙の中に、《 闘う 》というフレーズが出てきます。
少し引用してみます。
・ ついでに引用すると、その<カミングアウト>レポートの末尾は「闘い続ける、それこそ、僕が生きていくということなのかもしれない」となっていました。
・ それは「闘うことだ」と、あなたは19歳のときに初々しい決意を述べましたが、しかし「寂しさを感じる。悲しさに震える」と付け加えざるをえませんでした。「闘うこと」、つまり、「相互に響きあう」新しい関係の創造とは、障害の少なくない難儀な永遠のプロセスだからです。
僕は《 闘う 》とか《 主張する 》という言葉にあまりいい印象を持っていないのです。それは、どこか攻撃的でけんか腰のニュアンスを感じるからです。
セクシュアルマイノリティの権利を求める運動をしている方々のされていることは、まさに闘いであり主張だと思うのですが、そこにも僕は
攻撃的でけんか腰の印象 を受けてしまいます。そして、そこに違和感を覚えてしまうのです。
ゲイのパレードなんかも、同じような理由で僕は苦手なんです。
それでも、彼らがそこへ至ったメンタリティは痛いほどにわかります。僕の中にも同じような心があります。
僕は、ゲイである以外にもありとあらゆる側面においてマイノリティ(少数者)になることが多いのです。それは別に意図的にマイノリティになっているわけではなくて、生まれつきそうだったか、自分の好きなように選択した結果として偶然にそうなるのです。運命的に宿命づけられているのか、無意識のうちに選び取っているのか、いずれにせよそうなのです。
そして、マイノリティ(少数者)というのは、どうしても、
身構えて生きる ことになりがちなんだと思います。
鎧を何重にも纏って、武装して、そうやって自分を守ろうとする のだと思います。そして、怖がりな犬ほどよく吠えるといいますが、
恐怖におびえながら食って掛かってしまいがち だと思います。
僕は他者に攻撃性を向けることも、他者から攻撃性を向けられることも、どちらも嫌いです。それなのに、時折、僕から攻撃性を感じるという指摘を受けることがあります。後々振り返ってみると、そういう指摘を受けるときは、たいがい自らのマイノリティ性に関わることを話しているときだと気づきました。
そういう印象を他者に与えてしまうことは僕の望むことではないので、気をつけてはいます。それでも、やはり限度があります。どうしても抑えられないのです。先の引用の言葉を借りれば、「寂しさを感じ」ながら、あるいは「悲しみに震え」ながら、鎧の中で吠えている僕がそこにいるのです。
《 互いに響きあう 》こと、うまくチューニングして協和音を奏でることは、主張することなくしてできないのだとは思います。
また、その過程は、宿命的に《 闘い 》にならざるを得ないものなのかもしれません。どうすればいいのでしょう。
僕が、《 闘い 》や《 主張 》にいい印象を持てないのは、
攻撃的でけんか腰 なのがどうしても嫌だからでした。もし、攻撃的でもけんか腰でもない《 闘い 》や《 主張 》ができれば、僕のジレンマはある程度解消されるのかもしれませんね。
ただ、そういうことは可能なのでしょうか? 読者の皆様はどう思われますか?
■ 《 当事者であることを選ぶ 》とはどういうことか?
渡辺くんと楠原先生の往復書簡を取り上げたセクションのタイトルは、《 当事者であることを選ぶ 》となっています。
これはいったいどういう意味なのでしょう。少し意味深ですよね。
楠原先生の書いた手紙の中から、これと関連のありそうな部分を引用してみます。
あなたもよくご存知のように、同性愛者がみな、自分の中に社会的・歴史的・文化的・身体的 <他者> を抱え、向きあい、<他者> と「相互に響きあい」ながら生きようとしているわけではないのです。<他者> をもたず、<他者>に眼を向けることをどこかで恐れている、つまり自由になることを恐怖している同性愛者も少なくないはずです。それだけ、状況の不寛容がまだ続いているからでしょうが。
どんな <当事者> でも、それだけではけっして <当事者> になることはできず、<当事者> であることを自らの意志で選ぶことによって、かろうじて、歴史や社会や文化の、総じて言えば政治の、「相互に響きあう」関係の創造行為に参加できるというわけです。
ここでは同性愛者のことが取り上げられているわけですが、これをほかのマイノリティ(少数者)で置き換えても同じことがいえそうです。
もちろん、そこには、ある程度認知の進んだ、《 公認の 》マイノリティ以外に、マイノリティや弱者を名乗ったり、何かを主張することすら認められてすらいない《 非公認の 》マイノリティも含まれます。
(例として、弱者男性を挙げておきます。異性愛かつ健常者であり子どもでも老人でもない男性の中に存在する弱者は、本質的に弱者であるにも関わらず、弱者として扱われることはなく、声を上げることすらも許されていませんし、糾弾の対象にさえなります。見ようによっては、これほど息苦しくて立場の弱い存在もありません。僕は究極のマイノリティだと思っています)
さて、「どんな <当事者> でも、それだけではけっして <当事者> になることはできず」という表現は、初読のときにはよく意味がわかりませんでした。「ゲイであれば、それだけでゲイの当事者でしょ? それだけじゃ当事者になれないってどういうこと?」と思っていたのです。
今は楠原先生の意図がなんとなくわかります。
ゲイといってもいろいろで、自分がゲイであることを受け入れることができている人と、できていない人がいます。もし自分で受け入れることができていない場合、その人は <当事者> としてのアイデンティティを持っているのかというと、疑問符が出てきます。その人は事実としてゲイなのだけれど、< 当事者 > にはなっていない、あるいはなることを拒絶している(認められない)という風に捉えることもできそうです。楠原先生が言いたかったのはたぶんこういうことなのではないかと思います。
そして、「<当事者> であることを自らの意志で選ぶ」とは、自分がゲイであることを受け入れて,認めて、<当事者> としてのアイデンティティを持って生きていく道を選択することを指しているのだろうと思います。
そして、もちろん、ゲイではなくてほかのマイノリティに置き換えても同じことがいえそうですね。
この記事の最初のトピックで、自己開示の前に《 自己理解 》が必要だという趣旨のことを取り上げましたが、僕はそれと同時に《 自己承認 》もとても大切なのではないかと考えています。自分で自分を承認すること。これは存外難しいことです。
僕だって、全然できていません。自分を理解することも、自分を承認することも、特にコンプレックスの部分だったり、嫌いな部分だったりすれば、見たくないし認めたくないと感じてしまいます。
「<当事者> であることを自らの意志で選ぶ」というのも、《 自己承認 》の1つの形なのだと思います。
その観点から、僕はゲイの<当事者>だとたぶんいえます。ゲイに関しては、今の僕にとってはコンプレックスでもないし嫌な部分でもありませんし、「僕はゲイとして生きていくことを選んだ」と言えそうです。
(もちろんゲイは生まれつきですが、この運命を受け入れて自然体で生きていくことを選んだという感じでしょうか)
ただ、ほかのマイノリティ性の部分でも同じことが言えるかというと、疑問符がつきます。やはり容易なことではなさそうです。
また、「<当事者> であることを自らの意志で選ぶ」生き方が、必ずしも《 よい生き方 》とは限らないとも思います。どう生きたいかというその人の価値観によって変わってくるのだとも思います。
コンプレックスでも嫌いでも、認められなくても受け入れたくなくても、そういう選択をするのもありでしょう。
ただ、僕の個人的な考えとして、なるべくならば《 自己承認 》できた部分を増やしていきたいなあと考えています。
あせらずに、ゆっくりと。
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次回の勉強会は、2013年8月24日(土) の午後に開催されるようです。
また、今回と同じ題材(再放送?)で、2013年7月22日(月) の夜にも開催されるようです。
興味のある方はぜひどうぞ。告知や申し込みは、
こちら からです。
※ 過去の開催分について、僕のブログのエントリーへのリンクです
・
第7回 (2012年12月15日)
・
第9回 (2013年4月27日)
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