Nikkoh の 徒然日記

ゲイ(=男性同性愛者)の Nikkoh が、日々の雑感やまじめなこと、少し性的なことなどを、そこはかとなく書きつくります

『マッチョになりたい!?』を読んでいます

2014-01-25 22:21:36 | 男性差別 I (概観・総論・横断的内容)
去年12月17日に、『男は痛い!』(國友万裕)に共感 という記事を書きました。
(未読の方は、よろしければ本記事と併せてお読み下さい)

そこで書いたとおり、僕は國友さんの『男は痛い!』を読んで、カタルシス効果を得ることが出来ました。少し癒された感じがしました。

ところで、『男は痛い!』は、対人援助学マガジン における連載で、無料で読むことが出来るものでした。
(PDFファイル。上にリンクを貼った12月17日の記事からアクセス可能)

実は、國友さんは書籍も出されています。
それが、『マッチョになりたい!? -世紀末ハリウッド映画の男性イメージ-』(彩流社,2011年)です。
この本を、現在、少しずつ読み進めています。
(記事執筆時点で、半分ほど読み終えています)

マッチョになりたい!?: 世紀末ハリウッド映画の男性イメージ
國友万裕
彩流社


この本は、映画の本と見せかけて、実は、ジェンダー,マスキュリズム(反男性差別),メンズリブ,弱者男性論の本にもなっています。
そのことは、前書きを読むとすぐに分かります。少し長くなってしまいますが、僕のコメントを添えながら引用させてください。

この本は、ハリウッド映画を男性ジェンダーの角度から分析する試みである。
ぼくは中学の頃から熱心な映画少年だった。引きこもりで友達がいなかったせいもあり、ぼくは映画に依存する映画オタクだったのだ。
また、子供のころから、スポーツや喧嘩ができず、男らしくない男の子 でもあった。「女の腐ったような子だ」 と言われ続けた。保守的な九州の地方都市で育ったせいもあって、「男は男らしく」という縛りはきつく、超男根主義的な教育 だった。そのことで心のバランスを崩してしまい、自分の殻に引きこもってしまったぼくは、一〇代・二〇代の若き日々を真黒にしてしまった。


( 引用者註 : 男らしくない男の子であったが為に、「女の腐ったような」と揶揄されたり、「男らしくあること」を強いられることで苦しんだ國友さん。その姿は、『正しいオトコのやり方』(フランシス バウムリ著,下村満子翻訳,学陽書房) に所収されている一篇、『氷河期の子ども』の執筆者である、M.アダムス氏の姿と重なります。そして、この記事を書いている僕自身とも重なります。僕はアダムス氏や國友氏に比べれば数段恵まれているのですが、それは時代や国・地域の違いの影響もあるでしょう。なお、僕は「男らしさ」を否定しませんし、「男らしくありたい」という自由意思を尊重します。むしろ、「男らしい」人は大好きで、そこに憧れもあるのです。あくまでも、僕が問題視しているのは、「男らしくあること」を全ての男性・男子に強いることだという点をご理解下さい )

そして、三〇代の半ばになり、実際に日本の男性運動に参加することになったのだが、男性学,男性運動,男性ジェンダー,メンズリブ,男性差別,被害男性,弱者男性,マスキュリニティといったところで、ピンとくる人がどれだけいるだろうか。
今でも、「ジェンダーの勉強をしている」というと、「男性なのに、女性問題をなさっているんですか?」 と言われることがたびたびである。
日本でも、男性運動や男性研究は、もう四半世紀以上前から始まっている。しかし、なかなかそれが主流にはなっていかない。


( 引用者註 : 〈 男性差別 〉という言葉に関しては、どのように受け止められているかはともかくとして、それそのものは少しずつ広がっているのを感じます。〈 被害男性 〉や〈 弱者男性 〉に関しても、男性のDV被害がメディアで取り上げられたり、法や制度も少しずつでも変わりそうな気配があるのは事実です。それでも、大方の人にとっては「ピンと来ない」のが実情でしょう。僕の場合、同性愛者としての自認を持っているので、ジェンダーに関心があると言うと、「同性愛者だから」と思われがちです。これは実は間違っていて、僕はもし異性愛者の自覚を持っていたとしても、やはりジェンダーに関心を持っていたと断言できます。現に、異性愛者の男性である國友さんが、ジェンダーの研究に打ち込まれています。性的指向とジェンダーは分けて考える必要があると考えます。そして、ジェンダーの影響を良くも悪くも受けているという点では男性も女性も同様なので、ジェンダー理論も 男性 / 女性 の双方に強く関わるものであって、女性やセクマイだけのものでは決してないと思います。男性運動や男性研究がさらに発展・深化していくといいですね )

ぼくが男性運動で得た経験も期待外れだったと言わざるを得ない。日本の男性運動は、東京よりも関西が中心となっているのだが、どちらかといえば、フェミニズムの影響を受けた男性たちが、「女の人たち、これまでごめんなさい」と罪滅ぼし的に男性の悪い部分を反省していく運動という感があり、男の苦しみに対する切り込みは浅い。男性運動というよりも、男性が女性運動をしているという印象 でしかなかったのである。

( 引用者註 : まったく同感です。所謂、〈 メイル・フェミニスト 〉たちによる運動が大半という印象があります。かれらは女性問題には強い関心を示す一方で、男性問題に対しては関心を持たず、むしろきわめて冷酷です。言い換えれば、男性の加害者性と女性の被害者性の部分にのみ着目していると言えます。ところが実際には、男性にも被害者性があり、女性にも加害者性があります。被害と加害はコインの両面のようなものだからです。したがって、男性の被害者としての側面や、男性の苦しみにも着目していくことが求められる と思うのです。大まかに言うと、〈 マスキュリズム 〉はそういう立場にあります。僕は現在のところ、この立場にあります。男性の加害者性だけでなく、男性の被害者性にも目を向けていく必要があるということです )

しかし、さすがアメリカでは、ジェンダーの議論は進んでいる。さまざまな角度から男性の抱えている問題に光を当てる運動が日の目を見ている。アカデミズムの世界でも、日本よりもはるかに多様な議論が広がっており、映画批評の分野でも男性ジェンダーの視点で作品を読み解く試みが活発である。

( 引用者註 : アメリカにも〈 メイル・フェミニスト 〉はもちろん存在しますが、同時に〈 マスキュリスト 〉も多数存在し、両方の視点からの論考が為されているようです。『男が崩壊する』を著し、アメリカの男性運動の先駆者となった、ゴールドバーグ氏は、マスキュリズムの立場に立ち、主として男性の被害者性という角度から男性問題を主張しました。また、『正しいオトコのやり方』 の著者であるフランシス・バウムリ氏や、僕にカタルシス効果を与えてくれた恩人であるアダムス氏,第1回全米男性会議で基調講演を行ったフレッド・ヘイワード氏(彼については下にリンクを貼る連載も参照のこと)も、同様の立場といえます。さらに、男性の精神性の復活を訴える〈 ミソポエティック派 〉や、キリスト教原理主義に立脚した〈 プロミス・キーパーズ 〉のような男性運動もあります。実に多様ですね )

全米男性会議 と フレッド・ヘイワード (1)【イントロダクション】 (2013年7月20日公開)
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(2)【第1回全米男性会議のこと】 (2013年7月27日公開)
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(3)【フレッドの体験(前編)】 (2013年7月28日公開)
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(4)【フレッドの体験(後編)】 (2013年8月3日公開)
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(5)【フレッドの基調講演(前編)】 (2013年8月9日公開) 
全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(6)【フレッドの基調講演(後編)】 (2013年8月27日公開)


振り返れば、映画とジェンダーが、ぼくの人生の二大テーマだったといってもいいだろう。この本をまとめることは、まさにぼくの人生そのものを語っていくという作業でもあった。
原稿を読んだ女性から「男の人って大変だなあと思った」という感想をもらったのは、大きな喜びだった。女が抑圧されているのは皆知っているけど、男の抑圧はまだあまり意識されていない。「男は男らしく」「マッチョであれ」という既成のジェンダー規範にとらわれ、苦しんでいる男たちも多い。


( 引用者註 : 女性からのこういった感想は嬉しいですね。そうやって、きちんと受け止めてくださる女性もちゃんといらっしゃるのだというのが喜ばしいです。ジェンダー規範によって抑圧されているのは、女性だけでなく男性も同じなのだということを、ぜひとも多くの人に知って欲しいですね。ただ、繰り返しになりますが、僕は規範の存在そのものを否定する立場ではありません。「男は男らしく【なければならない】」という強制 によって苦しい思いをしている男性が存在するのは事実なので、そうした無理強い・強迫に疑問を持っていますが、「男は男らしく【ありたい】」という個人の自由意思 は最大限尊重されなければならないと考えます )

しかし、男らしさをすべて捨ててしまうことが男性解放なのかというと、そうでもないのではないか。男たちの深層心理には、男らしさに反発する一方で、男らしさに惹かれる矛盾した心理 が宿っている。さらにポスト・フェミニズム時代となって、女性からの注文も多くなった。さて、男はどう生きたらいいのだろうか。
本書のタイトル『マッチョになりたい!?』には、マッチョでいるのはつらいけれど、マッチョになりたい、という男たちの気持ちや、マッチョって好ましいことなの?、今の時代のマッチョって、どういう男のことなの? そもそも本当にマッチョであることを望んでいるの? という問いかけをこめた。
この本を読んで、少しでも、「男は大変だなあ」と思ってくれる人が増えれば、これほど嬉しいことはないと思っている。


( 引用者註 : 確かに、男性解放とは「男らしさを捨ててしまえ!」ということでは無いと僕も思いますね。そうではなくて、「男らしくなければならない」という無理強い・強迫を排除した上で、それぞれの男性が「自分はどんな男性でありたいのか?」を模索する のがいいのかなあと考えています。「男らしさ」のイメージは画一である必要はなく、1人1人違った〈 男らしさ 〉があっていいと思うのです。そして、自分がこうありたいと思える〈 男らしさ 〉を追及して行けたら幸せなのかもしれないと思っています。また、これは男性だけでなく女性にも言えることだと思うのですが、自分の中にある〈 男性性 〉や〈 女性性 〉についてよく理解して、暴走しないように上手にコントロールしながら生かしていくこと も大切なのではないかと思います。ところで、男らしさに反発する一方で、男らしさに惹かれる矛盾した心理 というのは僕にも当てはまります。正しく矛盾なのですが、しかしそういうものなのだと受け止めて、自分自身としっかり向き合って生きていく必要があるのでしょうね )

結局、前書きを全部引用してしまいました。本当は部分抜粋でと考えたのですが、ここも必要、あそこも必要と、省略できる部分が無くなってしまいました。
ただ、この本が何を意図したものなのかは伝わったと思いますし、僕の考えや意見も添えたのでそれも伝わったのではないかと思います。
そして、興味を持たれた方は、ぜひ本を手にとって読んでみてください
(長々と引用してしまった分、しっかり宣伝してみました)

目次は以下の通りとなっています。

序章 ポスト・フェミニズム時代の男性像
第I部 女は軍人、男はカウンセラー
第1章 マスキュリズムと男性差別 ―男性映画としての『G.I.ジェーン』
第2章 パワーに依存しない男性の創造 ―『グッド・ウィル・ハンティング』

第II部 男を求める男たち
第3章 同性愛恐怖が引き起こした殺人劇 ―『アメリカン・ビューティー』
第4章 同一化の憧憬と同性愛的表象 ―『リプリー』
第5章 「男」になるためのイニシエーション ―『ファイト・クラブ』
第6章 身体描写をとおして描くマチズモの挫折の物語 ―『アメリカン・ヒストリーX』

第III部 見られる男、見つめる女
第7章 記号としての「男性裸身」とそれをめぐる視線 ―『ハート・オブ・ウーマン』を中心に
第8章 女性性の表出と女性性からの脱却 ―『トゥルーマン・ショー』
第9章 生殖なき時代のマスキュリニティ ―『マトリックス』が描く男性表象

終章 九本の映画から見えてくるもの

第1章のタイトルがいきなり〈 マスキュリズムと男性差別 〉となっているのが、凄いなあと思いました。
ブログの記事を書く以外、大して何もしていないけれど、一応、〈 マスキュリスト 〉を自認している僕としては嬉しかったです。
日本で日本人の手で日本語で刊行された本で、〈 マスキュリズムと男性差別 〉という内容を取り上げた本はもしかしたら初めてではないでしょうか。
(僕が浅学ゆえに知らないだけなのかもしれませんが……)
この記事をご覧になられている方は、どのような形にせよ、マスキュリズムやジェンダー等の問題に関心を持たれている方だと思うので、ぜひ第I部(1・2章)だけでもお読みになられることをおすすめします。

僕は、冒頭でも書きましたが現在読み進めている最中で、1・2・4・5章を読み終えた状況です。
ここで取り上げられている映画のうち第5章の『ファイト・クラブ』以外は見たことがありません。
『ファイト・クラブ』は好きな映画で、今でもたまに見たりしますが、この映画のどんなところに惹かれていたのかが少し分かった気がして興味深かったです。
また、第2章の『グッド・ウィル・ハンティング』はぜひ見てみたいなあと思いました。

第1章から第5章までを通じて、気になった、興味を持ったキーワードや文を列挙しておきます。
いずれ、もう少し詳細にあれこれと書ける日が来ればいいなあと思っています。

《 序章 》
ソフト・メイル
ミソポエティック派,プロミス・キーパーズ,マスキュリズム,メイル・フェミニスト,ゲイ派,ブラック派,社会主義派

《 第1章 》
「男性でも女性より虚弱な者はいる」
「体力や運動神経は、個人によっては女性が男性よりも優れていることも当然ありうる。例えば、最低レベルの男性の能力は平均レベルの女性の能力より劣る」
「体力や運動能力において女性よりも秀でていることを期待されることが、男性にとって重大な抑圧であること」
「1980年にカーター大統領が、徴兵制度を復活させ、しかも、そのなかに女性を含めるということで、この問題が大きな議論となったのであるが、当時、女性を戦場に送ることに多くの男性は賛成(賛成率61%)しており、女性のほうが反対(賛成率35%)していた」
緊急時に女のほうが先に解放されるという不平等
「こういう事態でのレディ・ファーストは当然のことと思われているが、持久力・生命力は女性のほうが強いので、体力的な部分だけで判断するとしたら、女性のほうを後にすべきなのではないか」
(男性の男性への)同一化
ホモソーシャル,ホモエロティシズム,ホモセクシュアル
肌をさらすこと,拷問に耐えること
「男社会の一員として認められるためには、肌をさらし、威圧と拷問に耐え、自分よりも上位の男のエゴイズムに自分の身を任せなくてはならないのである」
「女性が傷だらけにされるのは即、暴力と見なされ、同情の眼で見られるが、男性が傷だらけにされるのは、軍隊などのようなある種の状況では許容されてしまう」
「現実には男性への暴力も、女性と変わらない(あるいは、むしろ女性よりも多い)くらいに頻繁に起きているにも関わらず、男性への暴力は深刻な問題とは受け止めてもらえず、メディアなどでは男が殴られる場面が見せ物、あるいはコメディなどではジョークのように扱われるケースが多い」
「肌をさらすのも恥ずかしがらず、肉体的に虐待されても、歯を食いしばって克己しようとする(中略)しかし、これは男性に対する差別につながっていくのだ」

《 第2章 》
「この映画では、男性のアイデンティティが、パワーやヒエラルキーよりも魂の解放と親密さ、対立よりも受容という形で再定義される」
「誰が優位というのでもなく、誰が相手を支配するというのでもない、相手と一体となるような男同士の関係」
ソウル・メイト(魂の友)
ヒエラルキー依存
脱暴力プログラム,自助グループ,アミティ
当事者カウンセリング
当事者同士のトラウマの分かち合い(言語化) → 魂の解放
相手を知りたがる女と教えたくない男のかけ合い
頭脳的マチズモと肉体的マチズモのダブルバインド
頭脳的なパワーのヒエラルキーと肉体的なパワーのヒエラルキー
「アントニー・イーストホープは、男同士のコミュニケーションのスタイルの一つとして、〈 からかい 〉をあげている。男同士の友情を描く映画では、お互いをふざけて攻撃しあう場面がでてくるが、それは、二人が親密な絆で結ばれていることを示唆するものであり、親愛の情があるからこそ許される行為である」
行動を分かち合う,親密さを分かち合う
「相棒になることは、男どうしの最も深い人間関係である。すでに危機に耐えた相棒の間には、男女間の最も深いものにもめったいにない豊かな面がある。たとえば、良い父と息子、愛情ある兄弟関係のようなものである」

《 第4章 》
「イタリアには表向きホモセクシュアルはいないですよ。ダヴィンチやミケランジェロはどうなんですか」
(男性の)男性との同一化への憧憬
自分の理想とする男性と同一化したいという欲求
即自(直接的で自足しており、無自覚で他者や否定の契機をもたない)
対自(存在者が自己自身を対象化する自覚的在り方)
「いわゆる男性的な男性は「即自的な存在」である傾向が強いが、女性的な男性は「対自的な存在」でありうる」
「リプリーのほうは、対自的に自分の身体をとらえている(他人に自分の身体を見られることを気にしている)ため、自分の裸身を見られることがどうにも恥ずかしそうなのだ」
「男性の心理のなかには、女性的な、まだ男性として未成熟な男性を可愛がりたくなる心理も含まれているのである」
年上の男性から愛される段階,年下の男性を愛する段階
「三島は女性的な少年であったため、いじめられっ子だったという。しかし、その後、自衛隊入隊などで、徹底的に男の世界を味わい、自分の男性性を築き上げていった。そして、男の一員になれたという喜びを味わったという」
男性性の構築の失敗のドラマ

《 第5章 》
少年を大人の男にするイニシエーション(通過儀礼)
ミソポエティック運動,「幸せではない」ソフト・メイル
父親不在,内面の父親との対話
「主役のジャックはまさしくブライが言うところの「幸せではないソフト・メイル」であり、『ファイト・クラブ』は、そのジャックが、暴力という男性的な原理を学んだことで、男性としてのアイデンティティを習得していく物語と読み解くことが可能」
〈 父 〉という理想の男性像に同一化しようとする
「ジャックがまだ男性になりきれない(女性的な)息子を、タイラーがある意味での父親に代わる男性を体現し、これが、一種の同性愛的な味わいを醸し出している」
「タイラーとは、「女性化した」男であるジャックの内面の「理想化された男性性」であり、ジャックに「男になる」手ほどきを与える役目だった」
男性性を甦らせる手段としての暴力
通過儀礼としての暴力
「暴力は荒々しい形ではあるものの、いかなる方法であれ男同士の愛情を仲介するものであり、性交のような性的欲望のカタルシスである」
「男性と徹底的に身体的に関わるということは、相手から男性性を学習し、男性というものを理解していく過程で求められる」
男性性の暴走
「女性化した男だったジャックが男性性を身につけたのは価値あることだったものの、その次に来る問題として、その男性性を飼いならすことができなくなるのである」
男性性の制御
「もはやタイラー(彼の内面の男性性・父親)に頼らなくても、男性として独り立ちができるようになったのである」
「とりわけ「ストレス状況下」では、「女は親密な一体感を強く求めるが、男は内に引きこもりがち」になる」

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まだ読破したわけではないけれど、ここまでの部分でも、いろいろな気づきがありました。例えば、以下のような点に関して。

・ 何故に僕は同い年から年上の男性(〈 兄ちゃん 〉や〈 パパ 〉みたいな人)に惹かれるのだろうか
・ 何故に僕は〈 無理強い 〉が嫌いなのに、〈 管理教育 〉フェチなのだろうか。現実化は望まないものの、その表象に萌えてしまうのだろうか
・ 何故に僕は〈 暴力 〉が嫌いなのに、〈 M/Mスパンキング 〉フェチなのだろうか。男同士でケツを叩きあいたいのだろうか

第2章で言うところの〈 相棒 〉のような関係を築けることを、僕は願っているのだと思います。親密で受容的な、穏やかな関係を、〈 兄ちゃん 〉や〈 パパ 〉との間に築きたいという思いがあります。
また、僕は、男らしさを強いられるのが理不尽で不条理で嫌だと言いながら、一方でそれに対して憧憬があって、父親や兄貴的存在によって、少年から大人の男への一歩を踏み出したいのかもしれませんね。
20代ももはや半ばにさしかかっているのですが。
前書き引用の最後のところで出てきた、「男らしさに反発する一方で、男らしさに惹かれる矛盾した心理」というのは、もしかしたらこの辺のことを指しているのかもしれません。
「男として生きることは痛い」ので、その痛みから解放されてラクになりたいという思いもある一方、痛みを堪えながら健気に踏ん張っている自分の姿に陶酔している側面もあるのかもしれませんね。ナルシズムというのか、マゾヒズムというのか…。

〈 ホモソーシャル 〉と〈 ホモエロティシズム 〉と〈 ホモセクシュアル 〉について考えていたら、僕のセクシュアリティは余計分からなくなってきました。
昨年10月27日に、「無性の♂」と「ゲイ」の狭間で という記事を書きましたが、今の僕は自分のセクシュアリティを、「ゲイ」と「無性の♂」の掛け持ちのような形で捉えています。ちょっとAセクシュアル要素の入ったゲイという感じですね。
詳しくは、その記事を読んで欲しいのですが、僕は超絶バニラ志向で、スパンキングフェチ(SM一般には興味なし)です。
それで、〈 ホモエロティシズム 〉という概念を寡聞にして初めて知って、スパンキングはそこに該当するのかもなあという気もし始めました。
男性同士のスパンキングの愛好家というのは、日本ではきわめて稀な、ニッチな存在ですが、同性愛者 / 異性愛者 どちらの性自認を持っている方もいらっしゃるのです。
まあ、僕は異性愛者では無いと思うのですが、「無性愛者を演じていた」のではなくて、実は本当に無性愛者だったという可能性は否定できず、むしろ少しだけ強まったかもしれません。
だからといって何も変わらないのですけれど。
そもそも、〈 ホモソーシャル 〉と〈 ホモエロティシズム 〉と〈 ホモセクシュアル 〉の間の線引きは実に曖昧ですし、僕は、多少の違和感は感じつつも、ゲイの一員として存在し続けていられると思います。

と、ここまで書いておいて何なのですが、『マッチョになりたい!?』は同性愛映画の本ではありません。
その点は國友さんも、後書きに於いて、

本書をまとめるにあたって、同性愛の映画の本と勘違いされるのだけは心外だという思いがあった。本書で取り上げた映画の多くは、男同士の関係を描いているうえに、男性裸身の表象が顕著に多いわけだが、ぼくは、ここでとりあげた映画を同性愛とは思っていない。
強いて言えば、男だったら誰しもが抱えている、同性愛的欲望のドラマ。本当は男が好きなくせに、男はそれをカムフラージュしなくてはならない。ハリウッド映画の異性愛主義・同性愛嫌悪の抑圧のなかで、隠さざるを得ない同性愛性……それが、ぼくが関心を持っているところである。


と述べられているので、この点をご理解ください。
ただ、僕が同性愛者としての自己認識を持っているので、どうしてもこの本を読みながら自分のセクシュアリティと向き合う結果となります。

そういえば、後書きに伊藤公雄さんの名前が挙っていました。國友さんが『マッチョになりたい!?』を著すにあたって、伊藤さんの協力が大きかったそうです。
我が国における男性学の祖は、『脱男性の時代』を著した渡辺恒夫さんだと僕は思っていますが、伊藤公雄さんを男性学の祖として認識されている方も多いようです。
現在、巷に流布している〈 男性学 〉の書籍には彼の著作も多いです。
僕も何冊か読んだのですが、國友さんの本のような、共感と興奮とカタルシスはありませんでした。
この差はいったい何なのでしょう。自己理解のために興味がありますね。

『男は痛い!』然り、『マッチョになりたい!?』然り、國友さんの文に共感できるのは、やはり境遇が似ているせいなのかもしれません。
第2章のところで、〈 当事者カウンセリング 〉という語が出てきましたが、僕は國友さんの文章を読むことで、結果的にこれを実践しているのかもしれませんね。
魂が解放されて、少しラクになったように感じているのかもしれない。
いずれにせよ、『マッチョになりたい!?』は、僕にとってはすごく貴重な本だと感じました。
『男は痛い!』に続いて、いい出会いができました。
近いうちに、國友さん宛に感想とお礼を差し上げられたらいいなあなどと考えている今日この頃です。
「素敵な本をありがとうございました!」とお伝えしたいですね(^^)

とりあえず、続きもじっくり味わいながら読み進めようと思います。

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