Nikkoh の 徒然日記

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マイノリティ とその〈 攻撃性 〉のこと

2014-07-28 09:42:40 | マイノリティ考察
今から1年と少し前、2013年6月23日に、僕は Facebook で以下のような投稿をしました。

僕は、ありとあらゆる側面においてマイノリティ(少数者)になることが多いのです。それは別に意図的にマイノリティになっているわけではなくて、生まれつきそうだったり、たまたま自分の好きなように選択した結果として偶然にそうなるのです。運命的に宿命づけられているのか、無意識のうちに選び取っているのか、いずれにせよそうなのです。
そして、マイノリティ(少数者)というのは、どうしても、身構えて生きることになりがち なんだと思います。鎧を何重にも纏って、武装して、そうやって自分を守ろうとするのだと思います。そして、怖がりな犬ほどよく吠えるといいますが、恐怖におびえながら食って掛かってしまいがちだと思います。
僕は他者に攻撃性を向けることも、他者から攻撃性を向けられることも、どちらも嫌いです。それなのに、時折、僕から攻撃性を感じるという指摘を受けることがあります。後々振り返ってみると、そういう指摘を受けるときは、たいがい自らのマイノリティ性に関わることを話しているときだと気づきました。
そういう印象を他者に与えてしまうことは僕の望むことではないので、気をつけてはいます。それでも、やはり限度があります。どうしても抑えられないのです。「寂しさを感じ」ながら、あるいは「悲しみに震え」ながら、鎧の中で吠えている僕がそこにいるのです。
攻撃的でけんか腰の印象を受ける《 闘い 》が嫌いな僕。それなのに、結果的にその《 闘い 》をしている僕。このジレンマにどうやって折り合いをつけたものか。攻撃的でもけんか腰でもない主張ができるようになればいいのでしょうが、修行が足りないようです。


今あらためて読み返してみて、「ああ基本的には変わってないなあ。そのままだなあ」と感じました。
もっと穏やかな心で生きたいなあ。それが僕の願いなのですから…。

マイノリティであるということは、理不尽さや不条理感・不公平感 を背負わされるという結果につながりがちです。
どこか 報われない感じ とか、分かって貰えない感じ とかを抱えがちです。
総じて言ってしまえば、やはり特有の〈 生きづらさ 〉があると思います。
そして、それが 孤独感や劣等感や怒りや悲しみや攻撃性 へとつながっていく場合も多いのだと思います。

つまるところ、一つ一つ、心の中の傷やトラウマなんかを〈 癒して 〉いくしか無いのかもしれません。
そして、そんなことは果たして可能なのだろうかという疑問がありますね。

今、同性愛者であること(セクシュアル・マイノリティであること)に関して言えば、僕の中ではかなり癒せていることを感じます。
同性愛のことを話すとき、もう以前ほど攻撃性が出ることはありません。鎧を何重にも纏って防御する感じも無く、「寂しさを感じ」たり「悲しみに震え」たりするということもほとんどありません。ただ、静かに語ることができていると思います。

でも、最近のこのブログの主テーマとなっている、〈 手弱男 〉 のこと、あるいはもっと幅を広げて〈 男性差別 〉とか〈 マスキュリズム 〉のこととなると、話は大きく違います。
思えば僕は、少年期からずっとジェンダーのことに悩んできたとも言えるのです。
僕にとって、〈 セクシュアリティ 〉のことは実はそこまで重たい問題ではなかったのでしょう。真剣に同性愛のことで悩んだ時間って、本当に短いのです。
それに対して、〈 ジェンダー 〉の問題はかなり根深いものがあります。ジェンダーのことこそが、重くのし掛かっている大問題なんだと、確信しています。
今まで、基本的にはずっと一人で抱え込んできたこのテーマを、最近になってようやく他者に話せるようになってきました。ブログの記事も、あれこれと書けるようになってきました。
ただ、そこにはどうしても攻撃性が強く出てきてしまいます。なぜそうなるかは明らかです。
それは、僕がこの点についてほとんど癒されていないからでしょう。
ジェンダーのことを語るとき、僕は、「寂しさを感じ」ながら、あるいは、「悲しみに震え」ながら、鎧の中で吠えているのです。

僕はまず、自分自身がこのことについて癒される必要があると強く思います。
人の力を借りて癒されるということもあるでしょうし、自分で自分を癒すというアプローチももちろんあるでしょう。
とにかく、もっともっと癒していきたい。そして、不条理感・不公平感に圧倒されることなく、このテーマを静かに語ることができるようになりたいのです。

ところで、マイノリティ性を抱えている人というのは、実のところかなり多いと思います。究極的には、人は皆、何らかのマイノリティ性を抱えているのではないかと思うのです。
人間が悩む場合、「自分だけなんじゃないか・・・」と思いこんでしまって苦しむケースがあります。これは実際のところ(客観的にいえば)マイノリティで無かったとしても、当人の認識の中ではマイノリティなんですよね。したがって、悩みの構造(?)としては、同じような種類のものなんだと思います。

そんなわけで、特定のマイノリティだけを〈 聖化 〉してしまうことに対しては、僕は懐疑的です。
形や度合いは違えど、マイノリティ性を抱えて悩んだり苦しんだりしている人はたくさんいることでしょう。
したがって、特定の〈 聖化 〉されたマイノリティだけのこととして捉えるというよりは、もっと幅広く、色々な人にありがちな問題として考えていくのが良いと思います。

※ マイノリティの〈 聖化 〉のことについては、小浜逸郎さんの『「弱者」とはだれか』がたいへん参考になると思います。よろしければご一読ください

「弱者」とはだれか (PHP新書)
小浜逸郎
PHP研究所


コミュニケーションをとる場合、攻撃性が出てくる人がいたなら、もしかしたらその人の抱えている何らかのマイノリティ性に起因しているのかもしれません。
そして、自分自身が、どうしても攻撃性が出てしまうと思う場合にも、そこを疑ってみてもいいのかもしれません。

僕も引き続きこの問題に取り組んでいきたいです。少しでも〈 生きづらさ 〉を緩和して、僕が一番に望んでいる、穏やかな人生へとつなげていくために。
コメント (4)
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