マイク・アダムス(M・アダムス)の名前は、このブログの記事で、これまでに何度か登場しています。
彼は、僕に大いなるカタルシス効果を与えてくれた、『氷河期の子ども』(フランシス・バウムリ編著“Men Freeing Men”に所収されている一篇)の執筆者です。
“Men Freeing Men”は1991年に下村満子氏によって日本語訳されています。残念ながら現在では絶版となっていると思われますが、古本を入手するか、図書館等で読めるかもしれません。
『氷河期の子ども』の内容をご紹介したいと予てから思っています。しかし、その本文は、30頁にわたります。
全米男性会議についての記事 のように連載にしても良いのですが、もう少しコンパクトに要旨を伝えたいという思いもあります。
実は、マイク・アダムスの名前は、別の書籍の中にも登場します。
それは、“Men Freeing Men”を日本語訳した下村満子氏の著書『男たちの意識革命』です。1980年代の初頭、朝日新聞のニューヨーク特派員だった下村氏が、現地で取材を重ねつつ書いた貴重な本となっています。こちらも残念ながら現在では絶版です。
この本の182頁から196頁まで、『根底に流れるレディーファースト体験への怒り』という一節があるのですが、その後半部分にマイク・アダムスが登場しています。
その部分は文庫本で5頁ほどであり、手頃な分量になっています。そこで、今回はその内容を紹介してみようと思います。
マイク・アダムスはどんな憤りを抱いたのか。詳しくは『氷河期の子ども』を読む必要があると思います。ここでは、その大枠だけでも伝われば幸いです。
「“自由な男”連盟」のメンバーの一人マイク・アダムスは、「少年時代からずうっと彼を悩ませ続けてきた抑えがたい憤りの感情について、こう告白した」
《あれは九歳のときでした。ある日曜日、ぼくたち一家は、隣人一家と一緒に教会へ出かけました。
母や姉や隣のおばさんたちの後ろを、父や隣のおじさんやぼくたちが歩いていました。ぼくはエネルギーがあり余っている年ごろで、歩くのがもどかしく途中から走り出したのです。当然前の女性たちを追い抜く形になったのですが、そのとき、父は恐ろしい顔でぼくの腕を引っぱり引きもどし、いやというほどなぐりました。
「レディーたちの前に出るなんて、おまえはなんというやつだ! 男というものは、レディーの一歩うしろから歩くものなのだ。これから決してこんなことをしてはいかんぞ!」
父は大声でぼくをどなりつけ、再びぼくの首根っこをつかんでこづきました。
そのとき、一瞬ぼくの心を二つの疑問がよぎりました。
「なぜ男は女のうしろを歩かなければいけないのか。それになぜパパは、ぼくにこんなひどい体罰を加え、姉さんには決してそうしないのだろう」
以来ぼくは、男であるということで人がぼくに期待する、あらゆることがらを憎むようになりました。
女性のためにドアを開けること、椅子を引くこと、コートを着せたり脱がせたりすること、女性が部屋に入ってくるや起立して迎えること、などなど。「レディーファースト」と呼ばれるすべての習慣を、ぼくは憎むようになったのです》
この9歳の時の出来事が、彼の心の奥底にずっと刻み込まれているのでしょうね。
“男であるということで人がぼくに期待する、あらゆることがらを憎むようになりました。” というところ、ぜひ噛みしめてください。
“女であるということで人が期待する、あらゆることがらを憎む”人がいます。それと同じように、“男であるということで人が期待する、あらゆることがらを憎む”人もいるのです。
筆者である僕自身にも、似たような思いがあります。僕の性自認は男性であって、男らしくありたい と思っています。ただ、それは他者や社会に期待される(強要される)男らしさに副うということではありません。
「男だから○○しろ」とか「男だから××するな」とか、そういう縛りの多くは僕にとっては苦痛です。おそらくですが、マイク・アダムス氏も同じような感覚を抱いていたのだろうと思います。
※ よく男の《特権》と称されることの多くは、実は、他者や社会に期待される(強要される)男らしさなのではないでしょうか。事実、僕にとってはそれらの《特権》の多くは《苦痛》でしかないのです。
ここでは、もう一つの問題が提起されています。それは、罰せられるということについての問題です。
同じことをしても、男性と女性では罰せられ方が違うということが、現実としてあると思います。
男児と女児が同じ“悪さ”をしたとき、2人は必ず同じように罰せられるのでしょうか? あなたはどう思いますか?
男性と女性が同じ犯罪を犯したとき、2人は必ず同じように罰せられるのでしょうか? あなたはどう思いますか?
この件については、『男性権力の神話』で多く触れられています。詳しくは、本記事の末尾をご覧ください。
では、続きを読み進めることにしましょう。
さらに成長したマイク・アダムスを、どのような運命が待ち受けていたのでしょうか。
マイクはその後、 高校のレスリングの実習を拒否して落第する。レスリングは性に合わなかった。だが、先生は「男になるために必要なのだ」と強要した。
マイクの心の奥にひそむ女性に対する反感と拒絶は、日に日に深くなっていった。ベトナム戦争が始まってからは、その感情はいっそう強いものになった。友人たちは、いつ召集令状がくるかとビクビクしていた。
《ぼくらはみんな、ベトナムへ行って死ぬか、兵役を拒否して刑務所に入るか、カナダなどに亡命するか、その三つの一つの選択 しかなかった。が、同年の女の子たちは、 結婚するか、大学へ進むか、就職するか、その他いくつもの、それもバラ色の人生の選択 が許されていました。
しかし、女性に対するそうした敵意や嫌悪と並行して、ぼくの中には、女性への抑えがたいロマンチックな感情と欲求が燃えあがり、この二つの相矛盾した気持ちのはざまで、心と体がまつ二つに引き裂かれる思いでした。ぼくはそのことで、罪の意識に悩みました。そんな屈折した状態では、女の子との関係もうまくいくはずがなく、ガールフレンドにはふられ、自暴自棄になりました。
学校の成績は下がり、ついに登校を拒否し、不良少年の仲間入りをし、退学処分になったのです》
マイクの人生は、こうして大きく狂っていく。職を転々とし、結婚に三度も失敗し、 多くのアメリカ人にとってお定まりコース、精神分析医通いが始まる。
高校時代のことについては、『氷河期の子ども』で詳しく記述されています。大切な部分なので、いずれそちらを紹介してみようと思います。ここでは、ごく一節のみ、引用しておきます。
これが1968年のぼくだった。新聞の見出しを毎日飾るベトナム戦争は、これから人生の一番いい時期をむかえるぼくには恐怖だったし、性の問題について週に3度は考え込み、傷ついていた。その上、レスリング用のウェアを着て男子のロッカールームを出るべきかどうかで頭を悩ませなければならなかった。それなのに、女子が同じめに合わなくてもよいということに深い怒りを持った。彼女たちが直接悪いわけではないとわかっていたが、この怒りは当然だ。なぜなら彼女たちはぼくの人生におけるすべてのいやなことから解放されているのだ。もちろん、彼女たちはぼくにない女性としての問題を抱えていたが、こちら側から見ると隣の芝生は特に青く見えたのだ。(『正しいオトコのやり方』p.210)
ところで、日本の高校でも、1993年頃まで、男子生徒は女子生徒より多くの体育の授業を受けなければなりませんでした。普通科全日制の多くの高校の場合、男子は3年間で11単位,女子は3年間で7単位に設定されていたと思われます。これは、女子のみ家庭科が必修であったことの裏返しでもあります。「女子だけが家庭科を押し付けられていた」と言う批判が成り立つのならば、「男子だけが4単位も多く体育の授業を受けさせられていた」と言う批判もまた成り立つでしょう。
なお、この増えた時間数は、柔道や剣道などの武道の授業に充てられることが多かったようです。アメリカではレスリング,日本では武道。置き換えてみれば似たような構図ですね。
続いて、ベトナム戦争に伴う徴兵の話が出てきます。これは言うまでもなく、マイク・アダムス氏にとって重大な局面となりました。この辺りの事の顛末も、『氷河期の子ども』に詳細に記述されています。
徴兵制は、言うまでもなく重大な男性差別です。日本で日本人として生きていると、実感の湧かない部分もあります。しかし、世界にはまだ徴兵制が健在の国がたくさんあります。当然のように、その殆どは、男性のみを対象とした徴兵制です。今、この瞬間にも、当時のマイク・アダムス氏と同様の心境を味わっている若者がたくさん居るのです。
例えば、隣国である大韓民国では、徴兵問題から男性差別問題に開眼する人々もいて、実際に社会運動が繰り広げられていると聞きます。軍隊内部では酷い人権蹂躙や暴力が横行しているようで、仮に戦闘地へ行かずに済んだとしても、軍隊へ入ることそのものが多大な苦痛であり、心に大きな傷を残すことになるでしょう。ただ、そこから逃れる方法は無く、兵役拒否を貫けば犯罪となり、刑務所送りです。あまりにも救いがありませんね。
(註:国によっては、《 良心的徴兵拒否 》を認めているようです。例えば、代替としてのボランティア活動を行うなど)
10代後半の多感な少年が、このような厳しい現実に直面したとき、平静でいられなくなるのも当然のことでしょう。まして、同い年の少女たちはこの運命からまったくもって無縁であるとしたら……。自分が暴力や人権蹂躙の渦巻く軍隊の中に国家権力によって押し込められている間、かつてのクラスメイトであった女子は悠々と大学で学問を修めているのだとしたら……。
もちろん、すべての男性にとって、徴兵が苦痛であるということは無いのかもしれません。しかし、如何にしても耐えられないほどの苦痛を感ずる人が存在するのは事実であり、それを無視した逃げ場のない徴兵制は大いに問題でしょう。
軍隊はすべての国家にとって必要なものだと思います。しかし、然るべき待遇を用意した上での志願制であるべきです。そして、軍隊組織を浄化する(暴力や人権蹂躙を排除する)必要があるでしょう。
さて、精神を病むに至ったマイク・アダムス氏は、どのようにして闇から解き放たれていったのでしょうか。
続きを読み進めることにしましょう。
一九七八年、彼は 『ニューズ・ウィーク』誌の記事を通じ「“自由な男”連盟」の存在を知り、狂喜する。
《ぼくは記事を読みながら、泣いていました。ぼくが少年のころから長い間考え続けていた、そしてそれを口にするたびにみんなから笑われ、変人扱いされ、まさにその同じ考えを持った男たちがほかにもいることを知ったからです》
こうして、マイクは、十七年の長い放浪の旅に終止符を打つ。
「“自由な男”連盟のメンバーになって、多くの友人を得、話し合えるようになって、彼の精神と生活は安定を取りもどした。
心にひそむ怒りはしだいにうすれ、女性たちとも余裕を持って接することができるようになった。
あるとき、彼はパーティーへ出かけ、そこで女たちがこんな会話をかわしているのを耳にした。
「日本では女は男から三歩きがって歩かなければならなかったんですってよ。ずいぶん女性を低くみたバカにした習慣じゃない?」
「ほんと、そんなふうな習慣の中に育ったら、女性は劣等感のかたまりになっちゃうでしょうね。そうじゃない?」
その女性は、マイクのほうを向いて同意を求めた。
《以前のぼくだったら、そこで怒りを爆発させたと思う。バーティーをめちゃくちゃにしたかもしれない。が、いまや、ぼくは平静に笑いながら、こう答えることができるようになったのです。
「まったくですよ、そういう習慣は、実に非人間的だと思うな」
ぼくの心には、九歳のときの思い出がよみがえりました。
「それがどれほど人間をおとしめることか、ぼく自身の経験を通してよくわかりますよ」
みんないっせいに不思議そうな顔でぼくを見ました。
「経験って? あなた日本へいらしたことがあるの?」
彼女たちはなんにもわかっていないのだ。ぼくの言ったことの意味が。おかしさがこみ上げてきた。ぼくは思わず大声で笑い出しました。
「いまにわかるさ。ぽくらの男性解放運動が、もっと広まったら、必ず気がつくときがあるさ」。
そう心の中でつぶやいたのです》
仲間を得ると言うことは、とても大きな意味を持ちますね。それだけで、癒される部分はあると思います。
男性差別に開眼した、“マスキュリスト”はマイノリティです。フェミニストと比べればその差は歴然としています。マイク・アダムス氏が苦しんでいた当時であればなおさらでしょう。
孤独だった彼は、仲間と出会うことで、安心感を得て少し癒されていきました。
最後のところ。少し洒落が効いていますね。読者の皆様はお分かりになりましたか?
もちろん、冒頭に書かれていたエピソードと、重ね合わせているわけですね。
でも、その真意を周囲の女たちは分かっていない。分かっていないということを彼はすべて受け止めてしまっていて、むしろ楽しんですらいる。
なかなかこういう風にはできないなあと思います。僕だったらどうだろう。たぶん、懇切丁寧に解説を始めて、鬱陶しがられるのだろうなあと思います。
僕も、いつか、マイク・アダムス氏のようになれるのかな。
それにしても、欧米の“レディーファースト”と、日本の“男尊女卑”は、真逆の構図になるんですね。
やはり、欧米と日本では、根底にある文化がまるっきり違うんだろうなあと思います。
父(男性)が実質的な力を握ることの多かった欧米では、形式的に女性を立てる“レディファースト”が根付いたのかもしれません。
母(女性)が実質的な力を握ることの多かった日本では、形式的に男性を立てる“男尊女卑”が根付いたのかもしれません。
もちろん、これは1つの仮説に過ぎません。
男性と女性の間には、“非対称な構造”があります。それが“レディファースト”と名付けられるにせよ、“男尊女卑”と名付けられるにせよ、結局のところ男女双方が旨味を享受したり、損をしたり、傷ついたり傷つけられたりするのだと思います。
我々は、この“非対称な構造”を、フラットな目で解明していかなければならないのだと、僕は思っています。
------------------------------------
【 補遺 】
男性と女性では罰せられ方が違うということについて。『男性権力の神話』より資料をご紹介。
主に、
「第7章:誰に対しての暴力?」,
「第9章:どのようにシステムが女性を保護するのだろうか、それとも…私たちが住んでいる世界は2つの違った法律が存在するのだろうか」,
「第10章:女性は多すぎるほど殺し、司法は彼女らを釈放する―12の“女性にだけ働く”バイアス」
に記載があります。
学校での体罰は未だ21の州において合法だ。しかし体罰を実施している大部分の学区では、少女の頬を定規ではたいた教師はその親が訴訟で教師をはたくことを恐れることになる。そして少女の頬をピシャリと彼の手で打った男性教師の終身在職権や退職金は忘れ去られる可能性がある。よって慣習的に、体罰は少年への罰になる。多くの学校は黒人の少年の方が白人の少年よりも多く叩かれる傾向に抗議してきたが、どの学校も少年だけが叩かれる傾向には抗議しなかった。私たちは少年への暴力には抗議しない、なぜならそれは隠されているからだ。(『男性権力の神話』p.222)
殺人の罪を犯した男性は、殺人の罪を犯した女性の約20倍死刑になる。(『男性権力の神話』p.245)
ノースカロライナ州では、第2級殺人を犯した男性の刑期は、第2級殺人を犯した女性より平均12.6年長かった。(『男性権力の神話』p.245)
夫と妻が家で違法な麻薬のビジネスをしていた ― 2人は台所のテーブルでせっせとドラッグを袋詰めしていた。彼らの裁判で夫は“中心人物”のレッテルを貼られ刑務所に入れられた。妻は執行猶予つきで釈放された。麻薬売人の弁護士はこのダブルスタンダードを“ドラッグ・ディーラー・パターン”と呼んだ。(『男性権力の神話』p.247)
23人のアメリカ人は死刑になったあとで無罪が発覚している。その23人の全員は男性であった。(『男性権力の神話』p.249)
1954年から、そう、約7万人の女性が殺人を犯してきた。彼女らの被害者には約6万人の男性が含まれている。しかし、(中略)一人の女性として男性だけを殺しただけでは死刑になっていない。(『男性権力の神話』p.249)
マージョリー・フィリパークと16歳のヘス・ウィルキンズは、共に殺人の共謀罪であったと罪を認めた。どちらも前科はなかった。ヘス・ウィルキンズは死刑になった。そして、マージョリー・フィリパークは釈放された。(『男性権力の神話』p.250)
ヘス・ウィルキンズが児童性的虐待の被害者であることが発覚したとき、それが彼の死刑の判決を止めることはなかった。ジョセフィン・メイサが児童虐待の被害者であることが見つかったとき、陪審員団は彼女を無罪にした。ジョセフィン・メイサは彼女の23ヶ月の息子をトイレのつまりを直すきゅっぽんで殺した。(『男性権力の神話』p.250)
彼は、僕に大いなるカタルシス効果を与えてくれた、『氷河期の子ども』(フランシス・バウムリ編著“Men Freeing Men”に所収されている一篇)の執筆者です。
“Men Freeing Men”は1991年に下村満子氏によって日本語訳されています。残念ながら現在では絶版となっていると思われますが、古本を入手するか、図書館等で読めるかもしれません。
正しいオトコのやり方―ぼくらの男性解放宣言 | |
フランシス バウムリ (著), 下村満子 (翻訳) | |
学陽書房 |
『氷河期の子ども』の内容をご紹介したいと予てから思っています。しかし、その本文は、30頁にわたります。
全米男性会議についての記事 のように連載にしても良いのですが、もう少しコンパクトに要旨を伝えたいという思いもあります。
実は、マイク・アダムスの名前は、別の書籍の中にも登場します。
それは、“Men Freeing Men”を日本語訳した下村満子氏の著書『男たちの意識革命』です。1980年代の初頭、朝日新聞のニューヨーク特派員だった下村氏が、現地で取材を重ねつつ書いた貴重な本となっています。こちらも残念ながら現在では絶版です。
男たちの意識革命 (朝日文庫) | |
下村満子 | |
朝日新聞社 |
この本の182頁から196頁まで、『根底に流れるレディーファースト体験への怒り』という一節があるのですが、その後半部分にマイク・アダムスが登場しています。
その部分は文庫本で5頁ほどであり、手頃な分量になっています。そこで、今回はその内容を紹介してみようと思います。
マイク・アダムスはどんな憤りを抱いたのか。詳しくは『氷河期の子ども』を読む必要があると思います。ここでは、その大枠だけでも伝われば幸いです。
「“自由な男”連盟」のメンバーの一人マイク・アダムスは、「少年時代からずうっと彼を悩ませ続けてきた抑えがたい憤りの感情について、こう告白した」
《あれは九歳のときでした。ある日曜日、ぼくたち一家は、隣人一家と一緒に教会へ出かけました。
母や姉や隣のおばさんたちの後ろを、父や隣のおじさんやぼくたちが歩いていました。ぼくはエネルギーがあり余っている年ごろで、歩くのがもどかしく途中から走り出したのです。当然前の女性たちを追い抜く形になったのですが、そのとき、父は恐ろしい顔でぼくの腕を引っぱり引きもどし、いやというほどなぐりました。
「レディーたちの前に出るなんて、おまえはなんというやつだ! 男というものは、レディーの一歩うしろから歩くものなのだ。これから決してこんなことをしてはいかんぞ!」
父は大声でぼくをどなりつけ、再びぼくの首根っこをつかんでこづきました。
そのとき、一瞬ぼくの心を二つの疑問がよぎりました。
「なぜ男は女のうしろを歩かなければいけないのか。それになぜパパは、ぼくにこんなひどい体罰を加え、姉さんには決してそうしないのだろう」
以来ぼくは、男であるということで人がぼくに期待する、あらゆることがらを憎むようになりました。
女性のためにドアを開けること、椅子を引くこと、コートを着せたり脱がせたりすること、女性が部屋に入ってくるや起立して迎えること、などなど。「レディーファースト」と呼ばれるすべての習慣を、ぼくは憎むようになったのです》
この9歳の時の出来事が、彼の心の奥底にずっと刻み込まれているのでしょうね。
“男であるということで人がぼくに期待する、あらゆることがらを憎むようになりました。” というところ、ぜひ噛みしめてください。
“女であるということで人が期待する、あらゆることがらを憎む”人がいます。それと同じように、“男であるということで人が期待する、あらゆることがらを憎む”人もいるのです。
筆者である僕自身にも、似たような思いがあります。僕の性自認は男性であって、男らしくありたい と思っています。ただ、それは他者や社会に期待される(強要される)男らしさに副うということではありません。
「男だから○○しろ」とか「男だから××するな」とか、そういう縛りの多くは僕にとっては苦痛です。おそらくですが、マイク・アダムス氏も同じような感覚を抱いていたのだろうと思います。
※ よく男の《特権》と称されることの多くは、実は、他者や社会に期待される(強要される)男らしさなのではないでしょうか。事実、僕にとってはそれらの《特権》の多くは《苦痛》でしかないのです。
ここでは、もう一つの問題が提起されています。それは、罰せられるということについての問題です。
同じことをしても、男性と女性では罰せられ方が違うということが、現実としてあると思います。
男児と女児が同じ“悪さ”をしたとき、2人は必ず同じように罰せられるのでしょうか? あなたはどう思いますか?
男性と女性が同じ犯罪を犯したとき、2人は必ず同じように罰せられるのでしょうか? あなたはどう思いますか?
この件については、『男性権力の神話』で多く触れられています。詳しくは、本記事の末尾をご覧ください。
では、続きを読み進めることにしましょう。
さらに成長したマイク・アダムスを、どのような運命が待ち受けていたのでしょうか。
マイクはその後、 高校のレスリングの実習を拒否して落第する。レスリングは性に合わなかった。だが、先生は「男になるために必要なのだ」と強要した。
マイクの心の奥にひそむ女性に対する反感と拒絶は、日に日に深くなっていった。ベトナム戦争が始まってからは、その感情はいっそう強いものになった。友人たちは、いつ召集令状がくるかとビクビクしていた。
《ぼくらはみんな、ベトナムへ行って死ぬか、兵役を拒否して刑務所に入るか、カナダなどに亡命するか、その三つの一つの選択 しかなかった。が、同年の女の子たちは、 結婚するか、大学へ進むか、就職するか、その他いくつもの、それもバラ色の人生の選択 が許されていました。
しかし、女性に対するそうした敵意や嫌悪と並行して、ぼくの中には、女性への抑えがたいロマンチックな感情と欲求が燃えあがり、この二つの相矛盾した気持ちのはざまで、心と体がまつ二つに引き裂かれる思いでした。ぼくはそのことで、罪の意識に悩みました。そんな屈折した状態では、女の子との関係もうまくいくはずがなく、ガールフレンドにはふられ、自暴自棄になりました。
学校の成績は下がり、ついに登校を拒否し、不良少年の仲間入りをし、退学処分になったのです》
マイクの人生は、こうして大きく狂っていく。職を転々とし、結婚に三度も失敗し、 多くのアメリカ人にとってお定まりコース、精神分析医通いが始まる。
高校時代のことについては、『氷河期の子ども』で詳しく記述されています。大切な部分なので、いずれそちらを紹介してみようと思います。ここでは、ごく一節のみ、引用しておきます。
これが1968年のぼくだった。新聞の見出しを毎日飾るベトナム戦争は、これから人生の一番いい時期をむかえるぼくには恐怖だったし、性の問題について週に3度は考え込み、傷ついていた。その上、レスリング用のウェアを着て男子のロッカールームを出るべきかどうかで頭を悩ませなければならなかった。それなのに、女子が同じめに合わなくてもよいということに深い怒りを持った。彼女たちが直接悪いわけではないとわかっていたが、この怒りは当然だ。なぜなら彼女たちはぼくの人生におけるすべてのいやなことから解放されているのだ。もちろん、彼女たちはぼくにない女性としての問題を抱えていたが、こちら側から見ると隣の芝生は特に青く見えたのだ。(『正しいオトコのやり方』p.210)
ところで、日本の高校でも、1993年頃まで、男子生徒は女子生徒より多くの体育の授業を受けなければなりませんでした。普通科全日制の多くの高校の場合、男子は3年間で11単位,女子は3年間で7単位に設定されていたと思われます。これは、女子のみ家庭科が必修であったことの裏返しでもあります。「女子だけが家庭科を押し付けられていた」と言う批判が成り立つのならば、「男子だけが4単位も多く体育の授業を受けさせられていた」と言う批判もまた成り立つでしょう。
なお、この増えた時間数は、柔道や剣道などの武道の授業に充てられることが多かったようです。アメリカではレスリング,日本では武道。置き換えてみれば似たような構図ですね。
続いて、ベトナム戦争に伴う徴兵の話が出てきます。これは言うまでもなく、マイク・アダムス氏にとって重大な局面となりました。この辺りの事の顛末も、『氷河期の子ども』に詳細に記述されています。
徴兵制は、言うまでもなく重大な男性差別です。日本で日本人として生きていると、実感の湧かない部分もあります。しかし、世界にはまだ徴兵制が健在の国がたくさんあります。当然のように、その殆どは、男性のみを対象とした徴兵制です。今、この瞬間にも、当時のマイク・アダムス氏と同様の心境を味わっている若者がたくさん居るのです。
例えば、隣国である大韓民国では、徴兵問題から男性差別問題に開眼する人々もいて、実際に社会運動が繰り広げられていると聞きます。軍隊内部では酷い人権蹂躙や暴力が横行しているようで、仮に戦闘地へ行かずに済んだとしても、軍隊へ入ることそのものが多大な苦痛であり、心に大きな傷を残すことになるでしょう。ただ、そこから逃れる方法は無く、兵役拒否を貫けば犯罪となり、刑務所送りです。あまりにも救いがありませんね。
(註:国によっては、《 良心的徴兵拒否 》を認めているようです。例えば、代替としてのボランティア活動を行うなど)
10代後半の多感な少年が、このような厳しい現実に直面したとき、平静でいられなくなるのも当然のことでしょう。まして、同い年の少女たちはこの運命からまったくもって無縁であるとしたら……。自分が暴力や人権蹂躙の渦巻く軍隊の中に国家権力によって押し込められている間、かつてのクラスメイトであった女子は悠々と大学で学問を修めているのだとしたら……。
もちろん、すべての男性にとって、徴兵が苦痛であるということは無いのかもしれません。しかし、如何にしても耐えられないほどの苦痛を感ずる人が存在するのは事実であり、それを無視した逃げ場のない徴兵制は大いに問題でしょう。
軍隊はすべての国家にとって必要なものだと思います。しかし、然るべき待遇を用意した上での志願制であるべきです。そして、軍隊組織を浄化する(暴力や人権蹂躙を排除する)必要があるでしょう。
さて、精神を病むに至ったマイク・アダムス氏は、どのようにして闇から解き放たれていったのでしょうか。
続きを読み進めることにしましょう。
一九七八年、彼は 『ニューズ・ウィーク』誌の記事を通じ「“自由な男”連盟」の存在を知り、狂喜する。
《ぼくは記事を読みながら、泣いていました。ぼくが少年のころから長い間考え続けていた、そしてそれを口にするたびにみんなから笑われ、変人扱いされ、まさにその同じ考えを持った男たちがほかにもいることを知ったからです》
こうして、マイクは、十七年の長い放浪の旅に終止符を打つ。
「“自由な男”連盟のメンバーになって、多くの友人を得、話し合えるようになって、彼の精神と生活は安定を取りもどした。
心にひそむ怒りはしだいにうすれ、女性たちとも余裕を持って接することができるようになった。
あるとき、彼はパーティーへ出かけ、そこで女たちがこんな会話をかわしているのを耳にした。
「日本では女は男から三歩きがって歩かなければならなかったんですってよ。ずいぶん女性を低くみたバカにした習慣じゃない?」
「ほんと、そんなふうな習慣の中に育ったら、女性は劣等感のかたまりになっちゃうでしょうね。そうじゃない?」
その女性は、マイクのほうを向いて同意を求めた。
《以前のぼくだったら、そこで怒りを爆発させたと思う。バーティーをめちゃくちゃにしたかもしれない。が、いまや、ぼくは平静に笑いながら、こう答えることができるようになったのです。
「まったくですよ、そういう習慣は、実に非人間的だと思うな」
ぼくの心には、九歳のときの思い出がよみがえりました。
「それがどれほど人間をおとしめることか、ぼく自身の経験を通してよくわかりますよ」
みんないっせいに不思議そうな顔でぼくを見ました。
「経験って? あなた日本へいらしたことがあるの?」
彼女たちはなんにもわかっていないのだ。ぼくの言ったことの意味が。おかしさがこみ上げてきた。ぼくは思わず大声で笑い出しました。
「いまにわかるさ。ぽくらの男性解放運動が、もっと広まったら、必ず気がつくときがあるさ」。
そう心の中でつぶやいたのです》
仲間を得ると言うことは、とても大きな意味を持ちますね。それだけで、癒される部分はあると思います。
男性差別に開眼した、“マスキュリスト”はマイノリティです。フェミニストと比べればその差は歴然としています。マイク・アダムス氏が苦しんでいた当時であればなおさらでしょう。
孤独だった彼は、仲間と出会うことで、安心感を得て少し癒されていきました。
最後のところ。少し洒落が効いていますね。読者の皆様はお分かりになりましたか?
もちろん、冒頭に書かれていたエピソードと、重ね合わせているわけですね。
でも、その真意を周囲の女たちは分かっていない。分かっていないということを彼はすべて受け止めてしまっていて、むしろ楽しんですらいる。
なかなかこういう風にはできないなあと思います。僕だったらどうだろう。たぶん、懇切丁寧に解説を始めて、鬱陶しがられるのだろうなあと思います。
僕も、いつか、マイク・アダムス氏のようになれるのかな。
それにしても、欧米の“レディーファースト”と、日本の“男尊女卑”は、真逆の構図になるんですね。
やはり、欧米と日本では、根底にある文化がまるっきり違うんだろうなあと思います。
父(男性)が実質的な力を握ることの多かった欧米では、形式的に女性を立てる“レディファースト”が根付いたのかもしれません。
母(女性)が実質的な力を握ることの多かった日本では、形式的に男性を立てる“男尊女卑”が根付いたのかもしれません。
もちろん、これは1つの仮説に過ぎません。
男性と女性の間には、“非対称な構造”があります。それが“レディファースト”と名付けられるにせよ、“男尊女卑”と名付けられるにせよ、結局のところ男女双方が旨味を享受したり、損をしたり、傷ついたり傷つけられたりするのだと思います。
我々は、この“非対称な構造”を、フラットな目で解明していかなければならないのだと、僕は思っています。
------------------------------------
【 補遺 】
男性と女性では罰せられ方が違うということについて。『男性権力の神話』より資料をご紹介。
主に、
「第7章:誰に対しての暴力?」,
「第9章:どのようにシステムが女性を保護するのだろうか、それとも…私たちが住んでいる世界は2つの違った法律が存在するのだろうか」,
「第10章:女性は多すぎるほど殺し、司法は彼女らを釈放する―12の“女性にだけ働く”バイアス」
に記載があります。
男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問 | |
ワレン・ファレル(著),久米 泰介(翻訳) | |
作品社 |
学校での体罰は未だ21の州において合法だ。しかし体罰を実施している大部分の学区では、少女の頬を定規ではたいた教師はその親が訴訟で教師をはたくことを恐れることになる。そして少女の頬をピシャリと彼の手で打った男性教師の終身在職権や退職金は忘れ去られる可能性がある。よって慣習的に、体罰は少年への罰になる。多くの学校は黒人の少年の方が白人の少年よりも多く叩かれる傾向に抗議してきたが、どの学校も少年だけが叩かれる傾向には抗議しなかった。私たちは少年への暴力には抗議しない、なぜならそれは隠されているからだ。(『男性権力の神話』p.222)
殺人の罪を犯した男性は、殺人の罪を犯した女性の約20倍死刑になる。(『男性権力の神話』p.245)
ノースカロライナ州では、第2級殺人を犯した男性の刑期は、第2級殺人を犯した女性より平均12.6年長かった。(『男性権力の神話』p.245)
夫と妻が家で違法な麻薬のビジネスをしていた ― 2人は台所のテーブルでせっせとドラッグを袋詰めしていた。彼らの裁判で夫は“中心人物”のレッテルを貼られ刑務所に入れられた。妻は執行猶予つきで釈放された。麻薬売人の弁護士はこのダブルスタンダードを“ドラッグ・ディーラー・パターン”と呼んだ。(『男性権力の神話』p.247)
23人のアメリカ人は死刑になったあとで無罪が発覚している。その23人の全員は男性であった。(『男性権力の神話』p.249)
1954年から、そう、約7万人の女性が殺人を犯してきた。彼女らの被害者には約6万人の男性が含まれている。しかし、(中略)一人の女性として男性だけを殺しただけでは死刑になっていない。(『男性権力の神話』p.249)
マージョリー・フィリパークと16歳のヘス・ウィルキンズは、共に殺人の共謀罪であったと罪を認めた。どちらも前科はなかった。ヘス・ウィルキンズは死刑になった。そして、マージョリー・フィリパークは釈放された。(『男性権力の神話』p.250)
ヘス・ウィルキンズが児童性的虐待の被害者であることが発覚したとき、それが彼の死刑の判決を止めることはなかった。ジョセフィン・メイサが児童虐待の被害者であることが見つかったとき、陪審員団は彼女を無罪にした。ジョセフィン・メイサは彼女の23ヶ月の息子をトイレのつまりを直すきゅっぽんで殺した。(『男性権力の神話』p.250)
マイク・アダムス氏の記事は、私も下村満子女史の
一連の男性開放の本で最も共感して読んだ部分です。
彼には、私と同じ匂いを感じます。
はっきりとは書かれていませんが、彼も「女になりたい」
とか「女に生まれたかった」
と考えてしまうタイプの人ではないでしょうか。
それを示唆することが、幾つも書かれていたことを
覚えています。
以前、御連絡をさし上げた件ですが、私の怠慢により、
まだ始めていません。
申し訳ありません。
> 彼には、私と同じ匂いを感じます。
もしかしたら、そうなのかもしれませんね。
真相は、アダムス氏本人にもっと詳しく話を聴かなければ、分からないのでしょうけれど。
というのは、特に「女に生まれたかった」とは思っていない僕もまた、かなり共感して読んだのです。
僕の場合、あくまでも男性で居たいですし、それ自体は肯定的に捉えています。
ただ、型にはまった男らしさを無理強いされることとか、女性の加害・男性の被害が見えざるものになりがちなこととか、生命軽視のこととか、体力のこととか、性的羞恥心のこととか、そういうところに問題意識を持っています。不条理感や不公平感を抱えています。
男でありたい。男として生きていきたい。でも、理不尽なことはちょっと嫌だな。それが基本的な僕のスタンスです。
もっとも、「男でありたい」か「女になりたい」のか、その乖離は別として、上述した問題意識じたいは、僕と貴方の間で多くを共有していると思います。そして、アダムス氏も共有するところなのだと思います。
いったい、アダムス氏は「女になりたい」人なのか、「男でありたい」人なのか。その辺りは、微妙でデリケートな話なのかもしれませんね。
いないので、とても孤独を感じています でもnikkohさんのブログを読んで、僕と同じ痛み苦しみを感じている人がいるという事が分かってとても癒されます