まず、"特権" について書かれた記事を1つお読みください。NHKのサイトに掲載されていた記事です。
アメリカのいわゆる社会公正教育(social justice education)の文脈では、
“特権”(privilege)というのを、
「マジョリティー側の属性を持っていることで、労なくして得ることができる優位性」
と定義づけているようです。
日本の左派、反差別・人権擁護・福祉を謳う学者や運動家らも、だいたいこの認識なのでしょうね。
そして、「男性」を一括りにして「マジョリティ側」へ位置付けてしまっています。
このことが、男性差別(男性に対する権利侵害,男性の被害,女性の加害)を見えざるものとしている諸悪の根源だと思います。
「マジョリティ側の属性を持っていることで」などという制約を定義に入れていることが問題 です。
この定義を採用している限り、マイノリティ側とされた属性の持つ "特権" は絶対に認識されません。
現実には、マイノリティ側に割り振られた属性にも、「労なくして得ることができる優位性」があります。
少なくとも男女に関しては、そうです。
女性にも "特権" が確かにあります。たとえば、性的羞恥心に対する配慮を受けやすかったり、さまざまな被害を訴えたときに男性と比べて救済されやすかったり、危険な労働から遠ざけられる等の生命・健康面への配慮が受けやすかったりします。徴兵制のある国のほとんどが男性のみを対象としており、国家権力により武器を持って戦うことを強要されることとも無縁でいられます。まだまだ他にも、「女性であるがゆえに(男性と比較して)労なくして得ることができる優位性」は見つかると思います。
しかし、"特権" の定義づけが偏っていることにより、これらはすべて "特権" として認識されることが無い のです。
マスキュリズム運動を進めていくにあたっては、この点を徹底的に糾弾していく必要があると思います。
"特権" は、自分ではなかなか気づけないものであり、無自覚であることが多いものです。
これはそのまま女性の "特権" にも当てはまります。
フェミニズムの運動の中で、この社会は "男性特権" を認識してきましたが、同様にして、マスキュリズムの運動の中では "女性特権" が認識されていくことになるでしょう。
私見を述べれば、男性にも女性にもそれぞれに "特権" があると思っています。
そして、男性も女性も多様性の幅がきわめて大きく、自分の性に割り振られた "特権" をどう感じるかも多様です。人によっては "特権" とは感じずに、"重荷" や "足枷" のように感じるものです。
それを一緒くたにして、"男性" と "女性" に括って議論してしまうことが、そもそも乱暴であると考えます。
多様性を謳う左派が、男女問題の議論で "男性" の多様性を完全に無視しています。おかしな話だと思いませんか。
アメリカのいわゆる社会公正教育(social justice education)の文脈では、
“特権”(privilege)というのを、
「マジョリティー側の属性を持っていることで、労なくして得ることができる優位性」
と定義づけているようです。
日本の左派、反差別・人権擁護・福祉を謳う学者や運動家らも、だいたいこの認識なのでしょうね。
そして、「男性」を一括りにして「マジョリティ側」へ位置付けてしまっています。
このことが、男性差別(男性に対する権利侵害,男性の被害,女性の加害)を見えざるものとしている諸悪の根源だと思います。
「マジョリティ側の属性を持っていることで」などという制約を定義に入れていることが問題 です。
この定義を採用している限り、マイノリティ側とされた属性の持つ "特権" は絶対に認識されません。
現実には、マイノリティ側に割り振られた属性にも、「労なくして得ることができる優位性」があります。
少なくとも男女に関しては、そうです。
女性にも "特権" が確かにあります。たとえば、性的羞恥心に対する配慮を受けやすかったり、さまざまな被害を訴えたときに男性と比べて救済されやすかったり、危険な労働から遠ざけられる等の生命・健康面への配慮が受けやすかったりします。徴兵制のある国のほとんどが男性のみを対象としており、国家権力により武器を持って戦うことを強要されることとも無縁でいられます。まだまだ他にも、「女性であるがゆえに(男性と比較して)労なくして得ることができる優位性」は見つかると思います。
しかし、"特権" の定義づけが偏っていることにより、これらはすべて "特権" として認識されることが無い のです。
マスキュリズム運動を進めていくにあたっては、この点を徹底的に糾弾していく必要があると思います。
"特権" は、自分ではなかなか気づけないものであり、無自覚であることが多いものです。
これはそのまま女性の "特権" にも当てはまります。
フェミニズムの運動の中で、この社会は "男性特権" を認識してきましたが、同様にして、マスキュリズムの運動の中では "女性特権" が認識されていくことになるでしょう。
私見を述べれば、男性にも女性にもそれぞれに "特権" があると思っています。
そして、男性も女性も多様性の幅がきわめて大きく、自分の性に割り振られた "特権" をどう感じるかも多様です。人によっては "特権" とは感じずに、"重荷" や "足枷" のように感じるものです。
それを一緒くたにして、"男性" と "女性" に括って議論してしまうことが、そもそも乱暴であると考えます。
多様性を謳う左派が、男女問題の議論で "男性" の多様性を完全に無視しています。おかしな話だと思いませんか。
ですから、男性の多様性は語られることはありません。
同様にビジネス右派も一定数はいます。
日本でも戦前までは、成人式は徴兵検査で男子は最も短い髪型にされて、全裸にされて包皮を剥きあげられて肛門まで検査されました。
ここで国家権力を思い知らせる日でもありました。
このブログ記事、読ませていただきました。
日光(Nikkoh)さんのおっしゃる通りだと思います。
今の日本では、
国会議員の数や経済界上層への進出等から算出したジェンダーギャップ指数から、
男性は権力を握る顕著なマジョリティーとして扱われ、
その指数は、日本の重大な女性差別の指標として、強力に顕在化させられていますが、
しかしその、マジョリティーとして扱われる男性集団の内実を見れば、
そこには、旧来の、男性に対する性別役割の同調圧力的強要を主因とした、
マイノリティーとしての男性の側面が浮かび上がってくる。
非日常であれば、東日本大震災や熊本地震のような、
災害対応に見られた男性支援の脆弱、人権の軽視。
日常であれば、自殺死亡であるにしろ、孤独死であるにしろ、
深刻な引きこもりであるにしろ、癌死であるにしろ、
それらは全て明らかに男性に多いにもかかわらず、
日本の社会のセイフティーネットや支援のメッセージは、
現実と乖離して、女性側に傾斜している。
ところが、その理不尽を顕在化させようとすると、
ジェンダーバイアスが、厚い障壁となって現れる。
要するに、引用記事中の出口真紀子の言う「特権」を持つ存在として位置づけられる男性集団には、
実際には、抑圧されて存在するマイノリティーとしての側面があるにもかかわらず、
あえてそこには光を照射させないという男性差別が、
男性に対する旧来の性別役割の同調圧力的強要が主因となって、
存在し続けていると思うのです。
最近、精力的にブログ更新なさっていますね。
頑張って下さい。
応援しています。