100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL71  明治の三陸名勝24 「普代海岸1.2」 (下閉伊郡普代村)

2015-03-03 18:04:42 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

「普代海岸1.2」下閉伊郡普代村)

   

 上の写真は、普代村の北部にある堀内海岸の岬です。この周辺には北山崎をはじめ北部陸中海岸の男性的景観が続いていますが、この岬の先端にある「沖松磯島・丘松磯島」も海岸美が堪能できる穴場の一つです。本写真撮影当時は、名前も付けられていませんでしたが、現在は二つ合わせて「夫婦岩」の名がも付けられ、長さ424メートルのしめ縄で繋がれています。

 下の写真は普代浜と南端の岩礁です。今回の東日本大震災でこの岩礁も大津波を丸ごと被ったと思いますが、岩の松は今でも緑の枝を茂らせています。

大津波被害を最小限に食い止めた。

さて普代村は、東日本大震災により15mを超える巨大津波に襲われたものの、死者は無く(船の様子を見るため防潮堤の外に出た行方不明者1名)、被災民家もありませんでした。これは、この浜に流れ込む普代川の上流300mに設置された「普代水門」と、南隣の太田名部地区の「太田名部防潮堤」が津波を防せいだ故です。三陸沿岸各地の殆どの防潮施設が破壊された中で、津波から街と人を守った数少ない事例です。「現代の万里の長城」と云われた宮古市田老の高さ10mの長大な防潮堤でさえ、今回の津波にはひとたまりもなかったのに、先人の遺訓に従い、明治の津波は高さ15mあったので、それより高い15.5mの水門と堤防を造った当時の村長の英断により、普代は守られました。

 但し、普代村を襲った津波は田老地区より若干弱く、もしより高くより長時間に亘って強い圧力を加えられていたら、耐えきれずに決壊した可能性もありました。三陸沿岸各地で復興工事が進められていますが、海岸線をコンクリートで全て覆つくすのは良策ではありません。因みに普代村の水門は幅205m、堤防は155mと決して長くありません。河口及び海岸部は狭く、住家は広い後背地にあったので、地形的にピンポイント防災が可能な優位性がありました。ただそれがあったとしても、先人の遺訓を守り、海岸部に住家を造らず、襲った波高より高い堤防を造ったおかけで被害を免れたことは間違いありません。