100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

VOL6 明治の宮古の街並 其の1(新町通り)

2013-09-06 17:20:38 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 

横町裏山から藤原方面を望む

横町の裏山からの南方の藤原方面を展望した写真です。一番手前の街並は横町、その左は本町、斜めに伸びる道は新町から向町に繋がる通りです。その先に木造の新晴橋(今の宮古橋)が見え、橋を渡った先の白い大きな建物は現在の藤原小学校の敷地にあった県立水産学校の校舎です。その先には今は藤原埠頭となっていますが、当時は白砂青松を絵にかいたような景色であった藤原須賀の北端の松林が見えます。

私がこの写真を見てまず驚いたのが人家の密集具合です。今は東日本大震災の津波により本町や向町の多数の建物が消失し空き地だらけとなりましたが、震災前と比較しても数段混み合っていて、当時の本町・新町界隈の賑わいが分かります。
また写真を良く見ると、ナント通りに面した店々にアーケード状の軒(雁木がんぎ)が連なっているではありませんか。雪国の象徴とばかり思っていた雁木が明治の宮古の街にもあったとはとても興味深いものがあります。さらに拡大すると新町中程の店先に「熊谷」と書かれたノボリらしきものがひるがえっているのが見えます。今の熊谷土地当時の熊谷商店と思われ、これでここが新町と特定できます。

さてこの写真は、新町通りが斜めに見えることから、通称御深山(オシンザン)様の高みから俯瞰したものと思われます。この御深山の東寄り、常安寺墓地の西外れの山中に宮古にとって忘れてはならない史跡があります。(別稿「町割り石」に続く)

コメント   この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« VOL5 宮古測候所(下閉伊郡鍬... | トップ | VOL7 明治の宮古の街並 其... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

明治の下閉伊郡(現宮古市他)」カテゴリの最新記事