100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

VOL8 町割り石(宮古の町の原点)

2013-09-07 12:34:59 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

今回は、写真帳から外れて、前々回の最後に書いた続きをします。

400年前の宮古町割り

慶長の大津波の関係とは

町割りとは、今でいう都市計画のことです。

宮古にはVOL3でも書いたように何度も大津波が押し寄せていますが、特に400年前の慶長の津波(慶長16年/1611年)では、当時八幡山と舘合の合間にあった常安寺を押し流し、宮古村は山麓の数戸を僅かに残すのみで壊滅的な被害を蒙ったと記録にあります。(先の東日本大震災の大津波は、埋め立て等により海岸線が沖に延び、また防潮堤等の効果があったのか、江戸初期に常安寺あった付近よりずっと手前で波は止まっていますので、もしかすると宮古に関しては慶長の大津波は今回より大規模だったのかも知れません)

その当時宮古を治めていたのが南部藩初代藩主南部利直候で、4年後の元和元年(1615年)に宮古を訪れて、20日間滞在し復興の陣頭指揮をとったと云われています。宮古代官所に残された記録には5月5日藩主が小本代官を伴って眺望のよい横町の小山に登り、松のそばの大石に上がって宮古一帯を見渡し、町割りを定めたとあります。そして最初に決めた町が今の本町です。それからこの大石を「町割り石」と呼ぶようになり今に伝えられています。
その18年後に小本代官が本町から横に伸びる横町、本町の隣り通りに新町、山口川を渡った向いに田町と海沿いに南部藩の水夫が住む御水主町(後の向町)の4町が新たに決められました。

開町と云う言葉があるならば、元和元年(1615年)こそが宮古開町元年に当り、正にこの大石は、宮古の原点であり宮古市の記念すべき大切な史跡です。すると再来年の平成27年(2015年)は、宮古市開町400周年の区切りの年となります。しかし今宮古市は、なぜかこの史実を顧みず、この町割りと同時期の宮古港を南部藩の外港としたことにのみ目を向け、宮古港開港400周年記念として様々なイベントを企画していると聞きます。なぜ港のみなのか分かりません。街か港かで綱引きをするつもりは毛頭なく、今は「宮古開町&開港400周年」として全市を挙げて東日本大震災からの復興に当るべきではないでしょうか。

また元を辿ればその4年前に遭った慶長の大津波(慶長16年/1611年)から立ち興ったのが宮古の街です。
この史実を宮古の皆がしっかり捉えていたら、2年前の平成23年(2011年)は、慶長16年の大津波からちょうど400年に当たっていたので、何かしらの警鐘を鳴らしその心構えを説くことができて、もしかすると東日本大震災の犠牲が多少とも軽減できたかも知れないと思うと残念でなりません。そしてこの写真帳はそれから300年後に作られたことを思うと何かしらの縁を感じます。
しかし残念なことに町割り石の存在は今ではすっかり忘れ去られ、案内板一つなく、利直候が登った沢田から道は石垣で閉ざされ、常安寺の墓地の間を縫って西の外れに残る山道を藪をかき分けながら辿りついても、周りに木が生い茂り残念ながら眺望がよくありません。

下の図面1は、安政4年(1857)に作成されたものです。翌年が井伊直弼の安政の大獄があった年ですから、幕末の大変動が正に起きなんとなるときで、宮古開町から240年余り経った頃です。既に街並みは整い、代官所前には下町ができ、移転した常安寺も境内も整っています。

 

下図2は元禄5年(1692年)に描かれた当時の宮古村の建物の間口を1戸毎に表記した図面の復元図です。本写真帳にはありませんが、私のデータにあったので参考までに転記します。

 

余聞(1)

 私がこの町割り石を初めて見に行ったのは約50年前のことです。当時健在であった明治27年(1894年)生まれの祖父に連れられて寺に墓参りに行った時に、「町割り石」とその傍にある「唐かさ松」を知っているかと尋ねられ、知らないと答えると、ではと連れて行かれ、南部の殿様の話を教えて貰いました。祖父が云うには、祖父が幼少の頃は町割り石の周りはきれいに草木が刈り取られた広場となっており、子供達はよく相撲などをして遊んだそうです。
 また私は12.3年前に小学生だった息子の自由研究の題材に町割り石を取り上げて、無理やり連れて登ったこともありました。その時町割り石の由来を伝えた筈ですが、先日聞いたらすっかり忘れていました。小さい子には無理だったかもしれませんが、大切な試みと今でも思っています。

 私達は400年前の慶長の大津波の教訓を生かすことはできませんでしたが、今回の東日本大震災の記憶は、祖父から孫へ、孫から子へと、長く伝え残して行かねばなりません。

コメント   この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« VOL7 明治の宮古の街並 其... | トップ | VOL9 市日風景 (下閉伊郡宮... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

明治の下閉伊郡(現宮古市他)」カテゴリの最新記事