100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL7 明治の宮古の街並 其の2(横町通り)

2013-09-06 18:13:26 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 

判官稲荷神社から横町通りを望む

沢田の裏山にある判官稲荷神社から、横町通りを経て館合方面を見渡した風景です。宮古小学校は右手の山陰にあります。ご覧のとおり横町から先には人家が見えず、今の保久田、末広町や宮古駅一帯は、一面の田圃が広がっています。末広町に家が建ち並び始めるのはこれから10数年後の大正末期からです。

人家の屋根は、重厚な瓦葺は殆ど見えず、板葺や木端葺にあるいは杉皮を葺いて石を重しにしたもので、白く光って見える薄い屋根はトタン葺きでなく太陽光にに反射した板葺と思われます。(日本で最初にトタンが作られたのは明治39年(1906年)のこと、宮古でトタン屋根が各所に見えるようになったのは大正9年以降のことです)

実はこの付近一帯は明治37年(1905年)にこの写真の左側に位置する新町地区から出火し、本町・沢田・田町・横町と燃え広がり、当時の宮古町の戸数1,220戸の内半分近い580戸が焼失する大火災に見舞われたばかりですので、写真に映る大部分の家屋はその後再建されたもので、火災に備えた白壁の蔵も散見されますが、大部分が板葺き・木皮葺きでは、火災の延焼が免れ得ず、狭い敷地で家屋がひしめきあっていては大火が発災するのは至極当然のことです(江戸時代や明治・大正の宮古の歴史を見ると大火の連続でした。しかしトタン屋根が普及した大正後期からめっきり大火が少なくなっています。宮古の災害を中心とした年表をいずれアップするのでご覧下さい)

さて横町通りの幅員(4間/7.2m)は現在と変わらぬ筈ですが、今より広くすっきりとして見えるのは余計な電柱類がないせいでしょうか。路端には今は蓋がされてしまいましたが、防火用水も兼ねた沢水を湛えた堰が流れています。この道も宮古で最も早く作られた道(慶長年間、前篇参照)の1つで、今は市道ですが、実はその前は県道、さらにその前は国道でした。但し明治45年は国道であったかは定かではありませんが、鍬ケ崎の港から盛岡に向う通称「宮古街道」の一部でした。また付近一帯は江戸から明治にかけて何度も大火に襲われており、当初はもっと狭かった道幅も延焼防止の為に広げたもので、写真に映る通り両側の建物のから推察するに、もしかすると明治37年の大火後に拡幅工事がなされたのかも知れません。
また先のvol2の宮古郡役所編にも書きましたが、宮古に電燈が点いたのが明治45年のことで、666戸1,911灯と記録にありますので、当時宮古の中心地であったこの地区は当然いち早く電信柱が設置されたはずですので、電信柱が見えないこの写真が撮られたのは明治45年より少し前かも知れません。

(2013.9.6に投稿したものを、2017.2.11に一部修正)


VOL6 明治の宮古の街並 其の1(新町通り)

2013-09-06 17:20:38 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 

横町裏山から藤原方面を望む

横町の裏山からの南方の藤原方面を展望した写真です。一番手前の街並は横町、その左は本町、斜めに伸びる道は新町から向町に繋がる通りです。その先に木造の新晴橋(今の宮古橋)が見え、橋を渡った先の白い大きな建物は現在の藤原小学校の敷地にあった県立水産学校の校舎です。その先には今は藤原埠頭となっていますが、当時は白砂青松を絵にかいたような景色であった藤原須賀の北端の松林が見えます。

私がこの写真を見てまず驚いたのが人家の密集具合です。今は東日本大震災の津波により本町や向町の多数の建物が消失し空き地だらけとなりましたが、震災前と比較しても数段混み合っていて、当時の本町・新町界隈の賑わいが分かります。
また写真を良く見ると、ナント通りに面した店々にアーケード状の軒(雁木がんぎ)が連なっているではありませんか。雪国の象徴とばかり思っていた雁木が明治の宮古の街にもあったとはとても興味深いものがあります。さらに拡大すると新町中程の店先に「熊谷」と書かれたノボリらしきものがひるがえっているのが見えます。今の熊谷土地当時の熊谷商店と思われ、これでここが新町と特定できます。

さてこの写真は、新町通りが斜めに見えることから、通称御深山(オシンザン)様の高みから俯瞰したものと思われます。この御深山の東寄り、常安寺墓地の西外れの山中に宮古にとって忘れてはならない史跡があります。(別稿「町割り石」に続く)