「善光寺宿」
残暑厳しいこの日善光寺に戻ってきた。これから新町宿を経て牟礼宿をめざす。
北国街道は善光寺を正面に見て上ってくると本陣の先参道入口で右手に折れる。
この交差点に長野の道路元標がある。振り返ると宿場のあった通りを一望できる。
街道はこの角も含めて右左右左と4回鈎状に折れて宿場を出て行く。
勾配も上下上下上とその度に変化し複雑な造りになっている。
二つ目の角、西宮神社は恵比寿様が祀られ、暮れのゑびす講の夜は大変な賑わいとなる。
四つ目の角を折れると一里塚跡に柏崎地蔵が鎮座する。謡曲「柏崎」にちなんだものだ。
街道はここから長く緩やかな右カーブを続け北から東へと進路を変えていく。
時折格子のある古い家が現れて街道筋の面影を見せてくれる。
左手に大きな古木が茂る吉田神社、ここには全国六十八の「一の宮」の石祠が祀られている。
お砂踏みのようなご利益があったのだろうか。さらに500mほど信濃吉田駅付近を左に折れる。
角には角源という古からの商店がある。
「新町宿」
北に進路を変えた街道が浅川を渡った辺りからが新町(あらまち)宿。
稲積・徳間・東条の三村一宿で月を上中下旬で分けて役割を担ったそうだ。
遺構は残っていないが、本陣を兼ねた稲積の問屋吉田家の敷地に辛うじて案内板がある。
本陣問屋の先500mほどで飯山道との分去れになる。
道標には「右いひ山なかの志ふゆくさつ道、左北國往還」とある。
「右は飯山・中野・渋温泉・草津温泉へ」とは現代の道路案内にも負けない情報量であり
観光案内ではなかろうか。
蚊里田八幡宮の鳥居辺りから街道は長野盆地を抜けるための丘陵越えの勾配となる。
この先所々道の両側に石垣積みのある箇所があり、すれ違いのできない幅員になって、
本来の北国街道の道幅を感じることができる。
さて蚊里田神社は男根石を神体としているので、花街からの参詣者が多かったとされる。
左右にりんご畑が広がり始める。品種によっては真紅に色付いて収穫の日を待っている。
明治天皇北陸巡幸の小休所には飯山城の薬医門が移築されている。
田子神社裏に清水が湧く。田子清水を利用して街道には茶屋が建ち八軒の造酒屋があった。
先ほどの小休所に供せられたのもこの湧水だ。さらに北側には田子池という溜池がある。
この辺りに東山道支道の田子駅があったと言われる。
丘陵越えのピークに三本松がある。県道の交差点も三本松だ。
江戸に奉公にでる15才の一茶を父親が柏原宿からこの辺りまで送ってきたとされる。
“父ありて明ぼの見たし青田原” の句碑が刻まれている。
街道が丘陵を下ると眼前に北信五岳(飯綱・戸隠・黒姫・妙高・斑尾)の眺望が広がる。
四ッ谷一里塚は一対が残る。東塚は民家の裏、西塚はりんご畑、所有者は牟礼神社だ。
「牟礼宿」
牟礼宿は鳥居川の谷にある。街道は信越本線・R18と再会する。段丘を降りる坂がきつい。
信越本線のガードを潜り八蛇川の橋を渡ると桝方になっていて牟礼宿となる。
牟礼宿は約600mほどのほぼ直線で広がっているが古い遺構は殆ど残っていない。
鎌問屋をしていた山本家が卯建を揚げる幕末の建築を残しているくらいだ。
牟礼宿は鉄道建設に反対し駅は500mも離れて設置された。これも衰退の一因だ。
牟礼宿本陣は飯綱町(旧牟礼村)役場辺り、その敷地は旧国道18号線が横切っている。
牟礼宿付近は一里一尺、つまり4km進むごとに積雪が30cm増えると言われる豪雪地帯。
役場前交差点の信号機は積雪の負担を減らすため縦型になっている。
本陣跡裏の高台には牟禮神社が鎮座し、境内には上杉景勝の制札が残る。
「善光寺宿」から「新町宿」を経て「牟礼宿」までは13.7km、約3時間30分の行程だった。