旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

日光道中・奥州道中紀行4 古河宿~野木宿~間々田宿~小山宿~新田宿~小金井宿 

2017-06-19 | 日光道中・奥州道中紀行

07:20 「古河宿」
 福法寺の山門は古河城二の丸御殿にあった「乾門」を移築したものだ。
唐破風(からはふ)造りの屋根をのせた平唐門(ひらからもん)は、唯一残る城内遺構となる。 

 

江戸時代から両替商を経て、その後酒問屋として栄えた「坂長(さかちょう)」の店蔵は、
旧古河城の文庫蔵を移築したもの。現在はお休み処として観光客を迎えている。

Navi22-2. 本町2丁目交差点先2つめ信号(左折) 曲の手通りを140m

Navi22-3. スーパーとみや(右折) よこまち柳通りを700mで県道261号に戻る

 

城下町特有に鉤の手に曲ると「よこまち柳通り」、旅籠・茶店・遊郭が並んでいた界隈だ。
古民家が多く残っている、うなぎの武蔵屋本店もそのひとつだ。

Navi23. 野木交差点(左折) → <国道4号> → 粟宮交差点 11.3km

 

08:00 「野木宿」
 江戸から10番目の「野木宿」は下野国に入って最初の宿場だ。現在その面影はない。
宿場の規模は天保年間に於いて、本陣1、脇本陣1、問屋場4、旅籠25軒となっている。 

少々寄り道をした「野木神社」は、約1600年前、仁徳天皇の時代の建立。
征夷大将軍・坂上田村麻呂が延暦21年(802年)にここに詣で、勝どきを挙げたと謂われる。
境内脇には紫陽花が今を盛りに咲いている。

 

野木宿の町並みは10町55間(約1.2km)と長い。
宿並みの中に「野木一里塚」があった筈だが何の痕跡もない。
宿場の北口には「是より大平」の道標が建っている。
観音堂と十九夜塔が建つ辺りに、土塁と木戸が設けられていたそうだ。 

 

08:55 「法音寺・友沼八幡」
 友沼には立場があって "とろろ汁" が名物であったと云う。
「法音寺」には安永9年(1780年)に建てられた芭蕉句碑がある。
「道の辺の むくげは馬に 喰われけり」とあるがこの地で詠まれた句ではない。
斜向かいの「友沼八幡神社」は日光参詣の将軍の小休場であった。

 

09:10 「乙女一里塚」
日本橋から18番目の「乙女一里塚」は西塚のみが残る。国道4号線の69キロポストが建つ。

 

09:55 「逢いの榎」
 江戸へ18里、日光へ18里、日光道中の中間地点に在るので「間の榎」と呼ばれていた。
時代の流れとともに、いつしか縁結びの「逢いの榎」として祖師堂が建てられた。
願をかけに訪れる男女が多かったと云う。
榎を過ぎ緩やかな上りになる琴平神社辺りが間々田宿の南入口、土塁と柵があったそうだ。 

10:10 「間々田宿」
 江戸から11番目の「間々田宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋場3、旅籠50軒の規模。
元和4年(1618年)に宿駅となってから、結城藩領、古河藩領、直轄領、宇都宮藩領と
目まぐるしく所属が変わっている。

旧い遺構はなく、本陣青木家跡にも真新しい案内板があるのみだ。

 

宿内の茶屋「乙女家」で一休み。
栃木県特産の "かんぴょう" がジャムになって入っている「るかんた」をいただく。
甘夏風味と抹茶風味が美味しい。

少々寄り道をして「間々田八幡宮」、宿の総鎮守で天平年間(729~749年)の勧進。
平将門の乱の折、藤原秀郷が戦勝祈願をし、見事乱を平定したと云われる。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏との合戦に臨む源頼朝も戦勝祈願に立ち寄ったと云う。

10:35 「西堀酒造」
 日本橋から19番目の「間々田一里塚」は何の痕跡も残っていない。
粟宮には "若盛"・"門外不出" の「西堀酒造」が日光連山から湧き出す天然水で酒を醸す。
まだ先が長いので泣く泣く試飲を断念する。

Navi24. 粟宮交差点(直進) → <県道265号> → 喜沢分岐点 6.0km

 

11:45~13:15 「小山宿」
 「小山宿」は五街道追分と云われ、壬生通り・佐野道・結城道が分岐した交通の要衝だ。
本陣1、脇本陣2、問屋場4、旅籠74軒とかなり大きい規模なのだが、遺構は何ひとつない。
それにしても大衆食堂やら蕎麦屋の1軒も見つからず、なんと1時間30分も費やした。

 

街道から左右に朱塗りの灯籠がびっしり並ぶ参道を進むと「須賀神社」が鎮座している。
天慶の乱に際し、藤原秀郷公が日夜、素盞嗚命に戦勝を祈願し、成就することが出来た。
そこで天慶3年(940年)、京都の八坂神社から御分霊を勧請して祀ったのが始まりと云う。
社宝の「朱神輿」は、日光東照宮を造営した職人により東照宮を縮尺して造られたものだ。

 

小山市役所は、関ヶ原前夜の慶長5年7月24日、上杉討伐途上の徳川家康が、石田光成
挙兵の報を受け軍議「小山評定」を開いた所であり、評定所跡の碑がある。
さらに北隣りは日光参詣に向かう徳川将軍の宿泊所である小山御殿跡だ。

 

12:50~13:30 「喜沢追分」
 壬生通りの分岐点「喜沢追分」は旅人が休息した茶や立場があったところ。
現代の旅人もやっとこの地でお昼にありつく。「蕎麦きはる」で生ビールを呷る。
"酢蛸" で疲れはとれるだろうか。"十割蕎麦" は "とろろ" でいただくのだ。

Navi25. 喜沢分岐点(斜右) → <市道> → 羽川小学校 2.3km

 

13:35 「喜沢一里塚」
 日本橋から21番目の「喜沢一里塚」、西塚は雑木林の中にほぼ原形を残している。
一方、東塚は宅地の売れ残った一角に残土が盛られている感じだ。
一里塚を過ぎると街道は暫し東北新幹線の側道となって北上する。 

Navi25-2. 菅沼整骨院(斜左) 400mでR4に戻る

Navi26. 羽川小学校(斜右) → <国道4号> → ミニストップ自治医大駅西店 5.3km

14:00 「新田宿」
 羽川小学校あたりが、江戸から13番目「新田(しんでん)宿」の江戸方の入口になる。
本陣1、脇本陣1、問屋場1、旅籠11軒の規模は、日光道中では最も小さな宿場であった。
本陣跡には四脚門が残っている。

 

新田宿には幕府代官陣屋が置かれていた。もちろん遺構は残っていない。
陣屋跡の向かいには薬師堂がある。

 

Navi26-2. 銅市金属工業(左折すぐ右折) 1.9km、力道寿しでR4に戻る

右手に佐野手打ラーメンの赤い看板が見えたら銅一金属工業の角を左折。
さらに15m先を右折すると、建物(倉庫)の影に石仏群が佇んでいる。
宝暦2年(1752年)の供養塔、寛政12年(1800年)建立の馬頭観音などだ。
ここは新田宿の日光方の入口でもある。

国道4号線の概ね100m西側を約2km、道なりに真直ぐ進む。
市道が遊歩道になり、暗渠道になり、一部私道?を通り、再び住宅街の市道になる。
やがて街道は畑に突き当たるのだが、公園になった一里塚が目の前だ。
右折して30mで国道4号線に戻って左折となる。

 

14:40 「小金井一里塚」
 日本橋から22番目となる「小金井一里塚」は、東塚西塚の一対が立派に残っている。
西塚には榎、東塚には檪(くぬぎ)と榎の巨木が生えている。
梅雨の晴れ間の日曜日、古河宿からひたすら焼けたアスファルトの国道4号線を歩いた。
行程は25.0km、7時間20分。小金井一里塚は「小金井宿」の江戸方の入口でもある。

 


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